第36話 余裕
アトミックス社の社長室でラーツはキーボードを叩いていた。ブラックコーヒーの苦味のある香りで心が落ち着いている。論文が滞りなく進んでいることが嬉しかった。名声など求めていないが、思考回路を明瞭にするためにやっていることだ。一度文章にすればその分雑事を詰め込む容積が生まれる。
「社長、御来客があるとのことですが」
内線に出た秘書が問いかけてきた。
「断わってくれ」
「お断りしたそうですが、帰らないらしく。カドレックさんというインターン生だそうです」
革張りのイスに身を凭たせ、吐息した。カドレックか。
くつくつと腹の底から笑いが漏れてきそうだった。面白いやつだとも思っていたが。腕時計を確認して退勤時間には少し早いことを確認する。会議はまだ一つ残っていた。
「今日の予定はキャンセルだ」
「はい?」
ラーツが、つと視線を向けると秘書は少々納得のいかぬ様子だったが黙考のあと、分かりましたと呟いて手帳に書き込んで斜線を引いた。
「要件を聞いてくれないだろうか」
笑いながら命じる。電話の向こうのラナンへ向けての牽制だ。相手はどう出るか、非常に興味深かった。
秘書が怪訝な顔で内線の向こうに相槌を打って、受話器を抑えながらいった。
「食事の約束がある……と仰ってるそうです」
ラーツはあまりの可笑しさに失笑した。今日一番面白かった。そう思う。
「いいよ。そうだ。これから食事だ。フレンチを予約してくれ」
上着を羽織っていると秘書が言葉を失した様子で少し固まっていた。だが。
「社長、……本当に行かれるのですか?」
ラーツは威を含まぬ顔で爽快に笑って見せる。
「そうだよ、フレンチだ」
車はラーツが運転した。助手席にラナンを乗せている間中もずっと彼のことを考えていた。ルォシーゆずりの美しい顔とラーツから引き継がれた鮮やかなターコイズの瞳。彼は不服だろうが、それでも血の繋がりはあるのだ。
あの日とは対照的にラナンが窓の外を眺めて、一方のラーツが彼に釘付けだった。
「フレンチは好きかい」
からかうような問いかけだったがラナンは眉一つ動かさず、そして答えもしなかった。
「いつもは大切な人と食べにいくんだ。女性も招待したよ。キミの母親とはいかなかったが」
漆黒の睫毛が微かに揺れた気がした。
さらにラーツは言葉を重ねる。
「キミの母親は官能的だったよ、演じている時などそれが顕著だった。あの美しい髪とカナリアのような声、そしてなだらかに落ちた細い腰の……」
「サディスティックなあんたを蠱惑するほどにか」
彼の中でなにかが変わった? ラーツは声音の跳ね上がりに目を眇めた。
「キミがそのようなセリフ吐くのかい」
「あんたの子だろ」
冬の景色に声が沈み込んでいく。信号待ちでラーツは煙草を吸った。
フレンチの店に着くと、待ち構えていた支配人にプラハの景色が眺望できる良い席に案内された。二人掛けの丸テーブルには深紅のテーブルクロスが敷かれ、薄ピンクのラナンキュラスとグリーンのカーネーションが豪奢に生けられている。着席すると二人の間を仕切るように立てられた燭台に火が灯された。
ラーツは慣れたようにメニューを開くと問いかけた。
「わたしのおすすめでいいだろうか。キミは鴨は好きかい」
ラナンは腕をつき外を向いたまま応えなかった。
「鴨を」
支配人に命じると笑顔を残して引いていく。いなくなったのを確認するとちらとラナンを見た。彼は涼しげな顔で外を見ている。あの日の敗戦となにかが違うのか。指でテーブルを打つ。
量りかねる顔だった。
「キミはディアベルとやらを失ったろう。到底わたしの前に姿など表せぬと思っていたが」
独り語りのようで怖かった。あくまで応じないということだろうか。
「キミが仮に手段を得たとて、わたしの力量には敵わない。キミはわたしに会いにきたのかい」
するとラナンはすっと視線を寄せて初めてラーツを正面から見た。
「ああ、そうさ。僕らは親子だろ」
まるで果実の薄皮を剥ぐように言葉を重ねている。静かなる視線に狂気を乗せて。
純白の皿の鴨を切り分けながらワインを飲んだ。闇を思わせるフルボディの深い赤だった。
重たい味で鴨の脂をすっと流すと笑んで見せた。喉の奥で甘味と渋みが混ざり合う。最上の気分だった。
「フレンチは好きだ。食べている人間を自惚れさせる」
ラナンはなにもいわずに鴨を口へと運んだ。その様子を見ていると疑問が湧いて止まらない。他人にこのような興味を示すのは初めてだった。
(ただ食事がしたかっただけなのか。違うだろう)
「ルォシーの思い出を」
そう促すとラナンは静かに語り始めた。
「忙しかった母と一度訪れた遊園地でオレはわがままをいった。オレはあんたに会いたかった」
「でもわたしはそれを拒んだ」
ラナンは静かに目を閉じるとこういった。
「人生にもしもなんて無い。もしあんたに会っていたら人生が変わっていただろうか。母のいた未来があっただろうかと考えても」
「情緒的なことを求めるようには見えないな」
「あんたほど冷徹にはなれない」
そういうとラナンは上品ぶらない手でグラスの側面を持ち、最後の一滴まで飲みほした。
かんっとグラスを置くと微笑んだ。
「さあ、もう一度あの続きをしよう。語るべきことはもう済んだ」
再戦を望んでいたのか。しかし、彼は。
「今度こそキミは死ぬかもしれないと。分かっているかい」
脅しじゃなかった。このように頭の切れる人物を少し惜しいと思っていた。そうするとラナンはくつりと笑った。
「安心しろ。あんたはスリルを味わいたいのだろう」
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