6章 不屈のマリオネット

第35話 悪魔の契約

 あの出来事から間もなくアデーラとは別れた。一方的な愛が冷めたのだろう。セミナーが一緒になることもなければ食事することもない。授業で会っても挨拶する程度の疎遠な友人になった。一方のメイリンとは連絡を取り合っているが、うわべだけの会話を重ねて退廃的な日々を過ごしている。彼女は忙しくラナンの日常に気を留めない。

 研究室に通いつめるだけの気概を持てず、仮席は置いているが熱心になるものでも無かった。


 夕凪のような心にあるのはあの日の敗戦、ラナンはもっとも憎むべき仇敵に負けたのだ。

 脳裏でもう何度もあのシーンを鮮明に描いている。ラーツに打ち破られた人生で一番の屈辱の光景を。

 堕ちたディアベルの儚さに自身の無力を知った。なにも出来なかった。母の死に対しなにも尽くすことが出来なかったあの頃の日々のままに無力な自分を――


(やめよう)


 首を振るうと視線を下げた。こんなに疲弊しているのにどこか気真面目な自分は講義を受け流さないでいる。辛さに潰れそうだった。

 手元にもうディアベルはない。せっかく手に入れた力を己の未熟さで失ってしまった。


 講義が終わると講義棟を出た。キャンパスを行き交う同級生の顔が道化に映る。笑っている、みんな腹の底で笑っている、あの躯のように。

 笑っていたのは本当に母だったのか。ずっと心に愚問がたれ込めたままだ。

 ラーツはマリオネットにルォシーの骨を組みこむことで力を得ていたのか。そして、あの指の欠損。代償を払っていないとはなんだ。


 ラナンは一日の講義をすべて終えると一人旧市街広場に足を向けた。




 冬の気配がする街角には気の早いクリスマス商戦のアイテムがずらりと並ぶ。気の急く義母などもすでにたくさん買ってきて、家族で過ごすかけがえのない時間をそれは楽しみにしている。


 アイシングの乗ったジンジャークッキーやクラックの入った美しいガラス玉や妖精のオーナメント、手脚を紐で結節させたつややかな木組みのサンタとトナカイの飾り物。さすがにまだモミの木などはないが、訪れた人々はこぞって見てゆく。

 ラーツとはクリスマスまでの決戦になりそうだ、と足を裏通りに向けた。


 迷わずに訪れたのは旧市街広場の付近にある暗がりの劇場跡だ。


 古い時代に旧マリオネット協会という団体があった場所だが、今は見る影もない。ゴシック様式の繊細であったろう外観は鳴りを潜め、歴史の薄闇を背負いながら辛うじてそこに健在している。


 建てつけの悪かった木戸を力いっぱい引くと幼かった九年前の自身の姿を思い出した。力いっぱい引いてなんとか開いたその扉は今よりずっと重かった。


 暗闇でスマートフォンをかざすと整然と置かれた長椅子が浮かび上がり、教会の礼拝堂のような厳かな雰囲気を醸し出す。目を閉じると目裏に黒衣の葬列が浮かび上がった。

 死人の魂を蘇らせるため結ぶ悪魔との秘密契約、時代とともに人々の手から廃れていったマリオネット呪術を扱うものは今では少ない。悪魔との契約を強かに守り続けるのは闇に身を委ねた一部の人々だけだ。


 天上から剥がれおちたコンクリート片を踏みながらその奥へと進むと祭壇の裏に回った。床のとっかかりを引き上げると隙間に埋もれていたコンクリート屑が埃立った。

 床板を打ち捨てると出現した隠し階段を下りていく。


 下がるにつれて肌を涼気が纏い、異様な空間を演出する。人の雑念を練り合わせたような気持ち悪さが離れずに微かな呼吸を不規則にさせた。

 緊張した面持ちで下り切るとコンクリートが打ちっぱなしの飾毛のない四角い部屋にたどり着いた。


 灰色の床の中央に契約の召喚陣がある。

 極太の刷毛で描かれた人血は荒く黒ずんでいた、あの頃のままだ。


 召喚陣の周りに等間隔に置かれた八本のろうそくにライターで順に炎を巡らせると吐息した。手を広げると祈りを奉げる。どうか、もう一度力を。

 炎が影に激しく揺れた。消えそうになるほどに強く揺らいで瘴気が立ち上る。

悪心に満たされるとろうそくの上に八人の人影が揺らいだ。



――悪魔のマリオネットだ。



 滑稽な道化の衣をまとい、古の時代の陰湿な空気を纏った悪魔たちは闇で微笑んでいる。


『そなたラナン・シェンといったか』

『ディアベルを失ったな』


 壁に反響しながら聞こえくる声はどこか空恐ろしく不気味で、心を握りつぶすように冷たい。


「ディアベルでは足りなかった」


 ラナンの言葉にマリオネットの一人が目を剥いた。


『ディアベルが弱いのではない、貴様が弱かったのだ!』


 怒号が落ちる。声を出すのも躊躇われるような重さだった。


「ああ、そうだ。オレは弱い。手に入れた力さえも失うほどに」

『ルォシーとは戦えなかったか』


 中央に座した一体が静かに問いかけてきた。


「あれはやはり母なのか」


 信じたくは無かったがラーツとの戦いの最中、その気配を自身も感じていた。


『灼熱の地獄に落ちたルォシー・シェンの魂とラーツは契約を結んだ』

『あの男は異端過ぎる』

『我々の手に負えぬ』


 殺してなお、死人の魂と契約を結んだとは。天に登れぬ母の無念を思った。


「母の骨を取り戻したい。一つ残らずに、力を貸せ。お前たちの望む血と暴力を浴びるほど味わわせてやろう」

『それでは足りぬ』

『対価を払わねば。契約など成立せぬ』


 代償か、ラーツの言葉が脳裏に浮かんだ。欠損した小指はやはりそういうことか。

 ラナンはふっと笑むと言葉を強く放った。


「払わぬとは一言もいっていない。望みを遂げられるのならばお前たちの望むものすべてを差しだそう。憧れた幸せも、欲しかった未来さえも」


 ターコイズの瞳が悪魔どもの躊躇いを凌駕するほどに煌めいた。その強き覚悟、命さえ奉げるほどに。

 ラナンの決意に呼応して、召喚陣が青の炎を吹き上げる。地獄の赤よりもなお強い青の炎を一身に纏いながらラナンは地獄の笑みを浮かべた。体中に覇気が満ちていく。


『いいだろう、お前に新たなる力を授けよう』

『我らとの契約を忘れるな』

『未来を棄てようというのだ。それなりの覚悟があってのこと』

『マリオネット呪術は悪魔の契約だ。それを忘れるな』


 諫言を残しながら衆人は消えていく。その中央でラナンは佇んでいた。指先に真新しい小さなマリオネットが揺れている。身に溢れる力を感じ取り、拳を魂で握り締めた。


「殺してやる、ラーツ。待っていろ」

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