第37話 失墜

「スリル?」


 ラーツは言葉尻を吊り上げた。これまで味わったことのない屈辱だった。オレがお前ごとき下賤なものにスリルを感じると、そういいたいのか。


「そういう言葉は圧倒的に力を保持する猛者のセリフだ」


 ナプキンで口をぬぐいながら不快を見せる。上着の内ポケットに手を突っ込むと小さな傀儡を取り出した。テーブルの上に吊るす。器用に繰って右手で首を殺ぐまねごとをした。つうっと怪しくテグスが煌めく。

 ラナンは可笑しそうに体を折り曲げてくつくつと笑うイスを少し倒して脚を組み、靴先を揺らした。


「矮小だ」


 威圧する言葉の冷たさに血の気が引いて、ラーツは青ざめ身震いした。彼の中になにかがある。なにを隠している。


 ラナンの足元から同心円状に広がった闇にすべての景色が飲まれてゆく。レストランの従業員、客、テーブル、イス、花、外の景色。すべてが消えた後、ラナンがつっと立ち上がると彼の座っていたイスもまた闇に飲まれた。


 亜空間の中心でラナンは指先に小さなマリオネットを吊り下げていた。ひと月前に相対した時とは違う、漆黒のマリオネットを。


 ラーツは立ち上がり、消えていく自身のイスとともに言葉を叩きつけた。偉ぶるのが常の自身にとって相手にひれ伏すなどあらぬこと。


「力を得たようだが、わたしとお前の力量の差が埋まったか」


 ラナンは無言のまま右手で空を切った。テグスの残像が闇に瞬刻煌めく。次の瞬間、頭上に青い光が走った。なだらかに召喚文字が刻まれてゆく。細かな百合に至るまですべての模様を描き終えるとラナンの手元の人形と共鳴するように空間がオーン、オーンと異音を奏で始めた。


 ラナンは両手を広げて闇を抱く。一陣の風が吹き荒れて優美な黒衣の末端を闇にたなびかせ、地に舞い降りたのは獅子、鰐、象、三つの獣の顔を持ち六枚羽を広げた異形の悪魔――


「王者アスモデウス」


 天を覆うほどの覇気に畏怖されてラーツは言葉が出なかった。


「縮まったのではない、開いたのだ。オレとお前の力量の差は。どうしようもないほどに」


 唾を嚥下すると冷や汗が床に垂れた。その水滴もまた影に吸い込まれてゆく。


「懺悔の準備は出来ているか」


 ちっと舌打ちするとラーツはマリオネットを取り出した。闇の中でくるくる回転しながら彼女は呼ぶ言葉を待っている。


「ルォシー」


 名と同時に瘴気が漏れ出した。紫の召喚陣が描かれて中から骨身の悪魔が這いだす。先駆けの印を切って早々に刃鎌を出現させるとルォシーに固く握らせた。


「母と対峙すら出来なかったひよっこだろう」


 ラナンはふっと笑みを漏らした。


「本当にそう思うか」


 ラーツがマリオネットを振るう。動きに合わせて躯が滑空するように地を蹴った。

 刃鎌で大きく空気を凪ぐ。鎌先がアスモデウスの胴に触れて、次の瞬間――


「なっ」


 金属がひび割れる。鎌の欠片が星屑のように散らばった。ラナンが中指を繰るとアスモデウスが両手で無防備な躯の喉を掴み上げた。


「無念の魂よ、どうか安らかに旅立てますように」


 ラナンは首にかかっていた逆十字架を握り締めると目を閉じて静かに祈りを込めた。

 吊り上げられた躯の足元に青の召喚陣が描かれていく。闇の床から地獄の炎が吹き荒れて禍々しい熱で粗骨を焼いていく。


「小癪だ!」


 ラーツは左手を大仰に振り払うと強力で躯を跳ねのけさせた。離れた場所に着地した踵がしなってがらりと軋む。

 アスモデウスは緩慢な速度で低空飛行しながら拳を握ると呪を込めた。召喚陣がステップを踏むように連続出現してラーツ自身を追い詰めてゆく。


「ルォシー、戻れ」


 防衛のために戦線を引き、躯がラーツを守護した。

 冷や汗が滲みでて止まらない。どうしてこのような力をあいつが――


「契約を交わしたのか」


 言葉が急いた。逃げるための手段を考えても活路は思い浮かばない。死ぬまで逃がさないという無言のメッセージを受け取り、心音がざわめいている。


「お前が教えてくれたのだろう。オレも代償を払った」


 口元を弓なりに曲げて、ラナンは満悦の表情で笑った。


「貴様らすべてを倒したあと、オレの魂は悪魔により地獄へと持ち去られる。永遠に天国など望めない」


 彼の背後から薄闇が立ち上るのが見えた。おそらく精神さえも飲まれているのだろう。身を賭して倒しにきたということ、覇気の正体はそれか。


 ラーツは印を切った。足元に鮮赤の召喚陣が描かれて躯もまた動きを真似る。数え切れぬ程の鎖が吹き出して、アスモデウスを包囲した。ぎゅっと拳を引き絞ると鎖がアスモデウスに絡みついてゆく。あのディアベルを仕留めた地獄の楔が。


「グガアアアアアア」


 アスモデウスが唸りを上げた。腕を力いっぱい上昇させて逃げようとするのさえ鎖は許さない。鎖は太く、強靭に縛る。


「ァアアアアア」


 咆哮が戒めを凌駕した。鎖が砕け散り、暗海に散らばった。

 ラーツは目を閉じて終わりを感じた。魔が空間を支配してゆく。

 大きく膨れ上がった熾天使の遺恨の翼が彫像と化した。


 アスモデウスは怪しく笑うとゆっくりと近づいて来る。中央の獅子の大口を開けるとそのまま、躯を頭からむさぼり喰い始めた。


 骨を噛み砕く異音が轟く。ばりばりと気持ちを逆なでする音が止まない。

 肢体をまるごと食し終えると慢心でアスモデウスはラーツへと歩み寄った。ラーツは呆然とし、その場にくず折れた。


 その様子を認めるとラナンは歩み寄ってくる。僅かばかりの情を示したか、ラーツはそう期待した。生まれて初めて懇願したい気持ちになった。

 青ざめた頬に指を添えるとラナンは見せたことも無いような優しい顔でこういった。


「死の瞬間まで微笑んでいろ」


 アスモデウスの大きな影がラーツを埋め尽くす。


「ああ、あああああ、ぎゃああああああああ」


 魂の血を流しながら男が死んでゆく。そのさまをラナンは冷視していた。

 すべてが終わるとアスモデウスは霧のように姿を消した。


 闇は消え、景色が戻ってくるとレストランの喧騒が飛び込んできた。人々は何事も無かったかのように食事を楽しんでいる。ただ一人高慢なラーツの姿はなく、テーブルについていたラナンはナプキンで口を拭うと立ち上がり、正面に落ちていた小さな頭骨のかけらを拾って内ポケットに仕舞った。おそらくそれが彼の生きた最後の証となるだろう。


 傍にいたマネージャーに涼やかに伝票を渡すとこういった。


「アトミックス社のラーツの付けで」


 ワインの余韻がまだある。得難い気分だった。仇敵を始末して、恐怖さえも味わわすことができた。フレンチも案外悪くない。

 けれど心にはそれだけでない、なにかが滞留している。ラナンは視線を上げると目を細め、木枯らしが吹くプラハの町の景色を一望した。

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