第31話 ルォシーの涙

「ラナン・カドレック。かつての名はラナン・シェン。舞台女優ルォシー・シェンのもとに生まれた中国とチェコのハーフだ」


 連ねられた言葉に信じられない思いで男を見た。内臓が体中で沸いている。熱に駆りたてられて可笑しくなりそうだった。目前のラーツは鼻血を流し笑んでいた。


 ルォシーが、母が、妻というならばラーツは自身の……


「ウソだ!」


 激情に駆りたてられて叫んだ。


「父は死んだと聞いていた」

「キミは認知していない婚外児だ」


 キミと他人事のようにいえてしまうのか。どこまでも冷えた男だと怒りが湧いた。


「ルォシーとはそういう関係だった。時折、都合のいいときに呼び出すだけの。美しい女だと思っていたよ。キミは彼女そっくりだ」

「取り消せ!」


 ラナンは右手を突き出した。マリオネットが激しく踊る。その反復を目前でみつめながらラーツはいった。


「そのマリオネット呪術。契約を済ませたのだろう。代償は払ったか」


 よりいっそう蔑む声で意外な言葉を落とした。


(知っている?)


 ラナンは言葉を失った。ラーツは皮肉るように首を傾げると運転手に向けて指示を出した。


「すまない、車を市街に向けてくれたまえ」


 山沿いの人気のない開けた敷地に二人を下ろすと送迎車は去っていった。

 風が吹き荒ぶなかラーツが前髪を掻きあげた。金糸のような髪の一本一本が男を非情に飾り立てる。予報は夕刻から荒天になると告げていた。すでに陽が西から陰り始めている。


 丁度『魔女の火刑』が公演されたあの日の始まりの曇天のようだった。ターコイズの瞳は空を真似て半濁していた。


「キミは復讐のためにノヴァーウとスムトニーを殺した。そのマリオネット呪術を使って」


 つっと顎先で示して空を見上げた。不意の小雨が一つ、歪んだ眉間を打つ。


「二人には聞けたかい」


 半濁の中で瞳が蠢く。瞬刻、異様な色を示したガラス玉に息を飲んだ。今知ろうとしているものが本当に父親か、喉を詰まらせるほどの威圧があった。


「なにをだ」


 詰問し返すとラナンはマリオネットを構えた。男は動じないでいる。


「どのようにしてルォシーが死んだのかと。あの存在は調べくらいついているだろう」


 あのことか、と思考を巡らせた。


「紀伯クラブとはなんだ」

「狂人どもの集まりさ」


 そうこぼすと喜色ばんだ顔でラーツは静かに語りかけてくる。なにが愉快なのだと、相手を推し量ろうとしたがまるで敵わなかった。年齢の差だけではない恐ろしきなにかがあいつと自分の間には横たわっている。擦れた鼻血のあとに笑みが浮かんだ。


「あの日の真実を、彼女の歩んだ道を、今キミに話そう。ラナン」



       ◇



 中国で生まれ育った美人女優ルォシー・シェンはプラハで花開くことを夢見てこの国にやってきた。彼女が微笑めば卑しきものは姿を隠し、彼女が演技すれば高貴な花が咲き乱れる。類まれなる才能に恵まれた彼女だったが、この国における異国の言葉の壁は厚く、数多の劇団に入団を断られて路頭に迷い、挙げく所属を許されたのは小さな劇団だった。


 劇団はいつも路地裏のこじんまりとした劇場でひと月にまばらで五回ほどの公演を開き、時には公演の無い月もあって。一派は少なすぎる劇場収入と趣味の貴族の援助で成り立っていた。

 他の劇団員と同等に、いやそれ以上に、芝居の稽古の無い日はひたすら料理屋の皿洗いとして働き、白魚のようだったはあかぎれて、それでもルォシーは腐らず演劇の道に邁進した。彼女には親と疎遠になり、今さら本国に帰れないという事情も少しあった。


 所属するうちにルォシーには恋人が出来た。大柄のお世辞にも冴えているとはいえない無骨な先輩劇団員だったが、それでもルォシーは彼が好きだった。彼は包容力があり演劇に情熱のある人だった。


 慎ましい交際を続けながらもルォシーは上を目指した。いずれは国立劇場で演技できるような素晴らしい女優を夢見ていた。観客が一人しか無い日もあって、他がふてる中でも彼女は真摯に演技し、いつしかそんな彼女の演技に惹かれたのがラーツだった。


 ラーツには妻子があった。貴族の娘だっただけの妻は女性としての魅力に欠け、刺激がなかった。足りぬ女にはなにも求めず、関係は冷え切ったもの。そして運命に導かれるように舞台上で演技するボロを纏った美しきルォシーに初めて情動を感じたのだ。


 舞台公演の終わった帰り道、ラーツはカラーの花を一輪持ってルォシーを待っていた。真白い女王のようなカラーだった。

 差し出されたルォシーは戸惑っていたが、イントネーションの微妙なチェコ語でありがとうというと受け取り去ろうとした。


 節くれだった手で伸ばした腕を強引に絡めとるとラーツは華奢な体を抱きしめながらこういった。


「キミが望んでくれるならばわたしが援助してもいい」


 ラーツは個人的で親密な関係を迫った。

 身持ち固く恋人のいたルォシーは当然拒んだが、劇団の貧困とチラつかされた大金が彼女を誘った。


 その夜、組み敷いたベッドの上で美しい黒髪が跳ね上がる。月夜に洗いざらしの細く優美な首筋が男を屈服させようという気にさせた。美しいターコイズに映った白い裸体は柳のように反り返っていた。

 そして望まぬ幾度の熱帯夜を過ごし、ルォシーは子を身ごもった。




 生まれた子は中国の由来でラナンと名付けたが、幸せにはなれないとルォシーは心の奥底で思っていた。先輩劇団員とは口論して別れ、独りになったことで孤独を感じていた。劇団は富んだけれども自身は幸せに取り残されたような感覚が漂っていた。


 ラーツには家族がある。仮初でも金と地位のために繋がなければいけない血縁だった。それゆえルォシーとの間に出来た子の存在はすこぶる都合が悪いのだろう。都合のいい時にしかこなかったし、愛情豊かにラナンの名前を呼んだことは一度も無かった。そしていつでもルォシーは彼が時折見せる底知れぬ笑顔が怖かった。


 ラーツにはとにかく秘め事が多く、いつも秘密を抱えるように電話をしていた。ベッドの端で聞こえているが聞こえていないふりを貫き通して、時々親子が生活するための金だけを貰っていた。


 ある日遊園地にいった帰り道、幼いラナンは両親と手を繋ぎ歩く子を見て父親がいることを羨ましがった。


「お父さんはどうしてるの」


 ずっと仕事でパリに出かけていると教えていた。どうしているのだろう、幼心には自身の拙い嘘さえ純粋に映っているのだ。あどけなく問いかけられてルォシーはなにもいえずに小さな体を抱きしめると、この国にきての初めての涙を静かに流した。

 

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