第32話 紀伯クラブ

 ラナンは利発な十一歳になり、自身も年を取った。若さの陰りがある中で、劇団は長い下火の時代を乗り越えてようやく前へと進み始めた。満員御礼とまでは行かないが、客入りは上々。緞帳の端で団長が嬉しそうに空いた席数を数えている。舞台初幕の日には常連の姿もよく見かけた。


 ルォシーは主演を張れるほどの演技と語学力を身につけて、美しさの中に憂いを隠した色気のある演技は評判を呼び、下積みのときを経て女優としてプラハで花開いた。

 ただ、夢に身を賭しながらも華やかに送られる人生の裏側で寂しさがあったことは間違いないだろう。


 時折演劇を観に一人でやってくるラナンの大人しすぎる横顔を見て息子には父親が必要だと思っていた。

 多忙のラーツに会うのはひと月に一度きり、かなぐり捨てるような逢瀬のあとに彼はいつも去る。今日ばかりは、と冷たい背中に向けてルォシーは初めて我儘をいった。


「ラナンに会ってあげて」


 本当にたった一つのずっと堪えていた我儘だった。伝えればもう会ってくれなくなると思っていたからだ。その言葉を聞いた上等のスーツ姿の男は歩みをふと止めると考えた様子だった。ルォシーは隠したい罪悪があるのだろうと思っていた。

 黙考したあと、彼はこう呟いた。


「考えておくよ」


 扉は閉まり、ようやくルォシーは望みをいえたことに安堵していた。冷たい男だが、血が凍っているわけではない。実の息子なのだ、きっと特別な愛を注いでくれる。シーツを抱きしめてとても嬉しい思いに浸された。


 言葉に反してラーツはしばらくこなかった。もうふた月になる。ラナンと会ってくれるのかと期待ばかりしていたものだから、心は悲嘆に暮れていた。

 あかぎれた手で溜まっていた食器を洗っているとインターフォンがなった。以前はノックしなければ気付かないような仮屋に住んでいたので環境は良くなったといえる。


 出ると会ったことのない腰の曲がった老爺が佇んでいた。


「旦那さまに呼ばれて参りました」

「旦那さま……」


 差し出されたメモを見て、ルォシーは色めいた。大急ぎで支度をすると学校にいっていたラナンに言伝を書いた。老爺に手渡されたメモには今すぐキミだけと会いたい、と万年筆で走り書きしてあった。


 招かれた場所はフラチャニの貴族の邸宅、老爺の運転する送迎車にルォシーは連れられていく。心はラナンに報告したい一心だった。


「あまり期待なさらない方がいいです」


 弾むルォシーに老人はいった。それでもルォシーは喜びが抑えられなかった。


「息子のことです。考え直して下さったんだわ」


 彼女はラーツに相対するとき遠慮したものいいしか出来なかったが、初めて図々しく期待していた。子供の母親だという自覚に浸されていた。


「旦那さまはよく招かれるのですよ」


 耳をかすめる言葉尻に不幸の隠喩が垂れこめていたことにさえ気付かずに、ルォシーは心の中で母国語の期待の言葉を繰り返していた。

 フラチャニの一角にある身がすくむほどの大きな屋敷に入ると居並んだ無数の部屋があった。どれも固く閉ざされて老館の雰囲気があり、老爺に案内されながら大理石の床にヒールを鳴らした。ふっと視線を移すと、血のように赤いドレスを着た女性が立っていた。雪崩れる金の髪を豪奢に纏め上げている、おそらくラーツの妻だろう。口元を隠しながらにたりと笑んでいる。淑女の見せた異様な表情が心の奥底にそっと落ちていく。


 招かれた暖炉の部屋には九人の男が集っていた。




 薄暗い灯に浮かぶ九つの顔を見てルウォシーは呼気を詰まらせた。

 能面のような顔、鬱屈した顔、神経質そうな顔、高慢な顔、情緒不安定な顔、寂しげな顔、愉悦に満たされた顔、貧相な顔、その顔の中央で冷たくラーツが笑っている。人を敷くことを日常とする皇帝の顔で。


 彼はくっと笑うと赤ワインを飲みほして豪言を放った。


「ルォシー、演技をしたまえ」

「…………えっ」


 自身が頭に描いていたのとは違う案件で呼びかけたものだから、冷や水を浴びせられた心地になる。その一声に逆らうものなど一人も無く、むしろ楽しむように口元を濡らしながら生き血のようなワインを飲んでいる。その下劣な生々しさに心が怯えた。


「あ、いえ。あの……」

「どうした。演技だ」


 語尾がきつく吊り上がる。薬を煽っているのだろう。ラナンのことなど打ち捨てて、浮き立った足裏を谷底へ突き落す強さがあった。


「あ、わたし。わたしは」


 語彙すら失いそうなほどの高圧的な態度に身が絞られる。頭の中で言葉を探し当てると口元を震わしながら伝えた。


「……わた……わたし、帰ります」


 去ろうとした足元へワングラスが投げつけられる。大理石の床にボルドーが広がった。ゆく手を阻むようにしっとりと濡れている。越えられずに足踏みしているとラーツが手を叩いた。残酷な響きを持って心を揺さぶる。


「さあ、プラハ一の美人女優の公演の始まりだ。援助が欲しいはずだ。踊りたまえ」

「踊……」


 意訳出来ぬほどに戸惑っていた。こんなに怖い瞬間はないとルォシーは思う。

衆人環視の下で繰り広げられる独演には怯えが滲み、慣れたセリフでさえも震えて詰まり、翻訳し切れなかった言葉が数多混じる。


 かたかたと肝が震え、怖くて堪らない。

 九人の男は片時も目をそらさずにこちらを見ている。演技を観ているのではない、ルォシーを見ているのだ。


 演じたのは母国で演じていた傾国の美女の逸話だが、通し演技を終えるとルォシーは初めて息を一つ吐いた。その吐息が篝火の弾ける音にかき消される。


 初めて足元の大理石に、からんと音が一つ鳴った。

 十コルナが落ちていた。


 腕、肘に戦慄が駆けあがる。人生で感じたことのないほどの侮蔑だった。自らの演技を見て、男の一人が投げ銭したのだ。


「あ……あの」


 これまでの舞台女優としての人生を一瞬のうちに踏みにじられて、涙がじわりと滲んだ。灼けそうに熱くなった喉を絞るように言葉を出した。


「ラナ……」


 いいかけた彼女の足元へ一コルナが転がる。


「続けろ」


 そういって狂人どもは薄笑いを浮かべている。最上の美酒を喉に注ぎながら、下衆の心で愉悦している。

 ルォシーは泣きながらエリザベートを演じた。チェコにきて初めて覚えた渾身の演目だった。


 滴り落ちていく涙の向こうで男たちの浅ましい笑いが輝いている。オレンジに映る景色は宝石のように輝いて、古都のように優美で古めかしい。

 逃げようとする心すら挫く威圧を振りまいて、ラーツが歩み寄った。ルォシーの美しい漆黒の髪を強引につかみ、振り下げると口に無理やり薬を含ませワインで飲ませた。


 席に戻るとワインを継ぎ足し、満悦していた。

 景色が舞い、自我すら失うほどの潮騒に襲われながら涙をこぼしてルォシーは演じ続けていた。ラーツの好んだ美しさだった。


「貧民は金が欲しいのだろう」


 太った強欲な男が舞台に金をバラまいた。セリフすらいえないように口元はもつれ、正気を失いそうになりそうな瀬戸際でルォシーは藻掻く。



――助けてラナン。


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