第30話 カレル・ラーツという男
同乗を誘った割に男は静かだった。饒舌のイメージがあったが、二人になると違う。情報と違い同乗者は今日は無く、物静かというより深慮する研究者の顔だった。
「インターンはどうだった。三日間だったけれど」
ラナンは声をかけられて初めて正面から男の顔を見た。瞳と瞳が合う。瞳の深部まで透かし見えるようなターコイズに惹きつけられた。自分と同じ種の、……いやそんな言葉ではいい表せないほどに似すぎている。これほどまでに惹き寄せられた人は初めてだった。
目を見定めてラナンはこう返した。
「思ったほどのことではありませんでした」
ん、と相手は興味深げにした。
「学校の実験室レベルと変わらない。たぶん、ほんとうの所は見せていないんじゃないでしょうか」
するとラーツは腹を抱えてくつくつと笑った。
「キミはプラハ・カレル大学だったね。名前はラナン・カドレック君。キミの感性は好きだよ。わたしと似ていると認めるよ」
名前まで知っていたのか、とラナンは独り言ちた。無関心を装って調べつくしている。好きじゃないが、これは同族嫌悪だ。
「キミのいう通り肝心のものは見せていない。学生だって怖いからね」
ラーツは可笑しそうに窓の外を見た。燃え上がるような木立が風に揺れている。なにを考えているか読めないが、横顔はすこぶる嬉しそうだった。正直すぎる経営者は話が早くて嫌いじゃないが、仇敵として恨んでいる以上それは感覚の矛盾だ。感性がハマるのは自分に研究者としての適性があるからだろう。
「他の子は望みが無いけれど、キミなら採用してもいいよ」
静かな声でラーツがいった。心を鷲掴みにされた心地だった。
出方が分からない、心の底でラーツの底知れぬ賢さを感じていた。そうか。だから自身は怖かったのだ。
「この会社に興味ありませんよ。別を受けます」
「ますます欲しくなった」
ラーツは口元に笑みを作ると握手の手を伸ばした。欲しいといっているのだ。ただ無用にパーソナルスペースに踏み込むのは好まれたことではない。高圧的なパフォーマンスが胸を抉った。
ラナンは目をすがめ反らすと、手を握り返さずに無視して右手をポケットに突っ込んだ。車は信号待ちで停止する。いつでも切り出そう、何故だかそういう心地がしていた。
「…………過去を悔やむことはありますか」
一段と冷えた声で探るようにいった。口にした途端、澄ました顔をなじりたい気持ちが湧いてくる。
「ないね」
躊躇のない回答に胸が凍ったような気がした。視線を合わせるとラーツは豹変したように冷笑を浮かべていた。機械よりもなお冷たい瞳に激しい拍動が止まらない。
「例えば。あなたが一生償えないような犯罪をして、そのせいで苦しんだ人がいたとしたらどうです。なんの後悔も無いまま過ごせますか」
攻め立てるような問いかけに一刻、息を吸う音が聞こえた。そして、男は口角を悪童のように突き上げる。
「毎日オペラを聞いて、上等のワインを飲みながら過ごすよ」
鮮烈な雷が背筋を走った。ラナンは怒りに駆られて右手を抜く。ポケットの中で握り締めていたマリオネットが勢いよく宙にたんっと揺れ上がった。
「取り消せ!」
端正な顔を睨みつけ激情のままに叫んでいた。怒りをぶつけられたラーツは愉快そうに目を触れて顔を折り曲げながら、メトロノームのように規則正しく指先でウィンドモールを叩いていた。
「一つ世間の常識を教えよう。バレなければ犯罪にはならない」
視線を合わせ微笑んでくる。なにを知っているのか。
侮蔑するように作られた笑顔に目がけて憎しみのまま拳を振るった。彫像のように深い堀りがぐんと曲がる。運転手が「社長!」と叫んだ。
手の甲に感じる痛みを自覚しながらも、反発は抑えられなかった。骨ばった顔を乱打すると息を荒立てた。鼻血を垂れてラーツは不気味に笑いながらこちらを見ていた。
「いいことを教えよう」
ラナンは手を振り上げたまま止めた。薄く空いた唇から信じられぬ言葉を聞くことになる。くっと理解し難い喜びが漏れた気がした。
「ルォシーは妻だ」
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