第29話 インターン
ラナンはアトミックス社のインターンに採用された。競争は激しかったが、自身の優秀さが切り抜けさせた。案外日頃の成果が役立つものだ、と鏡の中の自分を見つめた。
シックなグレーのスーツで本社に入る。フロントであいさつをすると首かけのパスケースを貰った。インターンと大きく明記してあるのがどうにも屈辱的だった。
フロントで案内された会議室に入ると十人ばかりの学生がいて、学科で見知った女子生徒の顔もあったが親しくはなかった。みんな静かにしている。品行方正な生徒ばかりが集ったのだろう、時折神経質に時間を確認している。
時刻が近づくにつれて心音が高鳴り、顔を拝んでみたいという殺意が膨れ上がっていく。
真白い扉が開かれて、女性職員が入ってくるとスーツの衣ずれがそこら中でした。三ミリほど期待したが後続に社長の姿は無かった。
(インターンだからな)
そう嘆息してメモ帳を取り出した。一応の姿勢は見せる。でも、本当はメモを取らなくても大概のことは記憶出来てしまう。そういう頭だった。
女性の話が始まるとほとんどすべての学生がメモを取る。ボールペンが走る音に感覚が遠のいていく。ラナンはヤン・エポカから知らされたアトミックス社の情報を再度頭の中で反芻した。
ラーツは毎日送迎車で午前八時半に決まったように出社して、社長室で過ごしたあと朝礼に出席。この朝礼には一般の社員は入れない。社長室に戻ると社長職をこなすために秘書と籠る。ノックして面会することは可能だが、それは立場あるものの話、ましてやインターンなどないだろう。そして、他の社員より早めに夕刻、送迎車で帰宅する。
性格はプレイボーイで女性社員の評判はよいが、思考は研究職上がりの理知的な側面を持つ。厳しく糾弾することもあれば、時にほんの少しの情も示す。きつめの冗句を好み、会話は流動的。でも近しいものでさえ、その本心は知れぬ――
どれが本当の顔だ、と判断がつかないでいた。あいつは紀伯クラブという貴族どもの下劣な組織に所属していたのだ。仮面の下は下衆でしかない。
説明が終わるとインターン生は社内を案内された。みんな緊張した面持ちで案内の女性社員に付いていく。女性の靴がぺたんこだったのは彼女がおそらく技術職だからだ。実験施設でピンヒールを履く馬鹿はいないか、と辛辣に思った。
最初に案内されたのが研究開発部だったのには意気込みを感じる。研究員は誰一人として振り向かないが、熱心にドラフトのなかで作業に取り組んでいる。女性が説明した。
「こちらでは化学系の基礎研究をしています。実験設備は大学でも観慣れていると思いますが、説明をすると左の奥の大きなのが高速液体クロマトグラフィー、右奥がガスクロマトグラフィー、それから……」
隣の男子など特に真面目にメモに齧りついているが、実際は見て知った方がいい。ラナンは経験上そう思うが、メモをする、しないはあくまで個人の自由だ。置いている装置は日頃拝むことのできない大学より遥かに良いもののはずだ。
(ここにもいないか)
研究職出身なのでもしかするとラーツが出入りしているという期待は寄せていた。だが、物事は都合よく運ばない。
隣の部屋のNMRを見た後、装置が1億コルナを越えるという説明に何人かが驚いて、ラナンにとっては物珍しい生物系の研究室まで案内されて。
研究フロアを出る頃には学生の態度も砕けていた。エレベーターの中で初対面同士、浮き立つように会話している。
「どこの大学なんですか」
隣の背の低い女子に話しかけられて、プラハと答えると「優秀なんですね」と返って来た。それからなにやら話しかけられたが、あんまり興味の無いことでおざなりな返事をしているとエレベーターのドアが開いた。入る場所を開ける。
視線は伏せていたが聞こえてきた声に時が止まった。半開きの口のまま、目が見開かれてゆく。
「社長、すみません。次にしましょう」
「いいよ」
明るく気取らない声の主をゆっくりと、ゆっくりと怖れるように見上げた。
さめざめとした青が目に入る。開いたドアの外でターコイズの瞳の男が笑っていた。
こいつが、ラナンは心臓の止まる思いだった。
ラーツはエレベーターに乗りこんでくると、ラナンの丁度前に立った。
心臓は粟立ち、理性を保てない。
こんなにも、こんなにも近くに仇敵がいる。それなのに。
わずか三十センチの距離、生きた男の息遣いが聞こえていた。
顔を見たい、それなのに見上げられない。なにを感じている。歯痒さでどうにかなりそうな感情を懸命に堪え、血濡れるほど拳を握り締めて俯いていると社長が語りかけてきた。
「キミたちインターン?」
毒気も含まぬ声で問いかけてくる。返事したのはラナンじゃなかった。
「そうです」
「頑張ってね」
それだけの短い会話だった。次の階でラーツはエレベーターを下りた。
焦燥が去り、無情に下っていくエレベーターの中でラナンは激情に駆られていた。なにも、どうすることも出来なかった。
その後セミナー室で会社説明を受けて、普段ならのめり込むような技術の詳細まですべてが、どこか別の次元で起きている蜃気楼のように感じられていた。
熱が下りた体に残っているのは後悔と畏怖、あの時、話しかけられないほどにあいつは怖かった。ノヴァークやスムトニーの平凡さとはまるで違った。
優しい目をして、殺人者の心を隠している。
それからインターンとして潜り込めた三日間、会社説明と工場の生産ラインを見学して、研究部の有難い話も聞いた。知った試薬や反応に話が及ぶと地形学生は発奮した様子だったが、ラナンは上の空だった。
怖いという感情を持ったことが怖かった。なにを恐れている。ラーツになにを感じていたのだと。自分でも分からない恐怖を持てあまし、苛立たしくボールペンを打ちつけた。紙にはすでに数多の点が打たれていた。
三日間は駿馬のように過ぎて、エレベーターでの出来事以降ただの一度もラーツの顔を拝むチャンスは無かった。最終日になりこのことをようやく悟った。インターンさえ社長室には招かない、それが自分とラーツの今の距離なのだなと思った。
本当は気に入りになって、会話できればそれなりの接点が出来ると期待していた。大会社の社長なのだ、安直過ぎた。インターンという隠れ蓑に入って、始末すれば繋がりのない学生まで疑う警察はほぼいない。丁度いい距離感をべストのタイミングでヤン・エポカは提示したのだ。最大のチャンスを逃したのだと思うとやり切れないものが残るが、自身は謀りごとをする割に爪が甘すぎる。自戒するしかなかった。
インターンは解散になり、知らない研究部とすこしのつながりが出来て、卒業したらおいでよという誘いもあった。そういう最終手段もあるが、出来るならば咎人を手っ取り早く始末したかった。あと、六人も残っているのだ。
名刺交換し、連絡先のアドレスを聞いて本社を出る。外には冷たい秋風が吹いていた。
背にしたロマネスクの建物を振り返って眺望した。すべてが遠かったのかと。漆黒の髪が風に舞い上がった。
待っていた信号が青になり、渡ろうとした時クラクションが鳴った。高級車の後部座席の窓が下りる。
「キミ、家はどっちだい」
ラナンは思わず瞳を見開いた。僥倖だ、黄金の髪を書きあげながら美丈夫が笑う。
「いえ、あの」
望んでもいないチャンスに鼓動が激しくなる。口を空で二、三動かした。
決断もしないまま自宅の大まかな位置を告げると男は手をさっと振るった。
「方角が同じだから送っていくよ」
まさか、と頭中が白ずむ。同じ空間に乗り込むことを思うと恐怖でしかないが。対峙できるのか。粗く乾いた唇を噛み締めた。
車は郊外の住宅地へと走り始めた。
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