5章 父
第27話 アトミックス社
プラハの町の郊外にチェコ第二の規模を誇る製薬会社アトミックスの本社がある。カレル王の時代の古いロマネスク建築を赤色にリメイクした瀟洒な建物と隣接する工場には一千人を越える従業員が毎日出社し、日夜、新薬の開発および医薬品の製造が行われて、営業職のMRが数えられないくらい出入りする。
競争の厳しい業界だが、今年初冬から発売したがんの治療薬が売れて営業利益は大黒字。今、業界で最も注目を集める企業といっても過言でない。
特に五年前に社長に着いたラーツは五十二歳になる新進気鋭のやり手で、営業職が年功序列で継いできた中では異例の開発職から抜擢だった。
朝から論理的な思考を持つものたちの間で静かに会議が進められている。時折声を荒立てる社員もいるが、社長が一度声を発すれば静まり返ってしまう。ラーツにはそういう覇気があった。
「社長、この間の向精神薬の1.25ミリ錠の生産の件なんですけれど……」
廊下で急くラーツを生産企画部の社員が追いかける。このところの不況で材料費が高騰し、各社が採算の取れない薬は製造しない方針を示している。大手のアトミックス社でさえ、その潮流からは逃れられなかった。
「厳しいな」
そういって去ろうとするので社員があとからまた追いかけてくる。
「無しということでよろしいでしょうか」
「わたしは技術職だよ。なにを聞きたいんだい」
そう笑う彼が商業的な感覚に優れていることも下に着くものは知っている。
「原薬企業をつつきたまえ」
はあ、と社員は曖昧な返事をする。どうやら言葉がピンときていないようだった。
「努力と工夫で原価を下げろといっているんだよ。小さいのが無いと困るだろう」
「2.5ミリがありますよ」
間接的に無くてもいいのではと提案したつもりだったろうが、逆ににらみ返されて畏怖した社員は「努力します」と焦った様子で去っていく。彼はこれから方々に電話をかけて商談することとなる。
廊下を歩いていると今度は別の白衣姿の研究開発チーフの女性から報告があった。
「臨床試験の結果がイマイチだったんです」
そういって手短に3枚つづりのプリントを渡され歩きながら確認する。先日の新薬の件だ。科学者の勘で構造を確認したときからイマイチだろうと思っていたが、思った通り効き目が悪く到底商品化出来るような内容ではなかった。
「昼から会議にかけよう」
そういって首を振るとプリントを突き返した。生物系の技術者を集める急務に追われた彼女は廊下を足早に駆けていく。
社長室に入室すると秘書が待っていた。廊下で語りかけるなんてまったく自由な社風だと、自らの采配に苦笑して腰かける。身を凭たすと激務に追われる自身を受け止めるような革張りの感触が心地よかった。
デスクトップの前で指を組んで吐息して、スリープ状態から起こすと書きかけの論文を開いた。発表する暇さえ取れない悲運な論文だった。
高給と引き換えに失ってしまったものは研究者としての思索の時間かなと続きを黙って叩く。
こんな風にほんの少しの心浮き立つ時間を過ごし、また会議に出て、遅れた昼食を摂って。気が付けば退勤時間、支社に出向かなければ一様にこんな日々を過ごしている。
一日の仕事をようやく終えたラーツはスマートフォンで電話をかけた。相手は大学時代からの古い友人だ。
聞かれたくないプライベートな会話なので手で人払いをする。男性秘書は速やかに出ていった。
「昨日のメールの件だけれど。二度とああいうものは送らないでくれたまえ」
社員と接していた時よりも二段低い声で冷たくそういった。電話越しに荒い呼気を感じる。あいつは怯えているようだった。自身ではなく、迫る悪魔に……といえば勘のいいものは察しがつくだろう。
「わたしはキミほどに幻想的じゃない。あのことはもう忘れろと伝えたはずだが」
電話の相手はそれでもなお、納得出来ない様子だった。
「一人だったろう。九人で一人さ、大したことはない」
冷淡な言葉とは裏腹にとイヤらしげに口端を曲げると諫言を吐いて電話を切った。
相手は自首したがっていた。馬鹿なことを独ち言ちる。
恐怖に苛まれて最早九年前の約束を忘れてしまったようだ。
社長室を後にして、エレベーターで一階まで下りるとフロントの女性社員に笑顔で声かけをした。
「美味しかったよ、ケーキ。ごちそうさま」
そういってお返しの小さなクッキーの包み袋を置いてさよならをいう。秘書に用意させたものだが、背後では色めいた声が聞こえていた。
颯爽と去るスマートなスーツ姿、抜けるような白肌と誰もが振り返る甘いマスク、そして亜麻色の髪からは美しく瞳が覗く。
彼の瞳はよくあるようであまりない真っ青なターコイズブルーだった。
送迎車のなかでラーツは景色を見ながら黙考していた。電話に関することだ。
世間を騒がしているあの騒動、水面下で犯人は必死に自らを探しているのだろうなと思うと失笑でしかない。冷徹でなければ手順を踏み外しそうなことを上手にやってのけている。先々を省みない怨恨だろうが頭はひどくいいなと柄にもなく褒めた。
それにしてもあの切断されたフォルクスワーゲンは人の業でないだろう、あれはおそらく……
「……長、社長!」
思考に没頭していることに気付いて瞳を正面に振った。話しに取り合ってもらえていなかった秘書はちょっとムクれた顔だった。
「すまない、聞いてなかったよ」
「正直にいわないでください」
そういうともう一度、と手帳を捲った。
「インターンの時期ですけれどどうなさいます。学生の募集をそろそろした方が」
「キミに任せるよ」
端的にそういうと秘書は目をすがめ不承不承で分かりましたと返事した。
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