第25話 テイスティング

 自分でも何をいっているのか分からなかった。衝動的に出た言葉だが数多の罪さえなければ本当はそうしたかったのだろう。穢れのないままで、ただ普通の青年として。


 ラナンの告げた決意には条件があって、自分が目的をすべて遂げてなおかつその時まで捕まらないでいられたら。自分でも馬鹿なことをいっていると思った。


 メイリンは静かに告白を受け止めたようで考え込んでいたけれど、自宅のアパートの前で言葉を返した。


「ラナンのいうようにそうしたい。でも今はあなたのことが好きだからか、ただ逃げたいだけなのか分からない」

「ゆっくり考えて」

「うん、おやすみ」


 小さなアパートに消えていく後ろ姿を見て彼女が心配になった。華奢な背中がどうにも心もとなさそうに思えたのだ。


「メイリン!」


 階段の上でメイリンが振り返る。


「今度デートしよう。楽しい場所に連れていく」


 メイリンは嬉しそうに笑うとアパートの通路に消えた。




 メイリンから連絡は中々こなかったので自分から誘った。バスに揺られて市街地を去る。話したいことはいくらでもあったが、いざ会ってみるとどれも適切ではない気がしていた。


 プラハ郊外に来ると景色が変わった。遠く広がる田園にはぶどう棚があってこれは全部ワインになるのだと義父が話していた。義父は伝統あるワイン会社で営業として働いている。


 近くの停留所でバスを降りてメイリンをエスコートをすると照れくさそうに手を取ってくれた。小さくありがとう、そう聞こえた気がする。


「広いね、ブドウ畑。あまりプラハを出たことがないから」


 メイリンのなかにあったのは閉塞感だ。だからその気持ちを解放することで多少前向きになれるのだと思った。


「来てよ、ワイナリーはこっちなんだ」


 そういってぶどう棚の向こうに見える半円状の建物に連れていく。ここには一度家族で来たことがあって、当時は酒など飲める年齢ではなかったがこっそりとテイスティングさせてもらった。年端もいかないラナンはうん、美味しいなんて一端の感想をいったが本当はただ酔っていただけ。それでもとても有意義な時間だった。


 倉庫の入り口をくぐると空気がひんやりとした。大きなタンクがいくつもあってたくさん人が働いている。中でワインが醸造されていて、種類は赤、一体何千本分になるのだろう。


「やあ、いらっしゃい」


 気さくな農夫が出てきて麦藁帽子を取った。ロンパースはワイン色に染まっていて頬にはそばかすがある。歳は三十半ばだろう。新進気鋭のワイン農家といった風情だ。訪問の予約を入れていたので中を丁寧に案内してくれた。


「楽しいわ、ラナン」

「お酒好きだったっけ?」

「テイスティングもしましょうか」


 そういって笑いながら農夫はワイングラスを二つ持ってきてくれた。ワイン樽から注ぐと二人に手渡した。


「鼻の下で燻らせてください」

「燻らせるってどうやるの?」

「回して」


 ラナンは手本を見せるようにグラスをくるくると回した。ワイン通の義父はいつもこうしている。


「ラズベリーの香りがするわ」


 ツボを得た感想だったのだろう、農夫は嬉しそうに聞いていた。くっと飲むとメイリンはちょっとびっくりしたような表情で味わいそのあと笑顔になった。


「美味しい! 中華に合うわ」

「中国じゃ子供でもお酒飲めるって知ってた?」

「何それ」


 メイリンは可笑しそうにして本当に知らない様子だった。


「子供への販売はダメだけれど、飲むのは構いませんよって法律ですよね」

「そう明け透けにいっちゃうと中々」


 ラナンは笑ってグラスの残りを飲み干した。ワインを購入できるとあったのでお勧めを三本選んでもらって一本は自宅に、一本はメイリンに持たせて、残りの一本をこれから会う人用にお土産にした。


「どこにいくの」


 ワイナリーを後にして農道を歩いているとメイリンが尋ねてきた。これからバスでプラハ市内へと戻る。行先くらい告げても良かったけれど、分からない方が気分が踊る。この頃にはメイリンの顔から鬱屈した表情は消えてすっきりとした顔立ちに変わっていた。


 目的地はプラハ中心部から少し外れた閑静な住宅街。きっと相手も二人の訪問を喜んでくれるだろう。郷愁、故郷、親もと、いくらでも表現は思いつくが『ホーム』と呼ぶのが最も適切だろう。


 ラナンは右手のワインの入った紙袋を天に突きあげた。


「魔女先生のところだよ」

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