第20話 悪意の発露

 双眼鏡の中でスムトニーの死を見届けて、バッグに片付けようとすると背後で意表をつく電子音がしてラナンは高揚が一気に冷めた。流氷が割れた心地だった。

 誰かが研究室の扉を開けた。焦り右手をポケットに突っ込むと小さなマリオネットを隠し糸を瞬時に解く。心臓は荒波のように打っていた。


 振り返りステンレス扉を睨みつける。オレは笑えばいいのだろうか、それとも冷たい顔でこのまま……隠しきれぬ殺気を受けてマリオネットが静かに身じろぎした。

 止めろよ、と諭す。

 重たい扉が引き開けられてその姿に目を剥いた。


「ラナン」


 雲雀のような声は意外な人物のものだった。

 アデーラ、帰ったはずの彼女が茫然と立ちつくしていた。


 こんなことのあとではどういう顔を作ればいいのかも分からない。罪を犯したあとの自然ほど難しいものは無いといえる。だが、それでも感情は包み隠さねばならないだろう。


「あなたどうしてここにいるの?」

「ここのパソコンにUSBを刺したままだったんだ。書きかけのレポートが入ってたから」

「そう」


 明るい声で偽証した。自然な笑顔にアデーラはなんの疑いも持たなかったようだ。

 だが、いつも下ろしているはずのブラインドを下げてなかったことに気がついてアデーラは窓際に寄った。血の気が引く。その途端、口元に両手をあてて悲鳴を上げた。


「先っ、先生!」


 キャンパスに倒れた哀れな男を見つけたのだろう。そのままステンレス扉を開放して真っ青な顔で音を立てながら外へと走っていく。

 ラナンは唇をかみしめて、失策に潰されるように悔しく目を閉じるとその背を追った。



       ◇



 スムトニー教授の死は運ばれた先の病院で間もなく確認された。頸椎を損傷して、首骨を粉砕し、打撲による脳内出血が激しかった。どんな剛力を以ってしても人間には実現不可能な犯行に正直警察は驚きを隠せなかっただろう。ただ、死の状況からだれかしらに襲われたことは明らかだった。


 警察の捜査は当然、研究室の生徒にも及んだ。発見者のラナンとアデーラの証言に加え、近隣の監視カメラの映像に生前の姿が記録されていたことから犯行時刻は八時四十分より以前と推測された。同時刻に校内に残っていたラナンもしつこく取り調べされたが、実験室への入室記録があり犯行現場から離れた場所にいたことから、それ以上追及されることは無かった。

 首骨を粉砕するほどの凶器が依然見つからず、捜査は難航しそうだとテレビ局が報じていた。


 事件のあった日から数日を置いて、スムトニー教授の葬儀は小さな教会でしめやかに行われた。


 集った大学関係者は素晴らしい人材を無くしたと惜しんでおり、不仲だと噂されていた教授さえも黙して弔った様子だった。

 最後に生徒たちに囲まれて濡れた瞳でありがとうございましたと告げられると布切れの下でスムトニーの陰気な微笑みが浮かんだようだった。


 当の葬儀に参加したラナンは薄氷を踏む思いだった。上手くやれた、上手くやれたと思っていたのにこの後悔はなんなんだ。

 喉の奥にしこりが残っている。表現できないような後腐れだった。スムトニー教授の青白い指に触れると牢獄の鉄パイプのように冷たかった。


 勉学に励みアメリカの名門を出て、故郷で教授となり、地位と名声を得た男の生涯は波乱を巻き起こして終わった。


 黒衣の葬列を見てカラスが虚空にふた鳴きした。孤独の男に親者はなく、大学関係者だけが故人を思い泣いていた。プラハ・カレル大学は彼の囲った小さなテリトリーだった。

 棺の埋葬を終えて会話を交わしたあと、みんな散っていく。凄惨な事件を早く忘れたいだけなのかもしれなかった。


 出来たばかりの墓をしばらく見つめ、十字架にかけられた花輪をぼんやり見る。済んだばかりの葬儀に思うものなんかなにもない。さっきからそう確認し肯定しているのに心がイヤな情景ばかりを追いかける。

踵を返し、去ろうとした背中に声をかけられた。


「ラナン」


 アデーラの名を呼ぶ声は濡れていた。ポケットに手を突っ込み、伏せたまつ毛で振り返ると彼女は肩を震わせ泣いていた。尊敬していたのだ、そうなる。


 アデーラは薄く唇を開くと静かに問いかけてきた。

 ない、と信じていた会話だった。


「あなたがレオナを殺したのね」


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