第19話 静夜の叫び

 ラナンは深慮の末、その勧誘を受けた。アデーラはとても喜んだし、近くにいて探れるのならその方が手早い。だが一方で、これ以上の証拠集めは必要ないのではともすでに考えていた。近づこうとすれば、距離が離れていく。スムトニーはそういう男だった。


 あの動揺、スムトニー教授は限りなく黒だ。極論は始末するだけの話だが、そう簡単に運ぶものではない。場所のイメージはつかんでいるが監視カメラがあり、人気のないキャンパスの敷地などが適切だろう。


(魔女の骨は今でも持っているのか)


 それが一番大きな問題だった。臆病者のスムトニー教授は処分して所持していない可能性がある。さらには頑固者のこと、聞いても最後まで答えないのではないかという懸念があった。


 弔いは殺すことと同列に並べられることではなく、それはいずれ解決する別問題として考えよう。

 遺恨を棄てた訳ではない。だが、おそらく殺すだけで手一杯のはずだ。


「ラナン、今日はバイト休みでしょう」


 セミナー終わりにアデーラに話しかけられた。一時間を超すスムトニー教授の熱弁でこちらはうんざりしていたが、イヤな顔は出来ない。このところ彼女は熱心でよりいっそう学業に身を込めるようになっていた。さらにはラナンと通えているということでご機嫌で、楽しくて仕方がない様子だった。


「以前あなたといった映画面白かったから。またいかない、わたしも空けてあるの」

「ごめん、今日は都合悪いんだ」

「どうして?」


 積極的になった影響だろうか。こういうことを聞いてくる子じゃなかった。


「レポートあるから。単位落としそうなんだよ」

「大袈裟でしょう」

「そうだね」


 笑って別れる。アデーラは少し不服そうな顔をしていた。

 ラナンはその後、図書館で夜まで時間を潰し、ほとんどの学生が帰宅し暗くなった八時過ぎに学生証でセキュリティーを解除して研究室に入った。


 ちゃんと入室が記録されたことに安堵すると周囲を確認した。


 中ではおそらく大学院生の先輩の夜通しの実験が行われていたが運よく姿はない。ナスフラスコの中でスターラーが回りながら鮮赤の混合物を撹拌している。黒革のバッグからコンパクトな双眼鏡を出して窓際に立つとガラス窓から下界を見下ろした。

 右手の人差し指をつんと振ると、無垢のマリオネットがすとんと落ちる。

 ここからはキャンパスが伽藍堂によく見えた。




 星の散らばる空を眺めながらスムトニーはキャンパスを歩いていた。独りもので夕食はどこぞで食べようと思っているがカドレックの働いているホスポダなど美味かった。彼は良い生徒だ。感情的にものを喋らない。理知的な印象が自分と合う。


 学部で卒業してしまうのは惜しいくらいで、時が来れば院に誘おうと思っている。この大学で講師になるのもいい。

 珍しく一人の生徒に執心しているなと思えた。


 それにしても二月後の高分子学会の日程を考えるともう少し研究を進めなければならない。発表したい内容にまで研究が届かないでいる。明日、出来た化合物をスパチュラで削り取ってNMRを取ったら分離にかけて。溶媒はどうしよう。ヘキサンと酢酸エチルの混合液に変えてみるか。思索しワクワクする瞬間が堪らない。だから研究は手放せないのだ。


 暗闇に一つ、こん、と音がして視線を上げると月影を遮るようにして大きな木偶の坊がいた。三メートルはあろうかという大きな悪魔の風貌をした人形だった。


「こんなところに人形があったか」


 呟いて隣を過ぎ去ろうとした時、剛力でぐんっと腕を引き上げられた。そのまま体が絶望のように夜空に宙釣りになる。


「ああ、あああああ、ああ」


 夜海のごとく凪いだキャンパスに悲鳴が伸びる。足をばたつかせ空を掻き、生け捕られた獲物のように暴れ回った。革鞄が石畳に重たい音を立てる。そのまま、要らない人形を棄てるように遠心力をかけて肢体を振り落とされた。


「あがっ」


 頭骨が砕ける音がして眼鏡が吹き飛び、視界が混濁する。頸椎を打ちつけた衝撃で足元がふらつき、千鳥足で逃げようとするが赤子のように惑い激しく転んだ。


「あがっ、あがっ、あがっ」


 言葉が真っ直ぐに発せずに石畳にへばりついて悶絶した。口の開きがおかしい。顎の蝶番が外れたようだった。

 激しい痛みが襲うなか、首をぎりりと引き絞られる。めりりと砕けていく異音がしていた。遅延してやってきた恐怖が思考を混乱させる。


 巨影は闇に溶けながら口をにちゃりと開いた。


 なんなんだ、なにが起きている。この悪魔はなにに愉悦している。裂けるような笑みを浮かべてなにをあざ笑っている。

 オレはこんなところで果てる男か。途絶える男なのか。研究はまだ終わっていない、到底終わっていないというのに。


 脳裏に掠めたのはあの罪、浅ましきあの女の――

 静夜に千切れるような叫びが轟いた。

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