第18話 勧誘
セミナー室の隣の閑散とした男子トイレでしばらくスムトニー教授のセミナーを公聴していたが、さすがに一辺倒の語り口に飽きたとイヤフォンを外した。イヤフォンの向こうでまだ独り語りが聞こえている。アデーラのペンケースはそばにあって明瞭に聞こえているが、学業に不必要な会話はまったく聞こえてこない。自身はむしろそれを望んでいたのに。
セミナーがお開きになったようだ。席を立つ音が聞こえている、今日も収穫は無しだ。そろそろバイトに行かなくてはならない。その時、アデーラが『スムトニー先生』と呼びとめた。
溌剌とした返事がある。浮かせかけた腰を沈めた。彼は以外にも嬉しいのかと思った。
『授業で分からない所があって……』
そういいながらアデーラは有機化学の授業内容についての質問を始めた。さすがアデーラ、期待はずれと小馬鹿にしながら聞いていたが、本人は真面目に質問している。
それに対し、スムトニー教授のみっちりとした返答があって納得したようだった。ラナンが帰ろうとするとアデーラがさらに声をかけた。
『そういえば伺ったんです。以前亡くなったレオナのお父さま、ルドルフ・ノヴァークさんとお知り合いだったんじゃないかって』
すると突然、盗聴器の向こうの声色が変わった。明らかに空気が張り詰めた。
『だれに聞いたんだ』
がなり立てる声が聞こえた。これは明らかな動揺だ、ラナンは聴力を傾けた。
『レオナです、そうだったんだって知らなくて』
アデーラは委縮したようにいい訳をした。幸いラナンのことは機転で隠した様子だった。
『あいつが話したのか、オレと、友人だったと』
人称がオレに変わった。あいつとは父親を示唆している。突発的な出来事に我をも忘れているのか。
『すみません、そんなんじゃ。お悔やみ申し上げたくて』
そういって逃げるように立ち去ろうとするアデーラのペンケースが大きく揺れた。雑音がする。なにがあったは分からないが、怒声がより近くで聞こえていた。
『キミはもうこなくていい』
下手を打ったなとホスポダでのバイトの間中、今後の計画について考えていた。
アデーラから泣きながら電話がかかってきたのだ、セミナーにいけなくなったと。出勤時間までの短時間に彼女の嘆きを聞いて、どうして急に怒ったのかしらというので、どうしてだろうねとはぐらかした。
ラナンならばそういう気まずい問いかけがあればしらばっくれるものだが、スムトニーは案外素直に馬鹿だ、と呆れた。人間は分子イオンのようにスムーズに挙動を選ばない。ひどく感情的で、不安定に揺らぐ。そこに突け入る綻びが生まれるのだが。
ならば自身が直接スムトニー教授の研究室に乗りこんで、長期スパンで計略を練るか。そのことの方が真っ当に思えてきた。そもそも浅く計画を移そうとしていたのが裏目に出たのかもしれない。
「ラナン、コレ九番さんだ」
厨房から渡されたサワークリームの乗ったグラーシュ(牛肉のシチュー)を配ぜんする。
粛々と腰かけた一人客の顔を確認すると見た顔だった。
「スムトニー先生」
「カドレック君じゃないか」
夕刻の不機嫌を忘れたかのように仏頂面だったはずの男はラナンに向けて微笑んだ。まるで用意されたような偶然だった。
「ココで働いているのかい。初めてきたけれど、とてもいい店だ」
「お好きなものを一杯ごちそうしますよ」
「いや、いい。学業の合間に懸命に働いている生徒にそうしてもらったんじゃ示しが付かないよ」
ラナンはくすりと微笑んで、カウンターからグラスのモラヴィアワインを持ってくると置いた。普段見せないような顔でスムトニー教授がぽかんとしている。だが、表情の乏しい顔で少し微笑むとくっと飲んだ。口当たりのいいミディアムボディに満足したのか、感慨深げに頷いている。
「すみません、実は彼女が昼間失礼なことをしたんじゃないかと」
「彼女? ああ、あの子か。だれだったかな」
「アデーラです」
「そうアデーラ」
ぽつりとつぶやいて牛の固まり肉を大きく切り分けた。味の良さはラナンも知っている。継ぎ足しのデミグラスソースでたっぷり煮込まれた極上の逸品だ。それにサワークリームを乗せる。
「やはり女性徒はイヤだな。根掘り葉掘りと。感情に合わないよ」
こちらが男だから気を許したのだろうが、ずいぶんな会話だった。不快を隠そうともしない。生きるのに苦労したタイプだとも思えた。
「セミナーにもう一度通わせてあげてはくれませんか。彼女、先生のことをとても尊敬していたんです」
「無理だよ。熱意を感じたから取ったが、女性徒はそもそも苦手なんだ」
「そう、……ですか」
「でも」
ラナンは視線を向けた。彼の口角がさりげなく上がっている。
「キミがきてくれるなら考えてもいいよ」
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