第11話 マーネス橋

 午前四時十八分、黒のフォルクスワーゲンはマーネス橋に差しかかっていた。下を流れるヴルタヴァ川から立ち上る霧は視界を覆い、アーチ状のコンクリートの橋脚をすっぽり包み隠している。ヘッドライトが濃霧に乱反射して、目前はスノウダストのように濁っていた。


 時がこんなに長いと感じたことは無かった。会社の会議の時間さえ、楽しく過ごせるような男がこの十八分を永遠のように感じている。


 急き立てられるようにアクセルを踏んで、過去の澱みから逃げ果そうとしている。

ジャズアルバムは佳境に差しかかり、ドヴォルザークの第七番第一楽章のジャズアレンジをノスタルジックに奏で始めたところだった。

 重低音の旋律が喉を絞る。心音が粟立ち、呼吸を止めて、ハンドルを持つ男の手は震え続けていた。


「……どうしたのよ、パパ」


 手の震えが目の末端に映り込んだのだろう、レオナが不安げに問いかけた、応える言葉が見つからず口を二、三ぱくぱくとさせて浅い呼吸をする。重たい空気に窒息してしまいそうだった。

 やがてジャズは最高潮に達し、異形の音楽を奏で始める。


 瞬刻、脳裏にあのオレンジの焔が蘇った。業火に焼かれ死んでいったあの女優の裂けるような阿鼻叫喚の焔が――


「この音楽は気分じゃないな、消そう」


 伸ばした指先にタッチパネルが触れそうになった時、


「パパ危ない!」


 目前に大きな黒い影が迫った。鈍音を響かせながら激走してきた人形は全身をゴムまりのように広げて飛び込んでくるとボンネットをそのまま黒衣で覆う。三メートルはあろうかという巨影だった。


 勢いよく車のボンネットに突っ込んだかと思うと堅強な指先でスチールを割り、フロントガラスを蜘蛛の巣状に破損させながらそのまま縦に引き裂いた。金属のめりりと割ける音がして、ドヴォルザークがぐしゃぐしゃになって潰れる。


 分断されたフォルクスワーゲンは走行速度そのままに左右に狼煙を上げ横滑りしていく。レオナの目に運転席で悲鳴を上げる父の姿が遠く映った。

 左座席は欄干に突っ込むと凄烈な火花を散らしながら激しく欄干を削る。一瞬気絶したレオナはクラッシュの勢いで意識を取り戻してシートベルトを外した。


 くらくらとする頭を振り切り、急いで車の外に走り逃げる。背後で潰された車体が大爆発して業火に包まれた。吹き荒ぶ爆風の中、挫いた足を引きずり嘆く声を上げる。


「パパ! パーパーー!」


 叫びが散ってゆく。薄霧の向こうで悪魔の蠢く姿が見えた。




 裂けた右半分の運転席からシートベルトを豪快に引き千切り、無理やり引きずり出されたノヴァークは飛び込んだ光景に目を剥いた。三メートルはあろうかという巨大な木偶の坊に胸倉をつかみ天に吊りあげられている。その鮮烈な眼差しに血の気が引いた。


「ひっ、ひいいいい」


 無表情の不気味な悪魔は玩具のように軽々とノヴァークを揺らしている。勢いよく振り下げられると顔面をアスファルトに打ち、鼻血を垂れ流した。痛覚がマヒするほどの衝撃だった。擦られた勢いで頬の皮膚が半ばずる剥けになり、毛の濃い太鼓腹を剥き出しにそのまま引きずりながら連行される。痛さと恐怖で胃の腑が消化しきれなかった宵の酒をごぼごぼと吐きこぼした。


「ああ、あああああああああ」

「止めて、止めて! お願いよお」


 遠くからレオナの呼ぶ声が聞こえる。


「助けてくれーーーー」


 応じるもののない絶叫が虚ろに伸びていく。霧の中では豪気が渦巻いていた。

悪魔はぎぎぎと関節を鳴らしながら、罪人を再び宙に吊り上げると無機の目で見定めた。感情ごと地獄に引き摺りこむ死刑執行人の目をしていた。


「許してくれ、許してくれ」

「パパ!」


 ようやく走り寄ったレオナが悪魔の黒ずくめの体に縋りついた。泣き叫び、懇願する。背後から、かつかつとアスファルトを鳴らす音が近づいた。


「モラヴィアへは行かせない。あんたの命運はここで尽きる」


 聞いた声がゆっくりとゆっくりと霧の中から立ち上る。

 霧の中に青い光が一つ見えて、息を呑んだ。痩身の黒髪にターコイズの瞳の青年が右手を突きだし小さなマリオネットをぶら下げていた。


「ラナン!」


 姿を見止めたレオナが蒼白で叫んだ。ラナンは表情を変えないままで怯える父親の方に目を向けた。


「骨はどうした」


 まるで人生で犯してきたすべての罪を糾弾するような響きだった。感情のない声に身震いしてノヴァークは犯したすべての判断ミスを後悔した。今朝自宅を出なければ、あの時娘の交際を認めなければ、酒を酌み交わさなければ、そもそも九年前にあの場所にいなければ――


「なんの話だ!」


 最後の強情を張り叫んだ。叫びとともに口角が切れて血が飛んだ。


「お前たちは九年前に女優を殺した。その女優の骨はどうしたかと聞いている」


 ラナンが声を張り上げ恫喝した。あまりの剣幕にノヴァークは声を失った。

 失声した様子の男を見定めて右手の小さなマリオネットを動かすと悪魔が剛腕を勢いよく振り上げた。ノヴァークは失禁しながら恐怖に叫んだ。


「金庫だ! あの女の骨は貸金庫にある」

「どこの銀行の?」

「やめてラナン!」

「どこの銀行の?」


 吹き飛びそうな思考を巡らせてノヴァークは震えこぼす。


「ああ、あ……プラハ中央郵便局だ。取りに行こう、朝になったら一緒に取りに行こう」

「取りに行くのは一人でいい」

「そ、そうか。これが鍵だ」


 ポケットに手を突っ込むと鍵をアスファルトに転がした。それをラナンは拾う。


「お願いだ。もう助けてくれ」


 ラナンは、くっと口元を釣り上げると残忍な笑みを残した。


「お前は懇願した女優になんといった」

「オレはなにもいっていない、なにもだ。信じてくれ!」


 くつくつと声が落ちる。その異様な笑いをレオナは蒼白の顔つきで捉えた様子だった。


「燃やせ」


 その言葉に反応してノヴァークは、ひっと悲鳴を上げる。ラナンは腹を抱えて笑っていた。


「冗談だ、安心しろ。あんたの娘じゃないんだ。煙草なんて吸わないからライターなんて持ってない」


 そういって手のひらをさらさらと振る。力なく悪魔の足元にへたり込んだレオナの耳でラナンは囁く。


「ベージュのバッグを馬鹿みたいに大事にしてくれてありがとう。最後にいいことを教えてやるよ。気軽に愛を囁ける男は信用しない方がいい」

「……や」


 声は聞き取れないほどに掠れていた。目元をぐしぐしと拭いながら懸命に慟哭を堪えている様子だ。その濡れた頬に冷めたキスをする。


 レオナは目を剥いて金切り声で叫んだ。


「あなた誰よ!」


 この耳障りな声も、もう二度と聞くことはないだろう。愛しいと思ったことはないが、寂しくなるかもしれないな。心でそう呟く。すっと表情を改めるとターコイズの瞳を見開いて冷たく言葉を下ろした。


 「羅南申ラナン・シェン

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