第10話 動揺と逃走
ノヴァークは震え惑いながらスーツケースに証書類を詰めていた。部屋に散乱した紙の狂乱ぶりがそれを窺わせる。時刻は真夜中の三時だが、酔いは冷めて冷や汗が伝い、慌てふためく心に冷静になれと何度もいい聞かせている。会社の大事な証書や登記関係のものは詰めたがまだやらなければならないことがあると思いを巡らせた。
銀行か、と吐息する。こんな時間に貸金庫など開いていない。
安全だからと隠し場所に選んだのに肝心な時に不便になる。
ベッドに放置していた真白い紙をもう一度拾い上げると読み返した。こう書いてある。
――『あなたの罪を知っている』
すべての罪を暴露するような響きに心が凍った。
なんの罪が、と突きつけられた訳では決してない。むしろ抽象的な言葉だ。でも自分のなかでその言葉と過去の出来事が完全に直結している。イスに項垂れ、頭を膝に抱え込むと吐息した。
あの晩、あの暖炉の部屋にいかなければ良かった。
怖いことをやってしまえたのはそれほどに若かったからだ。人生を台無しにするような罪を共有したのは自分だけではない。みんな、みんなあの場所に集っていた。そう思って確かめるための電話をしようとしたが、誰にもかけられなかった。某人に盗聴されているのではないだろうかという恐怖があった。
もう一枚めくると『明日、会いに行きます』とある。喉が干上がるほどに狼狽した。心拍が乱打し、不規則に揺らぎ始める。
即座に頭を掠めたのは『魔女の火刑』の終盤だった。嫌悪し読めなかったはずの書籍の続きを偶然にも昨日開いてしまった。
魔女を焼いた罪人たちは魔女の怨念に呪い殺されて……
脳裏に掠めるのはあの青年のターコイズの瞳だ。彼はラナン・カドレックといったか。イヤな目つきばかりが脳裏に映り込む。血筋を恐れているのか、そんな確証はどこにもないというのに。
頭を振ると呪いを掻き消した。
証拠は持たねばならない。だが、朝まで遅らせれば致命傷になる可能性がある。
デスクに目を向けると別れた妻とレオナの三人で撮った写真があった。なにも知らなった裕福な妻と幸せなその娘だ。
その写真立てをスーツケースに詰め込むと立ち上がった。
扉をノックするとレオナが眠そうに目をこすりながら出てきた。
「なあに、パパ。眠いわ」
「今すぐ支度しなさい。出かける」
「えっ。今から」
薄めのネグリジェを掻き寄せて、豊満な胸を覆うとレオナは不安そうな顔をした。いつもなら苦言を呈する格好だが、今は気にならなかった。分かったと呟くと一度扉を閉める。
着替え終わったノーメイクのレオナの腕を引き、階段を駆け下りるとアンネを呼んだ。
「アンネ、アンネはいるか」
「ございますよ、夜更けにどうなさいました」
「しばらくの留守を任せる」
アンネは少し驚いた様子だったが、言葉を選びながら応じた。
「旦那さま、今からなんて急です。朝までお休みになられてから」
「時間が無いんだ」
そういい捨てると運転手も構えないまま、車庫へと向かった。心にはあの言葉がずっと渦巻いている。
あなたの罪を知っている、あなたの罪を知っている、あなたの罪を知っている……
プッシュスタートするとエンジンが高鳴る。黒のフォルクスワーゲンは閉塞感を纏いながらそのまま静かに町に走り出た。
ゾンビ映画に出てくるゴーストタウンのように、平坦な道には人はおろか車の姿もなかった。早朝四時だ。菩提樹の目の覚めるような木立は宵闇に溶け、その足元を暗いオレンジの街路灯が照らしている。閑散とした道を滑る走行音だけ響いていた。
「どこに行くのよ。パパ」
呆れたような顔でレオナが問いかけた。メイクをしないままでも十分魅力ではあるが、少し疲労したような様子だった。
「モラヴィアに行く。しばらくそこで過ごすんだ」
「モラヴィア、遠いすぎるわ!」
プラハのあるボヘミヤ地方とはチェコ国内で東と西との差だ。ルーツがあるといえば示しは付くが、逃亡先というのにはあまりに疎遠だった。戻ったのは十年前の夏以来、レオナもまだ幼かったころだ。
「おじさんの家に少し置いてもらうようにしよう。誰にもいうんじゃないよ」
「ラナンは」
「あの男は絶対にダメた!」
大喝するような声に萎縮してレオナは口を噤んだ。彼女はなにかまだいい足りない様子だったが、それ以上は口にしなかった。そういうものはいずれ忘れるとFMラジオをつけた。
丁度やっていたのはコメディアンがMCのトーク番組だった。きわどい下ネタを交えながら、夜中にしか話せないようなことをダべっている。嫌いじゃないがとても笑える心地ではなかった。
苛立ち交じりにラジオを消すと音楽をかけた。ノヴァークの好むジャズだった。
トランペットの柔らかなスイングが心の汚泥を掬ってくれるような気がする。鬱積した不安が気持ちばかり軽くなった。信号待ちで煙草に火をつけると一つ大きな息を吐いた。
レオナはベージュのバッグを抱えたまま不安を発露した。ラナンがプレゼントしてくれた気に入りのものだった。
「……夏休みの間だけよね」
「分からない」
落ちくぼんだような目がバックミラーに映る。信号は青だった。
アクセルを荒く踏むと目下の行き先を告げた。
「マーネス橋を渡って向こうへ行く。ついたら起こすから少し眠りなさい」
眠れないわよ、といいながらレオナは不安げな様子を見せた。
イヤフォンの向こうで小さなカーステレオが聞こえている。
はっきりマーネス橋だといっていた。確信をもってその言葉をラナンは耳に焼きつけた。
罪人は町を横断してプラハを抜けだそうとしている。車の走行速度には追いつけないだろう、だから対峙できるチャンスは一度きり。
右手の人差し指をつんと振ると小さなマリオネットが無表情で虚空を見た。ラナンの感情を汲んだかのように冷たく蔑むような顔をしている。
手のひらを上下に開き、マリオネットを囲うと祈るように呟き見定めた。
《汝の決意を示せ、ディアベル》
最後の楔が解かれてゆく、静かにたぎる情炎を乗せて。路面に青白い光の円陣が描かれて中から巨魁の悪魔が出現する。隠者が死の衣を引き連れて葬列を成していく。
マーネス橋には濃霧が立ち込めていた。
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