第8話 オペラと推理

 夏休みがきても彼女との関係は濃く、密接に続いている。これはむしろ望んでいたこと。交際を反対していた懸念の父親もこのところなにもいわないようだ。彼はなにに怯えているか。ラナンはその正体を知っているが、今は明らかにするところでもないだろう。


 大学二年というのは研究室にも所属せずに休みは一番自由な期間で、夜はバイトに明け暮れて、遠方の旅行にも行けないからと特別の演出を用意した。


 昼下がりのカフェテリアに彼女を誘い出し、ランチを取りながらチケットを渡した。今日の彼女は珍しくロングスカートで、猫のような瞳を大きく見開いている。


「これ、オペラよ。しかも『魔女の火刑』の。誘ってくれるの」

「そうだよ」

「嬉しい」


 感激した様子で、瞳を潤ませている。こういうものは決して安くはないが、より親密になるために必要だった。彼女がオペラを好むのは知っている。日頃から映画を観るような頻度で上等の席で鑑賞していることも。それでも彼女はラナンに誘われたことが嬉しいのだ。


「おしゃれしていくわ」

「困ったな、合わせる服が無い」

「いつものジャケットでいいのよ」


 軽くキスすると目を合わせて微笑んだ。ブラックエプロンのウェイターがブラックコーヒーを持ってくる。燻らせると苦味のあるフレイバーがした。


「その後はラクールでディナーだけれど構わないよね」

「えっ、嘘! 席取れないのよ」

「取れた」


 そういってホームページを見せる。


「嬉しい!」


 感激した様子でレオナが口元を包みこんだ。そのまま目元まで拭っているような気がする。


「どうしてこんなにしてくれるの。ここまでしてくれた彼氏ってないわ」

「旅行に行けないだろう。これくらいするさ」

「でも……」

「それにキミに尽くさない方が可笑しいだろう」


 まるで舌が引きつれそうなセリフだと嫌悪したが、それでも彼女はお世辞と受け取らなかった。バイトの給料の大半をつぎ込んだ。下心なしに赤の他人にそれほど尽くせる男は世の中にそうはいない。初な彼女はそのことに勘付かない様子だが。


「どうしよう。綺麗にしていかないと」

「キミはいつでも素敵だよ」

「ラナン、あなた時々セリフが耽美すぎるわ」


 そういって染まった頬を抑える。彼女にしてはずいぶんチャーミングな仕草だ。それらしく使っているがそもそもの言葉の意味を分かっているのか。

 トイレ、とレオナが席を立つ。化粧直しにでもいくのだろう。いいよ、と笑んだ。それほど直さなくてもあんたに魅力なんか感じていない。ラナンは去りゆく背中に冷めた心でそう呟いた。



       ◇



 当日、ラナンは気の利いた黒のスエードジャケットでオペラを鑑賞した。レオナは派手な格好を好まないがおしゃれには手を抜かない。隣に居座る男をおしゃれのような感覚で身につけて恥をかかされることを大変嫌うので、大して興味のないファッションでもいつも気を抜くことが出来なかった。


 刺すような感情はあったがそれでも見られた。ほとんど目を伏せてはいたが、それでも内容は耳から入ってくる。肝心の女優を燃やすシーンになるとさすがに実演する訳にもいかず、比喩的な炎を纏わせながら、曲と芝居で嘆きの感情が表現されていた。

 チェコ語で公演されるオペラもまたこの国の人々が好むところだろう。チェコ語が国の機関に受け入れられるまでに、どれほどの歳月を要したか人々は知っている。


 オペラの余韻そのままにディナーの店へ移動し、満席の店内でコースのフランス料理を堪能しながら、ちょっといいボルドーの白を飲んでいる。彼女はそういう小洒落た雰囲気を好むので、よりいっそう饒舌になった。


「今日のオペラ素晴らしかったわ。とくにドボルザークの七番の第一楽章。マリオネットの録音とはまるで違ったわ。やっぱり生の声ね、身を削がれるような心地だった」

「シャンデリアが落ちたような迫力だったよ」

「ルォシーの人生が終わった瞬間を巧みに表現しているのよ」


 そういって彼女は心酔している。今ならばいいだろう。


「僕も読んだけれど、キミは僕以上にあの本を読んでいるでしょう」


 高鳴る心拍で自然を装い、問いかけるとレオナが首を傾げた。


「だから、例えば。一部にはあの物語は事実だなんて噂があるけれどキミの見解が聞きたいな」

「それネットの噂ね。ラナンは信じているのかしら」

「信じてないよ。でも興味深いと思えたんだ」

「わたしは割と信憑性はあると思ってるの」


 そういって上機嫌な彼女はこんがり煮えた鴨のコンフィにナイフを刺し入れる。


「どうして?」

「噂があったの。もう何年も前よ、資産家が寄ってたかって異国の名もなき舞台女優を殺したっていう噂が。わたしが小さい頃のことだから分からないけれど。まとめサイトに書いてある」


 それはラナンも知るところのことだった。だが、それは伝えない。


「その噂があったから余計に話題性を呼んだのよ。みんな過去の偉人の悪事を知りたがるでしょう」

「実際にあるとしたら。そうだね、肝心の魔女の骨はどこにあるのだと思う」

「理知的な会話を好むラナンにしては情緒的ね。それは事実じゃないわ」


 そういうと鴨肉の刺したフォークをわざと行儀悪く突き上げた。


「いい切れちゃうんだ」

「犯人がいつまでも証拠を隠し持っている方が可笑しいわ。そんなのリスクよ。仮にもし持ってたとしたらっていう推論に意味はないと思うけれど。犯人がどこかに埋めたんじゃないかしら」

「みんな裏切らぬって証なのに?」

「持ってる方がリスクを負うでしょう」

「どこかに遺棄してバレる方がリスクを負わないかな」

「人を殺したら、あなたならそうするのね」


 そういってレオナは肉汁の光るコンフィを口に頬張る。別に気取ることはない、ただの食事だ。


「国民みんな興味があると思うけど、キミのお父さんはあの話好きかな」


 薄氷を踏むように一種の賭けだと思いながら口にした。危ないと思っていたが、ボルドーが言葉をまろやかにさせた。


「嫌いみたいよ、でも本は持ってる。書斎にあったもの。きっと読んで感情に合わなかったんだわ」

「そう、とてもドラマティックな物語なのに」


 やはり彼は勘付いている。確信を持った。その上で、当然のことながら娘は知らない。


「でもどうしてパパ?」


 興味を示したらしいレオナがコンフィを咀嚼しながら問い返してきた。皿に黄ばんだ油が残っている。


「どうしてって、色んな人の見識聞いてみたいんだよ」

「興味無かった癖に。本を読んで好きになったのね」

「大いに刺激を受けたよ。憶測があるからね」


 それよりもわたし、と呟いてレオナは猫のような視線を向けた。ひと際鋭い目つきのように思う。


「わたしは作者が関わりがあるって思ってるの」

「えっ」


 ラナンは虚を突かれて息を呑んだ。この数カ月でその可能性は十二分に考えた。熟慮というほどに。でも、訴追しようのないことだった。


「作者のヤン・エポカ。ペンネームだから本名は分からないわね。ああいう精巧な物語を書きだせるのはむしろ経験談じゃないかしら」

「ネットの情報を元に書きあげた物語ともとれるよね」

「それもある」


 と、彼女はワインを飲みほした。グラスをことんと置いてとろけるような笑顔を見せる。


「わたしやっぱりまだ、帰りたくないわ。あなたと魔女の火刑について理解を深めたい」

「それ、本当?」


 疑るように語尾を吊り上げた。

 また面倒で金のかかることをいい始めたと内心思いながら。

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