第7話 ホスポダで

 宵の賑わいを見せるプラハの町には蛍火のような街灯が灯っている。石畳には飲みどころを探し歩く観光客の姿が散見されて、知人同士寄り添いながらガラスの向こうのオレンジに輝く店内を指さしている。


 繁盛している店は安くて美味い。それも念頭にあるだろうが、それよりも空いた店内で満足のいく時間を過ごしたいと思うような客がやって来るのがラナンの働くホスポダだ。

 値段は一般より少々高く、でも料理は日常より気取ったものを。財布さえ気にしなければ、広い席でゆったりと食事が出来る。


 漆喰の白壁に桜の木を織り交ぜたカントリー調の店内にはテーブル席がわずか四つ、九つのカウンター席ではほろ酔い客が店員とご機嫌なやり取りをしている。その品がありながらも砕けた雰囲気を好んで通うものも多い。

 テーブル席にジャガイモのクネドリーキ(牛肉のシチュー)を配ぜんすると常連の老人がうれしそうにした。


「ああ、ありがとう。ここのクネドリーキは最上に味が濃くて柔らかい。肉に合わせなくても美味いんだよ」

「肉要りません?」

「もちろん持ってきてくれたまえ」


 ラナンの冗句に笑ってくれた老人はピルスナーウルケルを瓶ごと煽った。それを見て、現役だなとラナンもほくそ笑む。彼は先月まで肝臓を患っていたけれど、豪快に飲酒できるなら少なくとも元気な証拠だ。

 皿を手に持ち、腕に乗せ、背筋を伸ばして歩いているとカウンター席から声がかかる。


「お兄さん、夏休みもバイトね」


 グリーンオリーブの塩漬けをフォークに突き刺した中年の女性客が問いかけてきた。彼女もまた気心の知れた常連だ。


「そうだよ。エンプティなんだ」

「わたしも。バカンスにいったばかりで使いきったわ」

「どこに行かれたんです」

「パリ、とても良かったわ」


 綻びを見せる彼女の頬は少し上機嫌に染まっていた。きっと夢心地で過ごしたのだろう。


「へええ、パリ。いったことないな」

「芸術は好きでしょう」

「もちろん」


 ラナンは愛想よく微笑んで見せる。


「ならやっぱり美術館巡りよ。でも夏休みなんかにいっちゃダメね。観光客を観に行くようなものだから」


 思わずラナンは苦笑する。


「プラハと一緒ですね」

「繁忙期が来るわね。お店は嬉しいかしら」

「適度がいいんですよ」


 そう笑うと厨房から「ラナーン!」と大きな声がかかる。余計なことはいうなと冗句らしい。二人で砕けたように笑った。


「おかわりのピルスナーウルケル要ります?」

「ちょーだい」


 蠱惑的に表現したので、少し身を引いた。熟女に興味はないよと心で笑って見せる。

 それから数時間、時も忘れ働いていたが、閉店時間になると客足も少なくなってきた。


 カウンター席に座って常連のおひとりさまの相手をシェフとしていると豪快に店の扉が開かれた。


「レオナ!」


 驚き名を呼ぶ。ずいぶん酔って乱れた様子でレオナが開いたテーブル席になだれ込んだ。

 そばに寄ると呼気からアルコールが臭う。


「レオナ、独りで来ないでっていっただろう」

「席が埋まらないからかしら」


 冗談いうなと腰に手を当てる。当然こちらは呆れ顔だ。


「ひとりで飲んでたんだね」

「お水ちょうだい」


 豪快にテーブルに崩れ落ちたので、厨房へ水を取りに行った。差し出すがレオナは突っ伏したまま起きない。


「水飲んで、閉店までいて。送ってくから」

「いいわ、独りで帰るから」


 そういって腕時計を外している。父親に買ってもらったような上等のヤツだ。無くすといけないと彼女の鞄に突っ込んだ。


「キミは口説かれるだろう」

「わたしはいつでもラナン以外見ていないわ」


 声が虎のように大きい。いつもの華やかな音色を含んでいない。苛立ちが混じっているような気がして事情を問いかけた。こういうのは大抵父親がらみだ。


「パパとケンカしたの。あなたのことでよ」

「僕のこと?」


 不穏な気配がして、眉をひそめた。レオナがようやくグラスの水を飲む。荒い嚥下の音がした。


「どうしてもあなたと別れろっていうのよ。どうしてだって思う。目が気に入らないんですって」


 そこまでいうと急にへらへらと笑いだした。腹を抱えて笑っているが付いていけない感覚だった。


「ごめんなさいね、ラナン。コレ……あなたにいう……ことじゃないけ……」


 荒々しい声が先細り、段々と小さくなって意識が遠のいたようだ。レオナはそのまま寝入ってしまった。

 どこにも放置出来ないので、店主に事情を告げるとそのまま寝かしてやれと了承してくれた。


 目覚めた彼女をトイレで吐かせて、仕事終わりにタクシーを捕まえて彼女の自宅まで送っていく。

 ラジオが流れるタクシーの中で彼女がキスして、とせがむのでラナンは止めなさいと諭した。彼女はラナンの胸で静かに泣いていた。


「すみませんでした」


 出てきたお手伝いのアンネに謝罪するとにこにこ笑顔でいいんですよと笑っていた。


「旦那さまをお呼びしましょうか」

「いえ、僕はこれで」


 簡素に笑って感じよくお暇する。背を向けると背後でアンネがレオナをたしなめる声が聞こえていた。


 広い庭を抜け、門扉を抜けると背後の邸宅を睨みつける。肩耳にイヤホンを入れると聴力を研ぎ澄ませた。ここはすこぶる電波がいい。丁度父と娘の口論が始まったところだった。


 おそらく内容は自分との交際のこと。父親の野太い声が聞こえている。互いに酒を飲んでいるようだが。

 攻め立てられた娘はムキになっている。彼女が敗北を認めてしまえばこの関係は崩れるだろう。


 ラナンは右拳を握り締めた。ここまで上手くいっているのに手から聖水が零れ落ちそうになっている。わがまま娘を手籠めにするまでにどれほど苦労したか。


(あいつは絶対に逃さない)


 これ以上盗み聞いても大した展開にはならないだろう。視線を伏せながら、静かな夜のプラハへと戻っていった。

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