2章 霧のマーネス橋

第6話 限定ブックカバー

 国立マリオネット劇場で行われた『魔女の火刑』の後半公演は大盛況だった。一夜限りの幻の舞台に臨席出来た人々の心内には特別の歓喜が押し寄せてスタンディングオベーションの止まぬなか、演者たちの晴れやかな笑顔が舞台上で輝いていた。


 恋人のレオナに誘われて、否応なしにその場に居合わせたラナンは少々複雑な気持ちを抱いていた。

 興味はあった、でも観たくはなかった。観るつもりが無かったといっていい。だが、心底にわずかに残る懐疑の気持ちが自身をその場に惹きつけた。


 隣のレオナはとても興奮した様子で、瞳を輝かせて手を打ちあわせている。隣席の人々も感想を伝えあい、演者にリスペクトを示す。演劇を愛する国民性はこのようなところにも如実に現れるのかと他人事のように思った。


「魔女のルォシーの人形すごかったわ」


 帰りに寄った裏路地の洒落たカフェでレオナがうっとりと感動を露わにした。


「ああいう迫力のあるものは魂込めないと作れないよね」

「わたしも思った」


 レオナが深刻な顔で同意するので、ラナンはストローで氷を掻き混ぜた。からんからんと鳴る音を聞きながら意識を沈めていく。あのおぞましき黒髪に嫌悪を覚えたのは自分だけだったか。それが人々の歓喜に交われない一番の理由だ。そして、おそらく彼女はなにも知らないはずだ。

 聞いていいのか、聞かない方がいいのか。


 まるでチェスを進めるように手ゴマを模索しているのは自身が理系学生というのも多少あるだろう。こういうのは感覚的ではいけない。


「ラナン」

「えっ、なに?」


 氷の音に意識を奪われていたことに気付いて視線を上げるとレオナがスマートフォンで『魔女の火刑』の発行元のホームページを検索したところだった。相関図や動画など載せたとても力の入っているホームページだが、こういう工夫もまた購買意欲をそそるのだろう。


「今、単行本買うと限定カバーが貰えるんだって。ネットの知識だけだと不満でしょう。本買わない?」

「いらないよ」


 ふっと笑うとレオナがついっと唇を突き出した。


「わたしが限定カバー欲しいの。本はあなたに上げるからカバーだけ頂戴」


 まったく面倒なお譲さんの相手をいつまでするのか。吐息していいよ、と投げやりにいうとその腹の底も悟れぬ彼女は嬉しそうに破顔した。

 急いでいった割に限定カバーはもう少なく、小さな店の書店員が間に合いましたねと笑った。かけてくれたカバーは外し、レオナに即刻渡して本をバッグにしまおうとすると引きとめられた。


「そこのベンチで読みましょう。わたしも持ってるの」


 変なカップルだよ、と笑って流そうとしたが彼女の様子は大真面目で、少々困惑しながら空いていたベンチに腰掛けた。

 ただの大学生の日常だと思えれば容易いが。そう心で呟きながらページをめくった。


 開くだけでこんなに不愉快を狩りたてる物語はない。一文字一文字に込められた言葉が心を鬱血させる。ポーカーフェイスは日常的に使うほど得意だが、それでも抗うような種のものだった。この場で真実が露呈するわけにはいかないというのに。

 特に冒頭の燃やされる瞬間のその叫びには息が詰まりそうだった。業火に灼かれたその女優の叫びがリアルに再生されて、今しがた観たばかりの物語が白熱のものとなって蘇る。


 その苦しみ、喘ぎ、泣き叫んだ感情が……


 胸の悪心に耐えられなくなったところで限界だと吐露した。


「……レオナ、ごめん気分が悪い」

「えっ、大丈夫?」


 切れた唇の味がして、零れそうな感情が抑えられない。レオナが心配そうに声を上げた。


「ごめん今日は帰るよ。家で読んでおくから」


 本を閉じるとレオナがうん、その方がいいよといった。

 彼女と別れ帰宅する間中も、取り巻く町の喧騒がまるで大縄のようにぎりぎりと心根を締め上げている。抱えてきたすべての不幸を嘲笑うような魔女の慟哭が鼓膜を揺さぶり止まない。


 耐えるように歩いていたが、家までたどり着けないと悟ったラナンは公衆トイレに入ると個室で嘔吐した。悔しさに濡れた頬を膝に押し付けてうずくまる。床を感情のままに殴ると拳が裂けるように痛んだ。

 吐物を流し個室を出ると、流しっぱなしの蛇口の水で顔を洗った。鏡に映る青年は青白い顔をしていた。


 轟々とざわめく流水が時計回りにスクリューを巻いて排水溝へ吸い込まれていく。下水に流れ落ち黒い水に飲まれていく末路を想像して、その無情な音に滲んだ視線を乗せた。


 冷静にやらなければならない、それなのに数多の感情が邪魔をする。

 目を眇めると唇を悔しく噛み締めた。


(なんのためにここまで来たのか。感情を隠せ)


 鞄の中の荷物となった本を取り出すとそのまま無機質なゴミ箱へと投げ入れた。


「二冊もいるかよ」


 蔑むように新本を見捨てると公衆トイレを後にした。


 旧市街を通り抜けながら、町の様子を眺めていた。みな、幸せそうに歩いている。それが真実この町の姿。だが、そのどれもが恨めしく、とうに自身が失った小さな幸せを思い起こさせた。

 幼きころに過ごした時間の一端が記憶となって蘇る。母と手を繋ぎ歩いた公園、ショーウィンドウの中のぶりきのおもちゃ、赤いドレンチェリーの光る小さなエンジェルケーキを買ってもらったこと。


 ささいな思い出をこんなにも愛していた。ここは愛すべき国だった。幸せから取りこぼされたような感覚だけが今はおぼろげに漂っている。

 ふと、出来た人だまりに足を止めた。


 スマートフォンから流れる小さな音楽に合わせて、老舗のマリオネット工房の前で女性職人が出来たばかりのマリオネットを踊らせていた。その愛くるしい仕草に心酔して、みんな笑顔を綻ばせている。


 足の関節を派手に砕き、腕を上下させて、座り込んだと思ったら左右の足を振り上げてコサックダンスする。怪奇な糸は器用だがどうなっているのだろう、と覗き込んで見つめるものもいる。熟練の腕でなければそれを表現しようはない。

 数分間のお披露目が終わるとマリオネットと女性職人が同じにお辞儀した。拍手が沸き起こった。心打たれた何人かは商売繁盛と待ち構えた工房へ入っていく。

やがて喧騒が去ると吐息した。残されたものもまた街路へ散ってゆく。


 ラナンはポケットの中の小さなマリオネットを握り締め、視線を歪めた。


(止めろよ、焦がれているなんて馬鹿みたいだろう)


 今はそう念じることでしか、自分を慰められない。

 旧市街地の一角で良く見られる光景に泡沫のように微笑んで表情を消した。


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