第5話 互いの本音

「ただいま、パパ」


 レオナが徒歩で帰宅すると、リビングの大きなラウンドソファで荒々しく陶器のビアグラスを傾けていたノヴァークが目を剥いた。


「遅かったじゃないか。何時だと思ってるんだ」

「朝まで飲まないでっていったじゃない。大丈夫、ラナンが送ってくれたから」


 バッグを乱暴にソファに投げて上品に腰かけると、その様子を見てにこやかなアンネが台所からやってくる。


「お嬢様、おはようございます。朝食ですか、お紅茶ですか」

「温かいアールグレイが欲しいわ」


 かしこまりましたと応じて、アンネが引っ込んだのを見届けると父が呆れ声を落とした。


「そんな男を誘惑するような格好をして」

「スカートが短くタイトなのは女子大生だからよ。流行りだもの、別に誘惑してない」

「あの男は止めておきなさい」


 ずっと構えていたようなセリフの響きに、レオナは一瞬何をいわれているか分からなくなった。ついて出た言葉は反発するものだった。


「また? 今回はすごく気に入ってたじゃない」

「止めておきなさい。人を見ている父さんがいっているんだ」


 急に経営者の事情など突き立てられても困るのはこちらなのだ。

レオナはこれまでの男性遍歴を思い返した。それを思うと抗いがたいものもあるが、同時にふつふつと怒りの感情が湧いてくる。


「いつもそう。あいつはダメ、こいつはダメ。でもね、高校時代の彼とはずいぶん違うわ。わたし、もう大人よ。本気なのよ」

「朝帰りのことをいっているんじゃない。そうじゃないんだ」


 ノヴァークはたんっとビアグラスを一枚板のテーブルに叩きつけた。泡が白く乱れる。


「わたしも初めは良い子だと思ったよ。彼が帰るその瞬間までは良い青年だと思っていた」

「ならどうして!」


 金切り声を張り上げたレオナにちらと目を向けると、ノヴァークはざらついた感情を舌の上で転がした。


「……イヤな目だ」


 レオナはそのあまりの深慮な声に息を呑んだ。

「去り際の。とてもイヤな目をしてたんだ」


 論じていることが分からなくてレオナは涙目で問い返す。


「素敵なターコイズなんでしょう」

「そうじゃない、そういう意味じゃない。聞きなさい、レオナ。彼は人を侮蔑するような目をしているんだ」

「ラナンは謙虚よ」


 涙がこぼれてくる。どうしてわたしはいつもこう。父のいうことに逆らえなくなるんだろう。ティッシュで拭っているとノヴァークもまた瞳を潤ませて、栓抜きでピルスナーウルケルを開けた。昨日、二人でプレゼントしたシルバーの栓抜きだった。

それをそのまま木目のゴミ箱へと投げ捨てた。深いダクトに落ちたような音がした。


「ひどい!」


 涙が止まり、感情が爆発したようにレオナは声を突き上げた。


「ラナンそのためにバイトしたのよ!」

「信用できないな」


 父の呼気にはアルコールがずいぶん混じっている、今しがた開けたものでいったい何本目になるのだろう。アンネがその都度テーブルを綺麗に片付けていくから、まるで本数が分からなかった。


「旦那さま飲み過ぎですよ」


 そう咎めながらも継ぎのアイスバケツを持ってくるので、レオナはそれを手で押し留めると小声で命じる。


「片付けて頂戴」


 困り顔のアンネが背を向けて去り、二人リビングに残されると小さな声で懇願した。


「愛してるの」


 泣きながら洟をすすった。憤った様子で父が首を振る。


「すまない、レオナ。お前も大人になった。分かっているよ。誰でもいいが、あの男だけはダメだ」

「分からない」


 そういい置くとレオナはリビングを後にして自室へと籠った。

 空気の張りつめた部屋にはホップと口論の苦味だけが残る。愛し合った親子のとても難しい事情にも思えたが、それでも同意できないとノヴァークは独り言ちた。イヤな感が腹の底で騒いでいるのだ。

 ピルスナーウルケルを飲みながら、自虐的な声を零すと深くゲップした。


「あの目はとても似ているんだよ、あの女に」




 最後の呟きを盗聴し終えるとラナンは耳からイヤフォンを外した。


「聞きたいようで聞きたくなかったな、特に最後の言葉は」


 星の消えゆく空に朱が差し始めた。古都プラハはもうじき目覚める。風の良く通る高台の公園に今は一人、犬の散歩をしている人さえいない。

 朝帰りする恋人を送っていったりする男でなければ孤独にこんな時間にこんな場所にいることはないだろう。あるいは帰る場所を見つけられずに徘徊し続ける野良犬か、放浪好きな野良猫か。

 清涼な町を見つめ、ずっと考えていた。だが、これ以上は深追いでしかないと盗聴器の音を切る。


 遊具のパイプに腰を落としていると足首に触れる柔い感触があった。

 グレーにストライプの仔猫が甘え鳴きながら背を擦り寄せていた。滑らかな心地に心のこわばりがほんの少し解けた気がする。心に触れる温かみはもう何年も感じたことが無いものだった。


 ずっと時を定めていたのは、迷っていたからではない。確証が欲しかったのだ。咎人の命を間違いなく刈り取るための確証が。

 右手に握り締めていた小さなマリオネットをすとんと落とすと宙に踊らせる。無垢なままに生きるには辛いことが多すぎた。


 ラナンは呼気を吐くと湧き立つような激情を静かな風に乗せた。うわばみのように伸びゆく悪意の末端を誰が感じ取れたであろうか。

 足をクロスさせて、最後の純な呼気を吐き切ると町を冷視した。

 ああ、知らない朝がまたやって来る。

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