第3話 ピルスナーウルケル

「理学部というのはそんなに勉強しなくてもいいものなのかい」


 上手に飲んで優雅な食事をしながら、日常のことなどずいぶん楽しく会話していたが態度の砕けてきたところでノヴァークがそんなことを問いかけた。

 ラナンは少し考える。たぶん日頃のレオナを見ているからこその感想なんだろうが。


「レオナさんはとても感性豊かな方なんです。興味の範囲は演劇や芸術など幅広い。大学生の仕事は勉強することだけじゃないですから。でも、もちろん彼女も学校では勉学に励まれていますよ」


 目の端でレオナがふっと吹きそうになったのが見えた。


「家で勉強をしている様子がないから少々心配になってね。おまけに単位を取りこぼしたって聞いただろう」


 そういって極太の指で栓抜きを持つと三本目のピルスナーウルケルを開けた。


「わたしは経済学部だから、理系のことは良く分からんよ。でもわたしも遊んでたからなあ。娘のことはあまりいえんが。それでも理学部は熱心な生徒が多かった記憶があるのだよ。キミのようにね」

「ラナンは勉強しすぎよ。パソコンに穴が開いちゃう。優秀なの」


 苦笑してしまう。まったく独創的な会話をする彼女だ。たぶんこういう所が彼女の感性が顕著なところなのだろう。


「あまり優秀でない娘だから将来を憂えているよ。キミさえその気があればの話ではあるが……」


 いいたいことが伝わってしまって、ゆっくり言葉を選ぶと応じた。


「卒業後はレオナさんとのことは真面目に考えています」

「……嬉しい。ありがとう、ラナン」


 レオナがほろろと涙ぐんだのでお手伝いのアンネがティッシュを運んできた。


「わたし、お料理頑張るね」


 頭を下げてしとしとと泣いているので、ブロンドを撫でてやると仄かにローズの香りがした。


「急げという意味ではないよ。むしろキミほど優秀なら大学院にいってもいいかと思うんだが。学べるうちに学んでおくのもとてもいいことだよ」

「研究職を選ぶならそうしてもいいかと思いますが、まだそこまでは。二年生ですしゆっくり考えようかなと思ってます」


 かっかとノヴァークは笑って、ジョッキを持って小指を立てた。チャーミングな仕草だが、本人はそう意識したことでもないだろう。


「それもそうだ。じっくり学んで、時々恋をするといい。わたしもそうだったよ」

「ありがとうございます」


 ラナンはにこやかに微笑み返した。


「ところで」


 視線がついっと合う。吟味するように瞳を見ている。ラナンは口角を挙げて、素直に応じた。


「ルーツを問うて済まないが、ところでキミは良い瞳をしているね。とても綺麗なターコイズだ。髪も染めたように綺麗な黒だけれど、中国人シンスティナかい?」


 なだらかな会話の中に混ぜ込んださりげない問いかけだが、彼は初めから気になっていたのだろう。別に隠すべきことじゃない。


「母が中国なんです」


 ラナンは口元をナプキンで拭って視線を柔らかくした。


「素晴らしいイントネーションだ」

「生まれはこちらですから。でもこの瞳は父からのものだと思っています」

「お父さまはどちらの方か聞いてもいいかな」

「分からないんです。東洋ではないと思いますが、父も母も聞く前に亡くなっていますから」

「あっ、いや。それは済まなかった。そうだとは知らずに。気を悪くされただろうか」

「いえ」


 ラナンは簡素に返事するとピルスナーウルケルを流し込んだ。口当たりの軽いホップは喉越しが心地よい。ふっと呼吸して口元を拭った。


「もう亡くなって日が経つんです。今は養父母の元に。良くしてくれるから僕もそれに応えたく思います」

「そうだね、御両親を大切にされるといいと思う。キミは素晴らしい人だ」

「及びません。レオナさんがお父さまを思われてるのと変わらない」


 ラナンはふふと笑って、レオナの背をとんとんとつついて促した。

 レオナがはっとする。


「……パパ、あのね」


 レオナがおずおずと話し始めたので、ノヴァークが「ん?」と顔を上げた。

 背後から紙袋を取り出して見せると彼は厚い唇をぽかりと開けた。


「もう少しで誕生日でしょう。ラナンと選んだの」


 そういって突き出したのは小さなブランド紙袋だった。

レオナが立ち上がってテーブル端の父親に渡しにいく。彼は大事そうにパッケージを解くと手に持って、ほうっと感激した様子を見せた。

 贈ったのは持ち手の部分にブランドロゴがあしらわれた銀色に輝くビールの栓抜きだ。


「とても上品だ。高かったんじゃないのかい」


 野太い声すら殊勝に引き締まっているような気がした。


「二人で出したから。ビール好きでしょう。だから、これで毎日飲んでほしいの」

「うん、そうする。そうするよ」


 そういって破顔すると涙ぐむ様子を見せた。


「もうやだあ、パパってば」


 そういいながらレオナはアンネの持っていたティッシュ箱から数枚引き出して、柔らかく父の目元を拭う。


「わたしはパパに似たのね」

「ああ、そうだよ」


 薄く笑って気遣いにありがとうと伝えると、二人に向けて改めてゆったりと感謝を述べた。


「ありがとう。レオナ、ラナンさん」

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