第2話 貴族の邸宅

 赤い壁のカフェのテラス席で二人で課題を片付けながらブランチをとって、ノートパソコンを畳むと恋人繋ぎをしてカレル通りを歩いた。新市街地を好む若者も多いが、むしろ古美な雰囲気を好む二人にとって外観の美しいこの地区は気に入りのデートスポットだ。


 空を消すように伸びた高さの整った淡い建物が互いを邪魔することなく町に魅力を放っている。バルコニーにはよく好まれる赤のゼラニウムのプランターがあって、猫を抱え微笑んだ初老の女性が覗く。長閑な昼下がりの日常だ。


 同級生カップルと石畳ですれ違うと、恋人繋ぎの手を挙げてあいさつと二言三言交わした。あちらも無事課題が済んだようだ。通りざまに「良い夏休みを」とは笑ってしまう。そういうのは課題に合が認められたあとだ。


 プラハの美しい町並みはまるで物語の世界のようだと称されることもある。だが、実は現地にいるとそんな感想は大抵湧いてこない。生まれ育った地区だからっずっと始めから住んでいる人間に、物語のようだなどという他人事の感覚はおそらく馴染みのないものだ。


 例えば時折、暮らしに閉塞感を感じるとラナンは高台に登って町を眺める。郊外のさざ波のようなオレンジ屋根の遠景を見て、森から飛び立つアオガラの優雅さに心を打たれ、律された人々の日常を目にし、清涼な町の空気に触れてここは暮らし良いところだと穏やかな感想を抱く。むしろこれが静かに町を愛するものの実情だろう。

 ラナンは大学生という、人生においてもっとも彩り豊かな時間を過ごしている。

 それにしても。


「今日は静かなんだね」


 レオナが珍しく粛々と横を歩いているものだから、ついからかいたくなる。

 いつもなら気に入りのブランド店の前で色めかしい声をあげて、「あの指輪が素敵」「このブレスレット欲しいの」と騒ぎ立てているが今日は一言も発しない。それどころか、胸元を飾るたった一つのネックレスにうっとりとして鏡がある度に確認するように見ている。


 綺麗な女性だとは分かっているがあまりそういう可愛らしいことはしないで欲しい。こちらの気持ちを掻き混ぜるのだ。

 先程から通行人の男どもも彼女を見てほっとかない。


「たまには静かなのも良いじゃない」

「僕は賑やかな女性の方が好きだな」

「五月蝿いって思ってるくせに」


 くすりと笑って手を解くとレオナの腰を抱き寄せる。


「お父さんの前では困らせないでね」

「冗句よ」


 レオナが蠱惑的に微笑むので、ラナンはそのままの彼女を抱き寄せてワインの老舗へと入った。



       ◇



 レオナの実家はカレル橋を渡ってプラハ城の近郊のフラチャニ、いわゆる古くからの貴族の邸宅地区にある。

 噂に聞いていたがなんとも立派な外観だ。イングリッシュ・アイビーの這ったレンガ壁で大きな敷地をぐるりと取り囲み、大きな黒の門扉からは輝かしい高級車が数台透かし見える。青々とした芝生に黒ぶちの牧羊犬が二頭走り、その向こうに城と呼びたくなるようなゴシック様式の淡いココア色の本館がそびえていた。


「良い匂いがするわ」

「犬じゃないよね」


 失礼よ、とレオナが笑って招いてくれる。

高すぎる壁を曲がり庭を奥に進むと、芝の上にガーデンパーティの準備がされていた。

 陽を遮る真白いパラソルが数本突き立てられて、オレンジのバラで彩られた白いテーブルクロスの上には高級ホテルようなチーズやらソーセージのオードブルが所狭しと並び、メインの紫のサワークラフトを添えたペチェナー・フサ(ガチョウのロースト)と最も欠かせないピルスナーウルケル(チェコのビール)が惜しげもなくアイスバケツで冷やされている。


 大学で普段喋っている時など気軽なただの同級生のような気もするけれど、彼女は案外お譲さんなんだと身上の違いを思い知らされた。


「お嬢さま、お帰りなさい。準備出来てますよ」

「ただいま。アンネ、とても素敵だわ」


 小太りのお手伝いさんと愛ある挨拶を交わして、レオナは自慢そうに豊かな胸を張るとラナンに向けて淑やかに微笑んだ。


「恋人のラナンよ」

「まあ、素敵な方で。ようこそおいで下さいました」


 ぺこりとにこやかに挨拶をするものだから、ラナンも恐縮する。


「いつもお世話になっております」

「とんでもございません。優秀な方だと伺ってます」


 思わず鼻高々にするレオナの口ぶりが浮かび、失笑しそうになったが、それは心に仕舞い謙遜しよう。大人同士の会話とはそういうものだ。笑いながら首を振っていると上品な格好をした恰幅のいい男性がやってきた。


「お帰りレオナ」

「パパ!」


 レオナが丸太のような腹に抱きつき、ただいまのキスを交わす。


「ラナンさんと呼んでもいいかな。ようこそおいで下さいました。父です。大してお構いも出来ませんけれども」


 見た目とは裏腹に謙虚な姿勢は典型的なチェコ人らしい。企業家と聞いているがそのような偉ぶった感じは微塵も見せなかった。差し出された毛の生えた分厚い手を握り返し、感じのいい笑みを作ると優雅に微笑んだ。


「ノヴァークさん、初めまして。ラナン・カドレックと申します。本日はお招きいただきありがとうございます」


 手にはカレル通りで購入したちょっといい赤ワインの長袋を引っ提げて。二人でテイスティングしたから味はそこまで悪くないだろう。要は楽しめたらいいのだ。

 手渡すと、ビール党が圧倒的に多い文化だが、それでもノヴァークは感じのいい頬笑みで謙虚に喜んでくれた。

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