1章 罪人たちの供宴
第1話 ある理学生の日常
ヴルタヴァ川の東岸の旧市街とカレル橋を繋ぐ伝統のカレル通りには、昨日の大雨の跡が光っている。不規則に出来た水溜まりを避けながらゆきかう人々の足さばきはいつもより幾分速いようだ。
狭き通りには古都の名残をそのままに残した古いカフェや雑貨店が建ち並び、プラハの観光名所の一つともなっている。ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロック、アールヌーヴォー、眩暈がするほど巧妙に入り組んだ建築様式が混じり合うこの町には他国に干渉を受け、支配者が立ち替わりした長い歴史がある。
その歴史の名残を拝見しようとヨーロッパ諸国から観光客が訪れているが、そんな中に近くのプラハ・カレル大学の学生の姿も散見される。恋人同士で通りを闊歩したり、友人が集まってとカフェで談義したり。
ただ、あと数日もすれば夏休みに突入してほとんどの生徒は里帰りするからこうした光景も少なくなるだろう。
その前に課題をこなさねば取れる単位も取りこぼしてしまう、とラナンはテラス席でノートパソコンのキーを叩いた。多角的な化学工学の授業は嫌いでないけれど、こうもレポートが多くては辟易とする。脱落する生徒の多かったこと。こういうのは教授の好みなのだ。
分厚い参考書籍をめくると吐息した。
一つの科目を履修することはおよそ逃れられない楔のようにも思える。学びはそういう姿勢ではいけないよと哲学的な誰かがいっていたがそれは学びに積極的な生徒のセリフ。自身の成績は悪くない。でもそんなに熱心でもないんだ、という怠惰なこの呟きは誰に聞かせよう。
「ラ・ナ・ン」
ご機嫌な声に顔を上げるより早く、対面の真鍮のイスが引かれた。
ちらと目を向けると華やかな顔立ちのスタイルのいい女性が白のミニスカート姿で腰かけた。丁度、ラナンの取っていなかった科学史の講義が終わったところだろう。大方、代返も頼まずに出席して当人は内職でもしていたのだろうが、真面目だかそうじゃないんだか。
日頃から不器用に律儀な女性だと見止めているがその言葉は仕舞っておく。
「課題なら一緒にやろうっていったじゃない」
「写させての間違いじゃないのか」
熱心なタッチタイピングに戻るとレオナがブロンドを耳にかけながら笑った。そうね、と相槌を打ちながら彼女は大きめのベージュのトートバッグから一枚のファイルを取り出す。
「昨日の舞台凄かったのよ」
ほらきた、と心で相槌を打った。彼女はファイルに大事に閉じていたパンフレットをぱらぱらとめくり、夢心地のままに静かに記憶を辿り始めたようだった。
「マリオネットでしょう。興味ないな」
「……それチェコの人にはいわないでね」
ラナンはぷっと吹き出した。
「昨日の公演は物語の前半部分でね、来月に後半公演があるの。前半は貴族に焼き殺された悲劇の女優のお話ね。続きの後半で、焼き殺された女優の怨念が骨を奪った貴族を次々に呪い殺していくストーリーなの。チェコ国民ならみーんな知ってると思うけど……って。ラナン、あなた原作読んでなかったでしょう」
「ネットのまとめで見たかな」
「文学ってそういうものじゃないわ」
「僕は理学部だから」
それって無機化学の単位を落としたわたしへの嫌みかしらと呟いてレオナが目をすがめる。でもまあ、いいわと気を取り直すとベージュのマニキュアを塗った形のいい指先を伸ばして説明を続けた。
「凄かったのはその思い切りよ。演出家にブラボーだって拍手を贈りたいわ。舞台上で最後、主演の人形を本当に燃やしちゃったのよ。痛々しくてまるで心を焼かれたような心地だったわ。……あ、そっか。だから、公演が限定一回なのね。職人が同じものを何体も作れないからよ。ようやく手に入れたプラチナチケットだったんだから」
「国民の愛するマリオネットを燃やすなんて彼らのアイデンティティはどこにいったんだ」
「難しいこといわないで」
「大学生だろう」
ぷっと頬を膨らました彼女の横顔を見てエンターをたんっと打つと苦笑した。
やってきたウェイターに、喋らない彼女の分のカフェオレを注文するとパソコンに再び視線を落とす。
目先に足を組みかえる様子が見えたと思ったら、ほらまた組み替えた。ミニスカートでよくやるよ。
ご機嫌斜めな彼女に仕方ない、と吐息するとラナンはサイドのイスに置いた黒革のバッグから記念日のために用意していたものをそっと取り出した。本当はもっと後で渡したかったのだが。しかし、すね虫の彼女には丁度いいだろう。
「レオナ」
子供を諭すように語りかけたが、むうっと細い鼻先を吊りあげたままだ。明後日の方向を見てこちらを見ようともしない。
ただ、日頃の付き合いでその仕草も愛すべきものだと心得ている。
男はこういう場合どうしてもうろたえてしまうから恰好悪くなる。ラナンは浅く笑ってとどめの言葉を継いだ。
「残念だなあ。せっかくバイトして溜めたお金で買ったブルガリの……」
「要るう!」
現金な彼女はさっと表情を翻すと紙袋に手を伸ばした。余裕の笑みで目尻を細めるとラナンはどうぞと紙袋を手渡した。
中の四角い箱を取り出し、ラッピングのリボンを丁寧に解いて、肝心の物を眺めた彼女は長いまつげを瞬かせる。琥珀の瞳はまるでネックレスの光をはね返したように輝いていた。
「ラナン、ねえ。付けて」
子供のように喜ぶセリフに応じる。背後からレオナの細首に銀の細いチェーンを回してやると心底嬉しそうにした。肩をきゅっと窄め、まるで鏡を除くのを待ちきれないという様子でオペラシューズの先をパタパタと鳴らしている。
トップに丸い二蓮リングの光る人気のデザインは彼女がブランドの店舗の前を通るたびに半年前から所望していたものだった。
フックをかけると彼女のなだらかな肩を持ち、華奢な体ごとくるりと横向けた。カフェのガラス壁に映った自分とラナンの眩い姿を見てレオナがようやく柔らかな笑顔を見せる。
二人きりのときにだけ、それも特別な夜に見せる恍惚の表情だ。
「素敵、とっても欲しかったの」
「キミならもっと前に買えたでしょう」
「ラナンが頑張ったから嬉しいのよ」
「それ絶対に他の男にいわないでね」
指先でペンダントトップを愛おしげにもてあそぶレオナの頬へそっとキスを落とした。
そして、耳元で蜂蜜のような声で囁いた。
「愛してるよ」
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