プラハの棺

奥森 蛍

プロローグ

『魔女の火刑』

 逢う魔が時から降り始めた雷雨は一向に止む気配を見せなかった。

 まるでこれから始まる悲劇の舞台を煽りたてるように真白いコンクリート壁を激しく打ち鳴らす。雨音に一つ轟きが紛れ込むと、赤、透明、濃紺、とりどりの傘が小さな入口へ向かって色の渦を作りながらなだれ込んでゆく。

 濡れそぼったピエロの看板人形はどこか笑っているようにも見えた。


 旧市街広場の一角に泰然とそびえる国立マリオネット劇場は創立一九九一年の比較的新しい劇場で、今宵限りの特別上演にプラハ中から目の肥えた観客が集った。

 演目の『魔女の火刑』は昨年国内でヒットした若手作家の小説が原作のマリオネット劇であるが、前評判はとても高くチケットはすでに完売だった。


 それにしても劇場内にまで轟くほどの雷鳴は久方ぶりのものだ。

 このような荒天の日に、血を湧き立たせるような復讐劇の一端が開かれようとはおあつらえ向きではないだろうか。


 老若男女の観客は雨露を払い、作りつけのイスにゆったりと腰かけて、今か今かと開演の時を待っている。艶やかなアメ色に輝く木造の舞台の中央には豪奢なひだのついた深紅の緞帳が厚く垂れこめて、瞬刻、それを見つめる人々の顔に期待とほんの少しの緊張が浮かんで消えた。

 間もなく照明が落とされて闇が訪れると、煌々とした光の中で物語が明けた――



 舞台中央で白いサテンドレスを纏っているのは見目麗しい漆黒の髪のマリオネットだった。女の決意が高らかにカナリアのような声で奏でられる。


「わたしは生まれながらの女優、古都の夢を見て東方の地よりここプラハにやってきたのです」


 木彫りの東洋的な女の全身には見えないように工夫されたテグスが付いていて、裏方のマリオネット技師の動きに合わせて感情豊かに踊る。人形自身が胎動し、呼吸しているかのように魂を宿していた。

 彼女の首元には大粒のスワロフスキーの首飾りがかかっていて舞台の照明を一身に集め乱反射する。女が手を合わせ、天に真情の祈りを込めると極彩色の光が下りた。

 

 やがてチェコの地で舞台女優として花開いた彼女の公演はいつも客席が埋まり、その憑依したような演技から傾国の魔女と称されるまでになった。


 ある日、


「もし、お譲さん。良い話があるのだけれど乗ってみないかい」


 女に語りかけるように舞台袖から現れたのは少し怪しい見目をした白髪の老人のマリオネットだった。裏方の技師に糸を、くんと引かれると老人が怪しく動きを合わせる。奇怪な風貌と挙動が巧妙に表現されている。

 白髪の老人は女になにやらそっと耳打ちした。人形が人形に耳打ちする滑稽な仕草に観客たちの静かな笑いが漏れる。


「わたしが貴族のために演技を?」

「あなたの美しさに惚れた人がいるのです」


 まあ、と女が舞った。


「わたしは女優です。演じている笑顔も言葉もみなさまのためのもの。だからそのような個人的なことには尽くせないのです」

「あなたの劇をやればいいのですよ」

「身分不相応です。わたしの演技など、途上の変哲のないものですよ。それでも良いのですか」

「おそらく彼らは愛のセレナーデを奏で、たくさん給金を弾みますよ。美しければ良いのです」

「分からないわ、どうしていいか分からない」

「必ずいらしてください」


 老人はそういい残して去っていった。


 舞台が暗転すると数秒後、背景には貴族の豪邸が現れる。シャンデリアの煌めく舞台上にいたのは九人の高貴なる衣服をまとった大小様々な裕福なマリオネットたちだった。

 晩餐の開かれていた部屋で彼女は衆人環視のもと母国の寓話を披露した。古くから親しまれた皇帝の寵妃の一生を演じたものだった。


 しばらくして、だんとテーブルを打ち鳴らす怒号の効果音が鳴り響く。

 心臓を叩いたような音だった。


「素晴らしい、まるで魔女の技芸のようだ。教訓を披露するとは歴史ある我が国を皮肉っているとでもいうのか」


 憤怒した貴族に女は青ざめる。


「そんなつもりは」

「そなたの国の長き文明に及ばないと」

「いえ、そんな」

「異国の凄みなどまったくもって詰まらん」


 酔って饒舌の貴族たちは口々に女を責めたてた。


「本当のわたしには国で得た物語の知識しかないのです。それに美しければ良いと仰ったではないですか」


 貴族の口調がくっと侮蔑するように吊りあがる。


「ならばそなたもまた、美しく珍妙な技芸のように踊ってみせよ」

「えっ」


 貴族の男どもはこぞって女を取り囲み、頭を押さえつけ、その美しき髪に酒をとくとくと注いだ。異国の美酒の香りが観客席にまで届く。

 びしょぬれになりながらもマリオネットの女は泣き叫んだ。


「おやめ下さい、あなた方は酔っておられるのです」

「火を放て」


 冷たい命令が下ると召使いのマリオネットが松明を運んで来た。

 煌びやかな舞台中央で女が一気に燃え盛る。


「ああ、ああああ。ぎゃあああああああ」

「くっくく、ふははは。その苦しむさま、まるで糸の切れたマリオネットのようではないか。そなたの技芸もまた美しかった。そう心に刻んでおこう」


 愉快そうに笑う男たちの目前で美しき女は灼けつくような血の涙を流しながら絶えていく。


 観客たちはその死の瞬間のあまりの凄惨さに固唾を呑んだ。これがマリオネット劇か、そう思いたくなるほどに感情を傷ぶるものだった。

 ドヴォルザークの第七番第一楽章が荘厳に鳴り響くなか、終焉のときが訪れる。


「おお、我々は酒に乗じて傾国の魔女を殺してしまった」

「この罪の意識は魔女の骨を持つことで分け持とう」

「だれも裏切らぬように」

「静かに我々は魔女の骨を持つ」


 貴族たちは燃えた魔女の遺灰の中から、九本の骨を順に拾って互いに懐に隠した。

 激情渦巻く中、老人のマリオネットが再び舞台袖から出てきて終局の声を張り上げた。


「ああ、慰み者にされし、哀れな魔女。高貴なる者たちの浅ましき夢に抱かれて、彼女は地獄へと落ちる。やがてそれは新たなる復讐劇の幕開けとなろう。魔女の名はルォーーーシー・シェン!」

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