彼らとの距離感
「……あ、楓真。お前、古典のワーク……」
言えば、談笑していた楓真の顔が青ざめていく。
「え……あ、うわーっ!! 忘れてた!!」
古典のワーク──今日提出の課題だ。
授業中に提出するはずだったが、ロッカーかカバンの中に紛れてしまったのか、どこを探しても見つからなかったのだ。……結局、それは優真さんのところに紛れていたようで。授業後の休み時間に謝りながら渡されたワークは、とりあえず放課後にでも職員室へ届けに行こうという話になった。
そして、放課後の今。日中はしっかり提出しなければいけないことを覚えていたというのに、俺もすっかり頭から抜けてしまっていて。なにをするでもなく、談笑して時間を潰してしまっていた。
時計を見れば、5時を回っている。まだ先生は帰っていないだろうが、早く提出しに行った方がいいだろう。
楓真は机の中を漁ってワークを取り出し、ばたばたと慌てた様子で。
「っごめん、ちょっと待ってて! すぐ出しに行ってくる!」
「ゆっくりでいいよ。転けないようにな」
ひらり、手を振れば、廊下を走らぬようにか早足で駆けていった。転びそうで危うい足音が遠くなっていく。ついていくのも、過保護だろう。
大丈夫か心配しつつも、忙しいそれになんだか笑いが込み上げて。時間でも潰そうかとスマホを取り出したときだった。
「ねえ、茂部くん」
入口の方から、鈴を転がしたような声がした。顔を上げる。
彼女は、確か──隣のクラスの加藤さんだったはずだ。ぱっちりした二重の大きな瞳と、緩やかに巻かれたロングの髪が可愛らしい女子生徒だ。
「ああ……加藤さん。どうしたの?」
聞けば、にこりと愛らしく微笑んだ。思わずどき、と胸が高鳴る。ゆっくりと歩み寄った彼女は、こちらを窺うように見上げた。
「お願いがあるんだけど、ちょっといいかな」
ほんのり紅く色づいた、薄い唇が開かれる。
「茂部くんって、楓真くんと仲良いでしょ? もし良ければ、連絡先とか教えて欲しくて……ダメ?」
あ、それか。
愚かにも淡い期待に昂っていた胸が、冷水をかけられたように落ち着きを取り戻した。そもそも、ろくに関わりの無い彼女が俺にお願いしたいことなんかそれくらいしかないだろう。よく考えてみればわかることだった。
勘違いをしていたという羞恥と、気まずさを誤魔化すために視線をうろつかせて。
「あー……ごめん、勝手に教えるのはちょっと。楓真に聞かないと」
同意も無しに、楓真の連絡先は教えられない。本人に迷惑をかけるというのが一番の理由だが、あの優真さんたちにバレてみろ。八つ裂きにされる。
「……そう。じゃあ、優真さんとか陽真くんのもダメって感じかな」
声のトーンは僅かに下がった。悲しげな瞳が俺を見つめる。どうも落胆させてしまったようだ。
彼女は何か誤解をしているらしい。申し訳ないが──そもそも俺は、楓真のはともかく、彼ら兄弟の連絡先を知らないのだ。
「えーっと……ごめんね。お兄さんたちの連絡先は知らないんだ」
知っていたとしても、それも許可無しには教えられなかっただろうけれど。
謝罪を口にすれば、加藤さんは「そっか、無理言っちゃってごめんね。気にしないで」と言って、微笑んだ。
ほ、とため息をつく。気分を損ねずに済んだようだ。
だけど。
彼女は視線を一度伏せてからそう言ったかと思うと、少しだけおかしそうに笑った。
「いつも仲良さそうに見えたから、てっきり知ってるのかと思ったんだけど……そんなでもないんだね。ふふ」
「……はは、うん」
ちくり。
つられて笑顔を作った。なんだか、胸が痛くなる。言われたのは、当たり前のことなのかもしれないけど。そりゃあそうだろう。だって、俺は彼らにとっては目の敵のはずなのだから。
彼女に恐らく他意は無い。嫌味を言おうとしたわけでもないのだろう。ただ純粋に、心の底からそう思っただけなのであって。だが、それは余計に──改めて事実を突きつけられたようであった。
たとえ、ほんの少しだろうと。彼ら兄弟と仲良くなれたような気がしたのは、やはりただの思い過ごしであると。
「ごめんね、無理言っちゃって。そろそろ帰るから、ばいばい」
「大丈夫、気をつけて」
クラスへと戻って行った彼女に手を振る。しばらくして、女子数人の笑い声が聞こえた。隣りのクラスからしているはずのそれが、何故かどこかもっと遠くから聞こえているような感覚がした。
きっと、連絡先を聞いたがあえなく断られてしまったと、残念に終わった結果を共有しているのだろう。……俺の悪評が広まらないといいな。
俺は、それを聞きながら。なんとも言えない気持ちになって、机に頬杖をついた。窓の外をぼんやり見ると、向かいの棟で楽しそうに話す生徒が遠く見えた。
別に、初めてのことではない。モテる男を幼馴染に持つと、こういうことは何回か経験してきているのだ。
彼女は優しい方だ。今までそういう子は数人はいたが、最初に目的を言ってくれたのだから。
中には俺と連絡先を交換してから楓真の連絡先を知ろうとする生徒も何人かはいて、断れば露骨に態度が一変したこともある。後から思えば、目的を達成できなかったために俺の連絡先をすぐ消した人も少なくないのだろう。
にしたって。楓真だけならよくあったが、兄弟のもなんて。
「……初めて聞かれたなあ」
「なにを?」
「連絡先──」
は、と気づく。
後ろへ勢いよく振り向くと、目を見開いた楓真がいつの間にかそこに立っていた。肩を強く掴まれる。
「え、連絡先……? なに、誰かに茂部くんの連絡先聞かれたの!? 誰!?」
「ちがうちがうちがう!! 聞かれたけど誤解!!」
慌てて首を振れば、手は離れた。
「楓真と、優真さんたちの連絡先聞かれただけ。許可取らずに教えるのもあれだし言わなかったけど……」
「あ……そ、そっか。ありがとう、言わないでくれたんだね」
「普通だよ。嫌だろ、勝手に教えられるの」
「……ふふ、やっぱり優しい」
くすくす笑う。
別に、本当に当たり前のことをしただけだ。それでも、楓真は大袈裟なことのように好意的に受け取ってくれる。……こういうところがいじらしいのだろう。だから、好ましいのだ。兄弟からしても、きっと彼女──加藤さんからしても。接していると、よくわかる。
柔らかく微笑んだあと、なにかに気づいたような顔をして。眉を下げて、楓真は唇を開いた。
「……なにか、嫌なこと言われた?」
「……いや?」
「嘘。わかるよ、それくらい」
ああ、こういうところもだろうか。普段はおっとりしているのに、人をよく見ている。隠し事をしたいときには、少し困る。
「そういうのじゃないんだ、本当に。ただ……優真さんと陽真くんの連絡先、知らないなって思っただけだよ」
言うと、ぱちくり瞬いて。
「っ知りたいの!?」
俺との距離を急に詰めた。その様子は、なんだか興奮しているように見える。珍しい姿に、面食らってしまう。
「俺、兄さんたちの連絡先共有しようか!? 全然教えるし──」
「いや、いいよ」
「……な、なんで?」
なんでか──そんなの、決まっている。
「楓真ならわかるだろうけど……そういうの勝手に教えられるの苦手だろ? 優真さんと陽真くんに迷惑かけたくないし」
「そんな、迷惑なんて──」
「嫌われたくないからさ。いいんだ」
これ以上、という言葉は飲み込んだ。
楓真は、何か言いたげに口を開いて──また閉じる。
どうしたのだろう。
視線を伏せたかと思うと、今度は真っ直ぐに俺を見据えて。わかった、と小さく呟いた。
「……だけど。あのふたりが交換しようって言ってきたら、それは聞いてあげてくれるかな」
「え? ……まあ、そんなことがあったらな。はは」
ありえないことだけど。
諦め混じりに笑って言えば、楓真はなんだか複雑な顔をしていた。チャイムが鳴る。ああ、そろそろ帰らないと先生に注意されてしまうだろう。
「帰ろ」
「……うん」
どこかアンニュイな横顔だった。
……不仲まではいかないが、やはりあまり仲が良いわけではないのを感じ取らせてしまっただろうか。明日からはもう少し言葉選びを考えないと。楓真が不安そうにしているのは見たくないから。
次の日。俺は、朝のホームルームでふたつの圧に押されることになる。
「茂部くん、俺たち連絡先交換してなかったよね」
「スマホ出してください。早く」
優真さんがいつも通りにこにこ笑い、陽真くんが急かすように手をひらりと出してくる。その後ろでは、楓真が花のような満面の笑みを浮かべていた。
楓真に言われたから? もしくは監視目的、だったり。……これは、さすがに邪推しすぎかな。だけど、今は素直に嬉しい。昨日言われたことを、寝る前に思い返してしまうくらいには引きずっていたから。
どこか喜ばしさを感じながら、俺は従うままにスマホを取り出すのだった。
***
「はい注目!! 前途多難にも程があるよ!! ふたりとももうちょっとガンガン押してかないと!!」
「……俺たち、今も結構アピールしてない?」
「伝わってないの!! ふたりの連絡先教えようとしたら迷惑だからって断られたし!!」
「伝わって、ない……? そんな、まさか……」
「あ、いや、ええと……ちょっと遠慮しちゃってるから、もう少し押してこうってことね! 陽真はそこまで落ち込まなくていいから!!」
「うん、そうだよ。ちょっと遠慮してるだけ、まさか仲が悪いなんて思ってないだろうし」
「そ、そうです、よね。あれだけ話してるんだし、好意が伝わってないわけないですよね」
「そうそう!! 仲が悪いとか一番ないって!!」
兄弟たちはまだ知らない。茂部との間には、埋まりつつはあるが深い溝があり──盛大なすれ違いをしていることを。
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