体調不良と心配と

「……茂部くん、大丈夫?」


 前に座っている楓真が、振り向いて言う。心配そうな目には不安の色が浮かんでいて、俺は彼を安心させるべく口を開いた。


「ん? うん、全然大丈夫……」


「顔色悪いって。やっぱり保健室行った方が……」


 そう言われるのも、何度目だろう。

 大丈夫だ。確かに今日はあまり調子が良くない。ただ、理由は本当にしょうもないのだ。昨日ちょっとなんとなく早く寝付けなかっただけで、睡眠時間が少ないくらいで。


 こんなことで帰るのも、憚られるから。どうせ今日は体育のような体を使う教科もないのだし、あと半日と少しくらいは乗り切れるだろう。



 ふと、思い出す。次の授業の準備をしないといけない。後ろにあるロッカーから辞書等を取り出すのをすっかり忘れていた。


 不安げな楓真にもう一度大丈夫だよ、と言ってから立ち上がる。その浮遊感に、視界がぐらりと大きく揺れる感覚がして──動けなくなる。

 立ち上がった姿勢のまま固まってしまう。ああ、早く動かないと。周りから不審に思われてしまうかもしれない。なにより、楓真に余計な心配をかけてしまうだろう。


「茂部くん、……え、茂部くん? 大丈夫?」


 焦ったような声が、遠く聞こえる。耳もおかしくなってしまったのだろうか。手足の感覚が酷く鈍い。目頭を押えたまま、なんとか声を発した。


「うん、……大丈夫、だよ」


 大丈夫。大丈夫なんだ、これくらい。ただ、少し。ほんの少し、目の前がぐわんぐわん、するだけ、で。少しすれば治るはずだから。


 あ。立つのが、しんどい。すとんと重力に従うように椅子に座り込めば、楓真は焦ったこえでまた名前を呼んだ。


 おーい、と廊下からしたのは明るい声。それが優真さんのものだと、未だ治らない感覚の中で確かにわかった。


「楓真、遊びに来た、よ……」


「……茂部さん? どうかしたんですか」


「兄さん、陽真! どうしよう、茂部くん体調悪いみたいで……!」


 にわかに騒がしくなる。え、と陽真くんが息を飲んだ、気がした。


「大丈夫です、立ちくらみです。もう少し座っていれば、治るはずで……」


「でも、今日ずっと顔色悪いじゃない!」


 少しだけ、治ってきた。まだ浮遊感は残っているが、先ほどよりはずっとマシだ。

 眉を下げた楓真は、酷く深刻そうな顔をしていた。それにつられたのか、兄弟たちもただごとではない表情を浮かべている。なんだか大事になってしまいそうな雰囲気に、慌てて言葉を発した。


「はは、ただの睡眠不足だよ。……ああ、次の授業の準備しないと」


 立ち上がる。うん、今度はちゃんと立てた。ロッカーへ向かおうと踵を返した瞬間、ぱしりと腕を掴まれる。

 ふと、後ろを向けば──眉間に深いシワを作った陽真くんが、俺の手首を握っていた。



「保健室に行ってください」



 冷たい声だった。


「でも、」



「でもじゃない。今は何とかなったとしても、次は倒れたらどうするんですか。頭を打ったら? それこそ大事になりますよ」



 口を挟む隙も与えず、続けられる。厳しい言葉に、何も言えない。まったくの正論だからだ。確かに倒れでもすれば、楓真には迷惑をかけるだろう。そう言われてしまうと、返す言葉は無いのだ。

 だが、頭の中で未練がましい自分が口を開く。これくらいたいしたことではない。迎えを呼ぶのは親に申し訳ない。今日の授業は難しいところだから、聞いておきたい。……倒れる可能性を考えれば、どれもくだらない理由なのだろうけど。


「……けど、これくらいで……」


「……っ貴方──」


 しかし意地っ張りな自分が、口答えをしてしまった。握られる力が強くなる。陽真くんが何かを言おうとしたそのとき──


「茂部くん。保健室に行くつもりはない感じ?」


 優真さんが言葉を遮る。優しい口調だけど、少しだけ棘を感じた。彼も陽真くんと同じことを考えているのだろう。直感する。


「無い、というか……帰るのは、ちょっと……」


「そっか。ちょっとごめんね」



 こっちに来てもらえるかな。



 陽真くんが掴んでいた手を緩めてくれた。

 そのまま、手をこまねく優真さんの傍に寄る。なんだろう、と思う間もなく、俺は──軽々と横抱きにされていた。……俗に言う、お姫様抱っこというやつだ。


 クラスのどこかから、きゃあ、と高い声があがった。何故かは考えるまでもない、優真さんが王子様のようなムーブをしたからだ。


「……? え?」



「行くつもりはないなら、連れていくしかないよね?」



 連れていくしかないことはないと思う。それにしても他の方法もあったと思う。

 手っ取り早く黙って連れていく方法が、これしかなかったのか。なるほど。なるほどではない。


「あの、重いんで……」


「軽いよ。大丈夫」


 少女漫画かよ。


 乙女であればキュンとしていたのだろうが、俺は生憎女子ではないので軽いと言われても嬉しくない。どちらかというと、筋肉も無いもやし野郎だと解釈してしまってへこむ。……もっと肉食おう。普段から食べてるつもりだけど。


「ナイス優真兄さん! そのまま保健室連行しちゃえ!!」


「うん、おっけー」


「……ずるい……っちょっと、僕も行きますから!」

 

 またあがった歓声を後にして、俺たちは教室を後にした。俺は体育祭での楓真の気持ちが少しわかって、ただせめてもの抵抗として顔を覆うことしかできなかった。無駄な抵抗だったのだが。


 ***


 保健室のベッド。ふかふかのそこは、酷く安心する。いつの間にか体に入っていた力が抜けていくようだ。


「お母さん今家にいるよね? 連絡しておくから」


「……さすが……」


「おー……ごめん……」


「謝らないで。こうして役に立てるの、すっごく嬉しいんだから」


 楓真が笑って、電話をかける。電話口から、微かだが母の声がした。家に電話をしたのだろうか。……電話番号、ずっと昔に教えたんだっけな。あまりよく思い出せない。


「お母さん、すぐに来てくれるって」


「……ありがとう」


 予鈴が鳴る。授業が始まってしまう。皆を引き止めてしまったことを謝ろうとしたが──唇の上に置かれた人差し指で塞がれる。優真さんが、にっこり笑って口を開いた。


「そろそろ戻らないとね。ゆっくり休んでて」


「……お大事にしてください。無理したら、許しませんから」


「ノートとか、俺がちゃんととっておくから! 安心してね!」


 手を振って、出ていこうとする楓真の裾を掴む。みんな、どうかしたのかと言いたげに瞬いた。


「っあの、ありがとうございました。優真さんも、楓真も、陽真くんも……すごく、助かりました」


 これだけは、伝えておきたくて。言い切れば、三人はよく似た笑顔で笑った。迷惑をかけてしまったが──優真さんも、陽真くんもそれに関しては怒ってはいないようだった。




 静かになった部屋で、横になる。


「……嬉しかったな」


 じんわりする胸を抑えて、横になる。優真さんも、陽真くんも。これ以上楓真へ迷惑をかけないためとはいえ──俺のことを多少なり心配してくれたと、自惚れてもいいのだろうか。

 そんなことを考えていると、ぴこんと携帯から着信音が鳴る。緩慢な動作で開いた。


 どうも、楓真からメッセージが来ているらしい。




『優真兄さんも陽真も、すっごく心配してたよ』




 目を丸くする。だってそれは今、まさに自分が思っていたことで。


『当たり前だけど、俺も心配だからね』


『今はゆっくり休んでね』


 暖かい言葉が、心に染み入った。


 ……体調を崩して、彼らに随分な手間をかけさせてしまったけれど。それがちょっとだけ嬉しいかも、なんて。


 悪い考えがよぎってしまう。

 迎えが来るまでの短い間。どうにも緩みそうになる頬を、被った毛布で隠した。

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