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「光莉の料理って、特徴がないよね」
夫の突然の容赦のない言葉に、洗っていた皿を落としそうになった。「おいっ」という声に、ハッと我に返り、自分でも驚くような反射神経で皿をキャッチした。食器を一つ無駄にしなかったことに安堵すると、「危なかったぁ」と互いにホッと息を吐いた。
皿洗いを再開させると、
「で、特徴がないってどういうこと?」
「あ、ごめん。ないというよりも、なくなっているっていうべきなのかな。なんていうか、どこでも食べれる味っていうか……、昔はもっと光莉らしさがあったような気がしたんだけど」
「だって、しょうがないじゃない。私が勤めてるのは、ファミレス。求められているのは、変わらない味なんだもん」
料理の道を突き進もうと決意した当初は、有名な料理店に弟子入りもした。けれど、求められるクオリティの高さに、昼夜問わず働く忙しさに、私は音を上げてしまった。七年ほど勤めた料理店を後にした。
それからファミレスの厨房スタッフとして働くことになり、この時点で十年近く経とうとしていた。有名料理店で働いた腕前は、ファミレスの中では十分すぎるほどに発揮されて、私はパートリーダーとして生き生きと働かせてもらっていた。
私の言い分に、夫は渋々と頷きながらも「でも、昔食べた光莉の料理は、もっと特別だった気がするんだよな」と、まだ納得していないように呟いている。
「はい、この話は終わりね」
「あ、それと。最近の料理、濃い味付けで誤魔化そうとしていない?」
ふいに口をついた夫の指摘は、ずばりと私の内心を見抜いていく。
夫と出会ったのは、まだ私が有名料理店に勤める前のこと。つまり、私が自分だけの料理の道を突き詰めようと、躍起になって行動していた時のことだ。
当時の私は、料理を食べてくれた人が健康的になることを願っていた。そのためには、濃い味付けをしたら体を害してしまうと考え、薄く優しい味付けになるようなメニューを心がけていた。
だけど、社会人として料理の道に進むと、私の考えは夢物語だということを痛感させられた。
社会で求められるのは、万人受けする味だった。そのために、味を濃くすることを強いられた。
自分の拘りを貫けるほど、料理の世界は甘くなく、私の志は次第に折れていった。そして、無難に万人受けする味付けが、私の手には染み付いてしまっている。
「だって、楽なんだもん。慣れちゃったし」
「そうなんだけどさぁ」
夫は文句を言いながら、私の料理に箸を伸ばしていく。そういえば、私の料理を夫が美味しいと言ってくれたのは、いつだっただろう。久しく聞いていない。
私自身、家で振る舞う料理をなおざりにしてしまったことも原因だ。
薄味で美味しいと感じてもらうためには、絶妙な塩加減が必要となる。少しでも塩が足りなければ味が感じられないと言われるし、逆の場合は塩味が強すぎて受け入れてもらえなくなる。要するに、紙一重の業が求められる。
日々働く中で、そこまで家での料理に求めることは容易ではないし、合理的でもない。
だけど、悔しかった。あそこまで言う必要ないじゃない。
そう思い至ったら、私の闘争心に火が付いた。
その日の夜、夫を起こさないように、私は昔のレシピを棚の奥からこっそりと探し出した。十数年ぶりに手に取ったレシピノートは古びていた。よく残っていたな、と我ながら感心した。
レシピを開いた。
そこには、とうに忘れてしまっていた情熱とともに、事細かに食材や調味料が記載されていた。改めて見ると、すごい薄く感じられてしまうのは、私の思考が一般的なものに染みてしまった証拠だ。
だけど、そこには若々しさがある。
ああまで言うなら、やってやる。私の料理に文句を言ったことを後悔させて、そして、絶対に美味いという言葉を引き出してやる。
次の日、さっそく私は忠実にレシピを再現した。絶妙な塩加減をした、鯖の塩焼きだ。
「そうそう、これこれ。昔食べた光莉の料理の味そのものだ」
美味しい美味しいと、大皿に盛り付けた料理が夫の口の中へとなくなっていくのを見て、私は心底満たされていた。
こうやって純粋に私の料理を食べてもらえて、目の前で反応してもらえる経験って、いったいいつ以来かな。
有名料理店に勤めてからは、いつも裏に回って仕込んでいたし、今のファミレスだってキッチンにしかいない。夫だって、私の濃い味に慣れてしまって、何も言わなかった。
って、あれ。そう考えると、料理の道を決意してから、本当に見てなかったんじゃない? そもそも反応を見たくて、料理人の夢を志していたというのに?
「なぁ、光莉。この味なら自分の店だって持つことが出来るんじゃないか」
すっかり平らげてくれた夫は、お腹を擦りながら言った。「なにそれ」、と私は夫の冗談を笑って一蹴する。
実のところ、今日料理を作っている中で感じていたことでもある。
昔のレシピを忠実に再現していると、当時に思い描いていた理想を叶えてみたいと思うようになった。私の料理を食べてくれる人が、身も心も元気になる姿を、間近で見ることが出来たらどれほど嬉しいことだろう。
けれど、とうに四十を迎えてしまった。なのに今更になって、自分の店を持とうとするなんて、非現実的だ。
そう思って、私自身諦めかけていたのに。
しかし、夫は笑わない。終始、真剣な面持ちを貫いていた。
「……もしかして本気で言ってる?」
「もちろん。だって、こんなに美味しい味を独り占めするなんて、もったいなくて出来ないよ。それに、ずっと自分の店を持ちたいって言っていたじゃないか」
「けど、今の私の体力じゃ、お店を持つなんてこと出来ないよ」
「いいじゃないか、光莉のペースでやれば。気軽に訪れられない隠れ家的な店になって、一定のファンもつくと思う。それに、最近になって、そういう小さな建物を売り出している不動産と知り合ったんだ」
「私、人の雇い方なんて分からないし」
「無理して雇う必要もないよ。一人でこっそり始めて、厳しそうだったら雇えばいいんだ」
「でも、やっぱり……。私が作ってる料理って、塩加減も最低限にしてるから、印象に残らない味なのよ?」
やらない理由は、いくらでも口から飛び出して来る。その中でも、一番ネックなのは最後に言葉にした理由だ。
世間一般的には、味を濃くしてこそ、という風潮がある。もしくは、写真に取りたくなるような見栄えのいい料理が人気になることも多い。
私の料理は、真逆だ。
問題は料理自体だけじゃない。私の潜在意識には、一般論が染み渡っている。きっと私の味は受け入れられない。どこかでそう思い込んでいた。
「だからこそ、いいんじゃないか」
踏み出さない私を、夫が一蹴した。
「塩分は入れすぎれば体に毒になるけど、だからと言って入れなければ、味気はない。塩は加減が重要だ。その絶妙な采配を、光莉は心得ているんだ。光莉の料理は、誰かにとって必要不可欠なものだと、俺は思っている」
「店を開いても、その誰かに巡り合わなかったら……」
「もう俺がいるじゃん」
さも当然のことを言うかのように、夫は笑いながら言った。
「だから、一人も巡り合わないってことは、絶対にあり得ないよ。光莉の味を待っていて、食べた瞬間に好きになってくれる人は、必ずいるんだ」
夫は昔から確信のないことを、堂々と宣言してしまう節があった。そして、何故だか分からないけれど、その宣言はだいたい当たる。
「やってみなよ。応援してるし、俺に出来ることなら何でもする」
そこまで言われたら、突拍子もないように思えた提案を受け入れない訳には行かなかった。
それから私はファミレスの調理スタッフを辞め、店を開くための準備をした。
最初は分からないことだらけの連続だったが、慣れたら何とかなるものだ。
夫や周りの人のサポートを受け、私は『えん』を始めるに至った。
――これが私が『えん』を始めるきっかけだった。
私が願いを籠めた通りに、『えん』。
店に名付けた『えん』という言葉には、様々な意味が込められている。縁、円、宴、援、塩。他にも意味が込められている。ありきたりかもしれないけど、私が思い描く理想にピッタリだった。
そして、実際に『えん』を開店すると、今回もまた夫の言ったことが当たった。私は多くの縁に恵まれて、たくさんの人に料理を食べてもらうことが出来た。それだけではなく、何度も何度も足を運んでくれる人まで現れた。
私の拘りをとことん貫いた『えん』に、大声で文句を言われることもなかった。
まさか十数年前に描いた理想が、この年になって実現するようになるとは、夢にも思わなかった。
なんとなく過去を回想してしまったのは、今日の日替わりメニューが、夫に振る舞った時と同じだったからかもしれない。香りには、記憶を掘り起こす力がある。
私は日替わりメニューを丁寧に皿に盛り付けると、
「――今日は鯖の塩焼きよ」
常連になってくれた真護くんと功志くんの前に置いた。
「シンプルで最高じゃないですか」
「一人暮らしだと、普段魚なんて食べないから嬉しいです」
二人はいつも子供みたいに顔を輝かせてくれる。そして、「いただきます」と手を合わせてから、箸を動かし始めた。
「美味っ」
「久し振りのひぃさんの料理、ほんと生き返ります」
真護くんと功志くんが、それぞれ感想を口にする。
私が作った料理を食べてくれて、美味しいと口元を綻ばせてくれる姿は、私にとって何よりのご褒美だ。「よかった」、と思わず安堵の声を漏らす。
そして、二人が箸を進めていく内、ふと話したいことが脳裏に過った。
「ねぇ、料理でも何でもそうだと思うんですけど」
あえて言葉を区切ると、真護くんと功志くんが興味深そうに耳を傾けてくれている。
「人に何かを振る舞う上で肝心なことって、何だと思いますか?」
<――終わり>
創作料理店えん 岩村亮 @ryoiwmr
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