裏MENU 1
創作料理店『えん』で、ひぃさんが振る舞ってくれた料理を食べてから、僕の身辺はすっかり変わってしまった。
まずは、僕がひぃさんの味の虜となったこと。
高野さんに誘われなくても、仕事が終わるや否や僕は一人で訪れて、ひぃさんの料理のお世話になった。多い時は週三で訪れるほどで、すっかり常連になってしまった。だけど、あまり長居しても迷惑になるかもしれないと危惧して、日替わりメニューを食べて、ひぃさんと他愛のない世間話を少し交わして帰るようにしていた。
ひぃさんの話は面白くて、何度話しても飽きることはなかった。
多くの雑談を交わしたけれど、ひぃさんの本名と年齢だけは分からないままだった。だけど、ひぃさんの人柄に惹かれているのだから、そんなのは些細なことだ。
ひぃさんと話した中で一番興味深かったのは、やはり料理に関する知識だ。
毎回異なる日替わりメニューを提供してくれるのだが、どこに拘りを入れているのか必ず教えてくれた。
料理の中で共通していることは、余計な味付けを減らすということだった。『えん』を立ち上げる前からずっと、いつか健康に気を遣った料理を作りたいと思っていたそうなのだが、その夢を『えん』で実現しているらしい。
――「メインは素材そのものを楽しんでもらうことで、あくまでも味付けは引き立たせるための脇役」
――「そしてね。大事なのは、塩の匙加減なの。この塩梅が少し異なるだけで、人の感じる味覚はとても変わってしまうんですよ」
ひぃさんはよく楽しそうに目じりに皺を寄せながら教えてくれた。
その僕に向けたでもないアドバイスが、僕にとっては突破口にもなっていた。
今までの僕は、自分のことを些細な人間だと思っていた。あえて料理にたとえるとするなら、たとえられないくらい微々たる調味料の一部だと思い込んでいた。
そんな僕には、課長なんて荷が重すぎて務まるはずがない。
だからこそ、高野さんから打診されていた昇進の話を、考えるフリをしていつまでも渋っていた。
だけど、ひぃさんの話を聞いて、そうではないと思った。
昔から人の懐に潜り込むのが上手だと言われていた。とにかく波風立てないようにしようと思っていただけで、自分の中ではそこまで大きな取り柄ではないと感じていたのだけど。
しかし、料理にも人にも適材適所がある。
一見するとマイナスなようにも思える僕の個性を活かすことが出来たなら。
高野さんのようにリーダーシップを発揮して纏める課長ではなくても、一緒に働く人を支えることなら出来る――、そう考えを転換させることが出来た。
昇進の話を受け入れる旨を高野さんに伝えると、
「真護なら安心して任せられるよ」
と満面の笑みで受け入れてくれた。
それが、僕の身辺が変わった二つ目の出来事。
それから、高野さんから課長業務を引き継ぐと、僕は新しい役職で仕事をすることになった。
最初は慣れない業務で手一杯になった。お得意先への挨拶、僕の後について仕事をしてくれる人のフォロー、書類の作成などなど。現場を支えるために、ここまでやるべきことがあるのかと驚きを隠せなかった。泣き言一つ漏らすことも、顔色一つ変えることもせず、こんな多くの業務を高野さんはこなしていたのか。改めて僕との違いを痛感させられた。
けれど、高野さんにしか出来ないことがあるように、僕にしか出来ないこともある。
課長としての業務の傍ら、現場への声かけも忘れなかった。また、現場時代の自分がされて嬉しかったことを、僕は精一杯行なった。
そのおかげかは分からないが、上長が変わるという出来事が生じたにも関わらず、現場が混沌とすることはなかった。みんな楽しそうに働いてくれている。むしろ、課長らしくない僕をいじってくる始末だ。
部長席に座る高野さんは、微笑まし気に僕達のことを見つめていた。
どうやら自分の中で重く考えすぎてしまっていたようだ。僕の悩みや心配は、杞憂に終わった。
もちろん、全てが上手く行ったわけではない。どうしようもない失敗を犯し、落ち込むことだってあった。
そんな時は、『えん』に行って、ひぃさんが振る舞ってくれる料理を食べて、ひぃさんと話せば、疲れも吹っ飛んでくれた。
これも全て、『えん』に行ったおかげだと思う。『えん』に行って、ひぃさんと出会わなければ、僕の凝り固まった思考は変わらなかったはずだ。
課長としての業務に慣れたある日、僕は一つの可能性に思い至った。
高野さんは僕自身の価値を認めさせるために、あえて『えん』に連れて来てくれたのではないか。
そう思ったことを高野さんに言うと、「考えすぎだ。俺はな、ひぃさんと美味いメシを誰かに薦めたかっただけさ」と笑って一蹴された。僕は一種の照れ隠しだと思ってるけど、高野さんの前で掘り下げることはしなかった。ひぃさんの前で言った時の高野さんを考えると、楽しみで仕方なかった。
僕も高野さんもお互いに忙しくなってしまって、ゆっくりと語らう時間を取れなくなっていた。それは仕事をする上では嬉しい悩みだとは分かっていたけれど、少しだけ寂しいことだった。
僕自身、最後に一人で『えん』に行ったのは、もう二か月とか三か月くらい前の話だ。ひぃさんの人柄がそのまま味になったような、優しい料理に恋焦がれている。
「……また行きたいな」
小さな呟きは、忙しい職場の中では誰にも聞かれることなく、溶けて消える。
「馬場課長。相談があるんですけど、今お時間いいですか?」
むしろ追い打ちを掛けるように仕事が降りかかる始末だ。僕は笑顔を作ると、
「うん、もちろんいいよ」
今では新たな案件が舞い込んでも、冷静に対処して周りの人も気にかける余裕は出来た。
あともう少しで、今取り組んでいる案件にも一区切りが付けられる。そうしたら、『えん』に行く時間も取れるだろう。よし、と頬を叩いて気合を入れ直すと、パソコンに向き直って資料を纏め始めた。
――僕は素材になって、誰かの目を惹くことは出来ない。だけど、塩のようにさりげなく、食材を支えることが出来る。
それが僕に任された仕事だと、今日も一日を頑張っていく。
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