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「――肉じゃがよ」


 ボルダリング仲間の岩上と一緒に行った創作料理店『えん』で出された日替わりメニューは、ひぃさんという店主が言った通り、何の変哲もない肉じゃがだった。


 味にうるさい岩上がオススメだというから、楽しみにして来たというのに、これじゃ期待外れだ。肉じゃがなんてどこでだって食える。何なら俺にだって作れる。


「いっただきまーす」


 岩上は目の前に広がった肉じゃがに嬉しそうに箸を伸ばした。で、「うっめー!」と反射的に口にする。おい、今の速すぎだろ。絶対に食う前から言うって決めてた奴の台詞だよな。本当に味分かって言ってるのか。

 だけど、岩上が食うと、何でも美味そうに見えるから不思議なんだよな。


「功志くんも冷めないうちに食べてくださいね」


 ひぃさんが手の平を向けて催促してくる。今日初めて来た俺に対しても、ひぃさんは一度で俺の名前をしっかりと憶え、まるで常連のように親しく接してくれる。


 俺は箸を手にして、肉じゃがを口に運ぶと、「あ、うま」と反射的に言ってしまった。「だろ!」と岩上は返す。


 ひぃさんは一瞬ほっと息を吐くと、すぐさま「口に合ってよかったぁ」と破顔させた。


「ただの肉じゃがだと思って食べたら、全然違ってたわ。これ、肉じゃがじゃない」

「ははっ、肉じゃがは肉じゃがだって。そうですよね、ひぃさん」

「ええ、お肉にもジャガイモにも、にんじんにもネギにも、ダシにも、この肉じゃがを作る上で必要な全てのものに拘って腕によりをかけた、とっておきの肉じゃがよ」


 あまりにも肉じゃがという単語が飛び交い過ぎて、肉じゃがの概念が分からなくなって来る。だから、「肉じゃがのゲシュタルト崩壊だな」とつい言ってしまった。言ってすぐに後悔する。脈絡がなさ過ぎて、意味分からなかったかも。

 けれど、「なんだそれ。相変わらず面白れぇな、功志」と岩上はゲラゲラと笑ってくれ、ひぃさんは口元を抑えながら控えめに笑ってくれた。


 よかった。俺には時々こういうところがある。言うべきことと言わなくてもいいことの判別を付けないまま、考えと同時に、言葉が口を出ていく。


 何度か嚥下を繰り返した後、


「でも、マジで初めて食べる感じの肉じゃがです。こんな複雑な味にするには、色々な調味料とか食材を入れてるんでしょうね」


 この肉じゃがの美味さがどこにあるのか気になって、俺はひぃさんに問いかけた。すると、ひぃさんは「ふふっ」と意味深く笑みを零した。


「あ、すみません。もしかして、俺間違ってました?」

「あら、ごめんなさい。間違ってたとかじゃなくてね、確かに食材はたくさん使っているの。でもね、調味料は多く入れてないんですよ」

「え、そうなんですか?」


 純粋に驚きの声を上げたのは、岩上だった。


「ええ。調味料を多く入れて、味を濃くすれば、新しい味覚に触れる機会を作れるかもしれない。でもね、『えん』で食べてもらうからには、健康にも気を遣って頂きたいし、食材そのものも楽しんで頂きたいの。だから、今日の肉じゃがも、不必要な要素を取り除いて作ってみたんです」

「じゃあ、今日食べてる味って、食材本来の味……ってことですか?」


 岩上の質問に、ひぃさんは嬉しそうに首肯した。


「なるほどなぁ。俺が普段食べるのって、味が濃いものばっかだから、逆に珍しく感じたのか」

「だな。一人暮らししながら社会人してると、外食ばっかになるから、『えん』での料理は本当に体に染みるんだよ」

「まぁ、ここにいる時点で、外食には変わりないけどな」


 肉じゃがの味を口に広がらせながら、岩上の言葉にツッコミを入れる。一瞬、岩上の箸が止まったのを、横目で捉えた。――気がした。


 気がした、というのも、すぐに岩上は「ほんと、何を除くかって大事ですね。ね、ひぃさん」と話しかけたからだ。ひぃさんはどう反応するべきか困ったように苦笑いを浮かべながら、肉じゃがを作るために使用していた調理器具を片付ける手を止めなかった。


「そういえば、最近ジムの他に、近所でランニングを始めてさ」


 気まずくなりかけた空気を変えるように、俺は新たに話題を振った。


 社会人になってから趣味で始めたボルダリングを介して、俺と岩上は知り合った。お互い体を動かすことが好きなのだ。だから、岩上と話す時は自然とスポーツ系の話題で盛り上がる。

 一瞬岩上がホッと一息吐くと、先ほどの空気が嘘のように、嬉々と話を広げ始めた。『えん』に来る客がスポーツなどの話題を出すことが多いのか、ひぃさんも楽しそうに、俺と岩上の話に相槌を打ってくれた。


 ひぃさんには、不思議な魅力があった。人の話を引き出す力というか、小さな話題にも大袈裟な反応にしてくれるから、もっと話したいという気持ちが湧いて来る。従業員はひぃさん一人で、メニューも一つしかない、ひっそりとした店だったが、なるほど、これは常連が出来るはずだ。


「じゃあ、そろそろ帰るとするか」


 岩上が立ち上がりかけたのを見て、俺は反射的に壁に掛けてある時計に目を向けた。時間はまだ二十一時四十分だ。『えん』に来てから、二時間強は経とうとしているが、それでも帰るには早い。


「おいおい、まだ夜は長いだろ。もう少し話そうぜ」


 せっかく気分も盛り上がっているところだった。全然話足りない。それだけでなく、もっとひぃさんの話も聞いてみたかった。


 だけど、岩上は困ったように眉根を下げるだけだった。


「ごめんなさい。私の体力のことを考えて、早めにお店を閉めさせてもらってるんです。ほら」


 店の名刺を渡されると、確かに営業時間は十七時から二十二時と記載されていた。


「へー、そうだったんですね。でも、こんな短時間で、経営とか成り立つんですか?」

「お前な、そういうところだぞ」


 頭に浮かんだ疑問を、単純に興味本位で聞いただけだったのだけど、岩上はあからさまに溜め息を漏らした。ひぃさんも苦笑いを浮かべている。


「すんません、こいつ。良い奴なんですけど、言葉が過ぎるところがあって……」

「いいのよ。功志くんは、気になったことが放っておけないだけですものね」


 二人の言い方には少しだけ引っかかるものがあったが、ここで話を広げても、話がややこしくなるだけだ。こういう時に話を広げてしまうと、「おい鹿野、いい加減にしろ」と昔から多く詰め寄られた。そんなことを繰り返す内、そこだけは深堀をしてはいけないと察することが出来た俺は、「ええ、まぁ」と曖昧に頷くだけに留まらせた。


「けどね、料理でもそうなんだけど、あえて引くものを引いたら美味しくなるっていうのは、よくあることなんですよ」


 ひぃさんは手を洗いながら、何でもないように言った。そして、毛の立ったタオルで手を拭くと、そのままレジへと立つ。俺と岩上は、それぞれの財布から千円札を出した。


「このクオリティで千円ピッタリって、めっちゃお得ですよね」

「あはは、ありがとうございます。もし良かったら、また食べに来てくださいね」


 恭しく腰を折るひぃさんに見送られて、俺と岩上は『えん』を後にした。時間は、まだ二十二時になっていない。いつもなら二軒目に行っていたかもしれない。


 けれど、なんとなしに俺と岩上はそのまま別れることにして、それぞれ家路へと着くことにした。

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