創作料理店えん

岩村亮

MENU 1

 東京のビル街から外れた細道にひっそりと佇み、ほんのりと淡い照明でもって客を出迎えてくれる、創作料理店『えん』。


 ビル街や駅前に行けば、多くの仕事終わりの会社員たちによって賑わっているけれど、『えん』はそういうチェーン店のような場所とは違って、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。なんと言えばいいのだろう、実家に帰った時の安心感と言えば伝わるだろうか。店内に足を踏み入れた瞬間、都会の喧騒とは異なる空気感を敏感に察した。

 この独特な雰囲気は、恐らく立地的な条件もあるだろうけど、多分それだけじゃない。


「いらっしゃいませ」


 人当たりの良い笑みと人の心を穏やかにさせる柔らかな口調でもって、来客を出迎えるのは、この『えん』を切り盛りしているひぃさんだった。ちなみに、ひぃさんの本名は分からない。今日『えん』まで連れて来てくれた上司の高野課長も、本名を知らないらしい。


 ひぃさんの姿を見るや否や、高野さんは破顔をさせながら手を上げた。


「やぁ、ひぃさん。真護、この人がさっき話していたひぃさんだ」

「あ、こんばんは」

「あら、はじめまして。ゆっくりくつろいでいってくださいね。お話し好きな高野さんを相手にしてたら、気持ちは休まらないかもしれないけど」

「ははは、それはひどいぜ、ひぃさん」


 ひぃさんの口元を抑える上品な笑い方、それに混ざるように僕と高野さんも笑う。すると、更に店の中が朗らかで温かい空気に包まれた。


 五人ほどが座れるカウンター席と、二人が対面に座れるテーブル席が二つ。高野さんは迷いなくカウンターの方に腰を掛けたから、僕も続いて高野さんの隣に座る。

 カウンターとひとつなぎになっているキッチンを見ると、驚くほど綺麗に片付けられていた。「綺麗に方しておいて良かったぁ」、僕の視線に気付いたひぃさんは、少しだけ頬を赤らめた。「何言ってるんだよ、ひぃさんが水回りを汚しているところなんて、見たことがないぜ」と、高野さんは常連らしく言った。


「変わったお店ですね」


 いつの間にかカウンターの上に置かれていたお通しを食べながら、店舗の内装に目を向ける。壁には、白い紙に『日替わりメニュー』と書かれたものが貼ってあった。その他のメニューはどこにもない。変わっているところは、食事に関してだけでなく、飲み物に関してのメニューもないということだ。当然、酒やつまみもなく、ジュースやお茶などといった類もない。今、僕と高野さんが飲んでいるのも、水一択だった。


「ははっ。最初来た時は、俺も驚いたよ。酒好きからしたら、困るかもなぁ。でもま、真護って、確か酒とか飲めないよな」

「ええ。だから、困ることは全くないんですよ。ただ珍しいなって思っただけで。逆に、高野さんはお酒飲まれましたよね?」

「少しだから、別になくても構わん。てかな、『えん』で酒を飲んで、ひぃさんに負担を掛けるくらいならなくていい」

「あはは、いつもお気遣いありがとうございます」


 先ほどから、ひぃさん以外の従業員の姿は見かけなかった。あまり人が来ない立地と、一品限定のメニュー、加えて営業時間も平日の十七時から二十二時と限られているからこそ、ひぃさん一人だけでも経営が成り立っているのだろう。


「ひぃさん、今日のメニューは?」

「作り終わってからの内緒。これも『えん』の醍醐味にしてるんですから」

「ちぇっ。今日は真護がいるから、教えてもらえると思ったんだけどな」


 高野さんは大袈裟に指を鳴らして悔しがる。だけど、その表情は言葉とは正反対で、子供らしく嬉しそうにしていた。

 僕の中で高野さんのイメージは、リーダーシップを遺憾なく発揮させて、要領よく仕事をこなす人だった。こんな子供らしくお茶らける一面があるとは、初めて知った。


「ところで、真護さ――」


 高野さんは、僕の方へ体ごと向けながら話を始めた。高野さんの話に相槌を打ったり、僕からも話を広げたりもした。

 その傍ら、ひぃさんは聞き役に徹しながら、日替わりメニューを作る手は止まらない。

 高野さんと一緒に働くようになってから長い時間が経つけれど、今まで過ごした中で、一番楽しく話が出来たような気がした。


 他愛のない世間話で高野さんと盛り上がっていると、「そろそろ出せますからね」とひぃさんが声を掛けてくれた。


「お、待ってました。真護、楽しみにしてろよ」


 高野さんから言われる前から、ずっと楽しみにしていた。


 鼻腔を通して食欲を駆り立てる香り、一つ一つの工程に丁寧に向き合っていることが伝わって来る音。


 これから提供される料理への期待度は、これでもかというほど上がって来るものだ。そもそもの話、最初のお通しを食べた時点で、僕の胃袋はすでに掴まれている。


「おまたせしました」


 そして、ひぃさんは高野さんと僕の前に料理を置いてくれた。


「――豚の生姜焼きよ」


 一口で食べやすそうなサイズに切られた豚肉に、絶妙にタレが絡んでいる。備え付けのキャベツも美味しそうだった。先ほどから感じていた香りも、前にしたことでより強く僕の食欲を刺激する。


 見た目は至ってシンプル。けれど、味は――。


「うわ、美味しい」


 たったの一言で終わらせてしまう自分が悔やまれた。ただの生姜焼きのはずなのに、今まで食べたことのない味が口の中で広がった。


「だろ! ひぃさんの作る料理は素材からこだわってるからな。美味くて、健康的なんて、まさに最高だろ!」


 喋ることで口の中から味がなくなってしまうことを恐れて、僕は租借しながら頷いた。説明してくれた高野さんには申し訳ないけど、同じ料理を食べているんだから、この気持ちは伝わっているはずだ。


 互いに料理を黙々と、しかし豪快に食べていく。美味しくて箸が止まらない、という経験は年々減って来る。けれど、ひぃさんが振る舞ってくれた料理は、僕の食欲を止めてくれない。


「この生姜焼きはね、食材に拘ったのもあるんだけど、実はタレによりをかけてみたの。豚の良さを引き出すために、試行錯誤を重ねたんだけど、美味しく出来上がってよかった」


 残り数口といったタイミングで、ひぃさんが料理の説明をさらりとしてくれた。説明を聞く前から美味しかったのだけど、説明を聞いた後は、タレに強く意識が向くから不思議だ。


「で、例の話は前向きに捉えられたか?」

「あ、いえ」

「ああ、急かしたわけじゃないんだ。真護の今後に関わる話なんだ。ゆっくり考えて、真護の意志が固まったタイミングで言ってくれればいい」


 お茶を濁すような反応をした僕に、高野さんは詰め寄ることもなく、笑って受け入れてくれた。


 たったそれだけでこの話は終わり、高野さんはくだらない話に花を咲かせてくれた。ひぃさんも笑って、場を盛り上げてくれる。僕も口角を上げるけれど、先ほどのように楽しむことは出来なかった。


 例の話――、それは僕の昇進に関わる話だ。

 高野さんが課長から部長へと昇進することで、空いたポジションを務めてはどうかと僕は打診されている。この話を聞いたのは、半月前。しかし、僕はまだ決めきれずにいた。


 ありがたい話だと思う。けれど、僕には高野さんのように、人をまとめる力はない。誰かの陰に隠れて、ひっそりと仕事をするのがお似合いだ。


 要するに、僕は自信がないだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る