肆 扉 その二
私に憑いたこの気配に、名前を付けなかったことを、不思議に思われますか?
そうですよね。
でも、これに名前を付けて、もし実体化したりでもすれば、怖いじゃないですか。
それに、これとコミュニケーションを取ったりすることもないので、特に不便ではなかったんですよ。
まあ話の便宜上、<これ>と呼ぶことにしますね。
界渡りのお話でしたね。
あれから幾つの世界を渡り歩いたか、正確には覚えていません。
多分、二十くらいじゃないですかね。
色々な世界がありました。
例えばある世界では、夜のように光の乏しい中で、人の形をした小さい者たちが、うじゃうじゃと蠢いていたのです。
その者たちは、四つん這いになって、長い髪を振り乱しながら、その世界の中を這いずり回っていました。
そして私の姿を見つけると、群がるようにして近づいて来たのです。
怖かったですね。
でもその時は、私のその恐怖に<これ>が反応したのか、すぐに扉が現れ、逃げ出すことが出来ました。
そうして幾つかの世界を渡っているうちに、何だか私もそのことに慣れてしまって。
でも一つの世界にずっと留まろうという気は、起こりませんでした。
やはり自分が元居た世界と、あまりにも違う世界で暮らすのは嫌だったんですね。
それに新しい扉が現れると、<これ>が次の世界に行くように、私を急かす気がするんですよ。
そして<これ>の性質に、大きな変化が現れたのが、ここに来る二つ前の世界でした。
その世界は、一種類の生き物だけが住む世界でした。
その生き物とは、コミュニケーションをとることが出来たんです。
何故ならば、その生き物は私の頭の中に、直接イメージを送り込んできたからです。
その生き物は、私たちの世界で言うと、ネズミくらいの大きさでした。
ただ、その姿形は、私たちの世界の、どの生き物からもかけ離れていて、様々な生き物が合わさったような形をしていたのです。
そしてその世界が異様だったのは、社会が共食いで成り立っていたことなんです。
その代わりに厳密なルールがあって、新たに誕生した個体の数以上の捕食は、その者たちの社会では認められていなかったんです。
つまり、生まれた個体の数だけ共食いすることで、全体の個体数は一定に保たれていたんですね。
私は共食いという、そのこと自体に不快感を覚えましたが、その世界のルールである以上仕方がありません。
それに私が危害を加えられた訳ではなかったので、早く扉が現れて、次の世界に行きたいと思っていました。
しかし<これ>が、とんでもないことを、仕出かしました。
なんと、近くにいた個体を、数体捕食してしまったのです。
その結果、その世界をパニックが襲いました。
それまで厳密に保たれて来た、種族の個体数保持の決まりごとが破られたことで、際限のない共食いが始まってしまったのです。
阿鼻叫喚というのは、あのことでした。
私は、何故<これ>が突然そんなことを仕出かしたのか、理解できませんでした。
しかしよく考えて見ると、それまでに界渡りで行った世界では、他者を捕食するということが、一切行われていなかったのです。
つまりその世界で、<これ>は捕食という概念を、学習してしまったのではないかと思うのです。
実際それまでの世界で、<これ>がそんな行動を取ることはありませんでした。
しかしここの一つ前の世界に移動した時に、<これ>はその世界の生き物を、手当たり次第に捕食し始めたのです。
そのお蔭で私は、一つ前の世界では、恐怖の象徴のようになってしまいました。
困った話です。
それ以上に、<これ>がこの先、どんなことを学習していくのかと考えると、恐ろしくなってしまいます。
私はこのまま<これ>を連れて、永遠に界渡りを続けなければならないのかも知れませんね。
あるいは私も、いずれ<これ>に食べられてしまうのでしょうか。
もう既に、元の世界に戻ることは諦めています。
だって、<これ>を連れて戻ったら、とんでもないことになるじゃないですか。
ですので、ご安心下さいね。
それにしても、ここの執事さんは不思議な方ですね。
私と<これ>がここに来ることを事前に知っていて、扉を開けて入った途端に、この会で話すことを提案されたんですから。
あっ、不味いです。
<これ>が皆さんに興味を示し始めました。
何かあったら大変なので、この会場にある扉から他の世界に行くことにします。
ところで皆さん。
ここも異世界だということに、気づいておられますか?
もちろん気づいておられますよね。
それでは、もうお会いすることはないと思いますが、お元気で。
了
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