壱 夢 その二
その日の夜も、私は同じ夢を見ました。
同じ家の同じ部屋の中で、隣室の住人と同じ顔をした女が、老女を殺す夢です。
その時になって私は、漸く一つの事実に思い至ったのです。
私が毎夜同じ夢を見続けているのは、隣人が毎夜見ている夢の中に、私が紛れ込んでいるのだということに。
その日の夢の終わりは、振り向いた隣人の女が、私を見て驚愕の表情を浮かべた場面で終わりました。
そして目覚めた時の気分は、それまでにも増して最悪でした。
毎夜見る悪夢の展開が、徐々に進んでいることが分かったからです。
近いうちにあの女は、夢の中の私の顔を、間違いなく覚えるだろうと思いました。
――本当にあの女は、夢に出て来る老女を殺したんだろうか?
――もしそうなら、どうしてあの女は逮捕されずに、普通に暮らしているんだろうか?
――それともあの夢は、あの女の只の願望なんだろうか?
――そもそも何故私は、毎夜あの女の夢に紛れ込んでしまうんだろうか?
様々な疑問が頭の中に浮かんできて、私は混乱してしまいました。
――あの女に顔を覚えられたら、どんなことになるんだろう?
――あの女が本当の人殺しだったら、私まで殺そうとするだろうか?
そう思うと、底知れない恐怖が沸き起こったのです。
警察に相談しようかとも思ったのですが、すぐに思い直しました。
だって、夢で殺人現場を見ましたと言ったって、信じてもらえないじゃないですか。
とにかく私は、部屋を出入りする時には、必ず大き目のマスクとサングラスを着用して、極力物音を立てないように、細心の注意を払うようにしたのです。
私の部屋からは、隣の女の部屋の前を通らないと外に出られなかったので、部屋の前を通る時は、神経が擦り減るくらい気を使いました。
隣室の前を通る際に表札を見ると、本名かどうかは分かりませんが、『コヤマ』という名字だけが書かれていました。
それからの数日間、やはり私は同じ夢を見続けました。
正確には同じ夢ではなく、終わりが徐々に進行して行ったのです。
コヤマが驚いた顔で振り向いた翌日は、体をこちらに向けました。
その翌日には、私の顔をジッと睨んだのです。
そしてその翌日には、私に向かって何かを叫びました。
夢の中では、叫び声が確かに聞こえた筈なんですが、目が覚めると忘れていたのです。
そして翌日にはついに、コヤマが私に向かって、近づいて来ようとしたのです。
何故か夢の中の私は、彼女が近づいて来ても、動くことが出来なかったのです。
その場面で目が覚めた私は、体中汗びっしょりになっていました。
毎晩同じ夢を見るうちに、夢の中の世界が、私の意識の中で、現実と重なって行ったのだと思います。
このままでは、夢の中でコヤマに殺されるのではないかという恐怖が、沸き起こってきました。
いくら夢の中でも、殺されるのって嫌じゃないですか。
思い悩んだ末に私は、引っ越すことに決めたのです。
引越しのための出費は痛かったのですが、背に腹は代えられません。
あのままではきっと、私は精神に変調を来していたと思います。
大急ぎで引越し先を決めた私は、二週間後には新しい部屋に移りました。
それまでの間は、友達に頼み込んで、部屋に泊めてもらったのです。
そしてコヤマの近くから離れると、あの夢は見なくなっていました。
引越し先の部屋でも、あの夢を見ることはなかったので、私は心底ホッとしました。
そして新居に引っ越してから、最初の日曜日のことでした。
散策がてら近所の様子を見て回っていた私は、一軒の家の前で立ち尽くしてしまったのです。
夢の中に出てきた、あの家だったからです。
引き戸の脇の表札には、「コヤマ」と書かれていました。
そして私は、引き寄せられるように、家の中に入ってしまったのです。
夢の中と同様に、扉の鍵は掛かっていませんでした。
玄関から見た家の中の様子も、夢の中と全く同じに見えました。
靴を脱ぎ、奥に進んで行くと、そこはやはり寝室でした。
そして室内には、夢で見た通り、私に背中を向けて人が立っていました。
しかしそれは隣人のコヤマではなく、男性だったのです。
その男は、夢の中のコヤマと同様に、手に持った白いタオルで、ベッドに横たわった老女らしき人の鼻や口を押えているようでした。
老女は苦し気にもがいています。
それを見た私は、思わず「ひっ」と、声を立ててしまったのです。
その声を聞いて振り向いた男は、かなりの老齢に見えました。
その老人は私を見て驚いた様子でしたが、すぐに怖い顔をして言いました。
「あんた何者だ?何で人の家に勝手に上がり込んでるんだ」
そう言いながら老人は、私に近づいて来ると、いきなり私の首に両手の指を掛けて、力任せに締め始めたのです。
私は抵抗しましたが、老人の力が意外に強く、振り解くことが出来ませんでした。
「お父さん、何してるの!止めて!」
私が力尽きて意識を失いそうになったその時、背後から叫び声が聞こえたのです。
その声を聞いた途端、老人の手から力が抜けていくのが分かりました。
そして私は、その場で床に座り込んでしまいまったのです。
「大丈夫ですか?」
女性がそう言って声を掛けるのを、私は朦朧とした意識の中で聞いていました。
その問い掛けに頷きながら、声の主の顔を見た私は、驚きで声を失ってしまいました。
その女性は、隣人のコヤマだったのです。
コヤマは、私同様に床に座り込んだ老人には目もくれず、ベッドに向かいました。
「お母さん、大丈夫?」
――お母さん?
私は何が起こっているのか、状況が全く分からず、室内の様子を、まるで夢の中の出来事のように見ていたのです。
その後救急隊や警察が呼ばれ、家の中は騒然となりました。
私とベッドの老女は救急搬送されましたが、私の方は特に怪我を負った訳でもなかったので、病院で警察の事情聴取を受けた後、すぐに解放されたのです。
警察に、私があの家に入り込んだ理由を聞かれた時は、正直言って焦りましたね。
まさか、夢で見たからと説明する訳にもいきませんから。
その後少しして、隣人のコヤマさんが訪ねてきました。
急に『さん付け』するのも変ですね。
彼女は下の名前をハルコさんと言って、あの家の娘さんでした。
あの家は彼女の実家で、両親が夫婦だけで暮らしていたのですが、お母さんが要介護状態になってしまって、お父さんが一人で面倒を見ていたらしいのです。
しかしお父さんの方も高齢だったので、心配になったハルコさんは前の勤め先を辞めて、地元に戻って来たんだそうです。
ただ、彼女が実家に戻らなかったのは、お父さんから頑なに拒否されたからだそうです。
理由は、彼女のお母さんの認知症が相当に進行していて、介護しようとする夫に対して暴言を吐いたり、時には暴力を振るうようになっていたかららしいのです。
そんな母親の姿を、娘に見せるのが忍びなかったんでしょうね。
そして当時の私の隣室に引っ越してきた夜から、彼女も私と同じ夢を見るようになったそうなんですよ。
お互いその話を共有し合った後は、驚いて暫く声がなかったですね。
ただ、彼女の夢の中で、お母さんを殺そうとしていたのは、見知らぬ女、つまり隣に住んでいた私だったらしいんです。
私と彼女の夢の中で、お互いの役割が入れ替わっていたんですね。
実はハルコさん、私の顔を見て、ちゃんと夢の中の<殺人鬼>と認識していたらしいんですね。
だから私と同じ危惧を抱いて、彼女も部屋の出入りに細心の注意を払っていたそうなんですよ。
だから私が引っ越した時は、彼女もホッとしたそうです。
同じ理由でお互い警戒し合っていたなんて、笑っちゃいますよね。
そうそう、あの日のことですね。
あの日ハルコさんは、実家の両親の様子を見に行こうとしてしてたんです。
そしたら、夢で見た<殺人鬼>の私が、自分の実家に入って行くじゃないですか。
びっくりして後を追ったら、自分の父親が、私の首を絞めている場面に出くわしたということらしいんです。
その後のことは、先程お話した通りです。
あの日ハルコさんのお父さんは、やはり妻を殺害しようとしていたらしいんです。
介護に疲れ果てて、一時的な錯乱状態だったみたいですね。
あの後警察に逮捕されて、傷害罪で起訴されたようです。
事情を聴いた私は、大した被害を受けた訳でもないので、出来るだけ刑が軽くなるように、嘆願書を出しました。
ハルコさんによると、執行猶予が付きそうだということでした。
私とハルコさんが、何故同時にあんな夢を見たのかは分かりません。
でも、あの日の出来事を考えると、きっとハルコさんのお父さんが、最悪の罪を犯さないように、何かの意思が働いたのかも知れませんね。
あれから私とハルコさんは、結構意気投合して、今でも親しく付き合っています。
でも、彼女の隣の部屋に戻るつもりはありません。
だって、またハルコさんと、夢が混じったら困るじゃないですか。
私の話は以上とさせて頂きます。
お楽しみ頂けたでしょうか?
了
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