壱 夢 その一

初めまして。

シノと申します。


唐突ですが、皆さん、悪夢を見たことがおありでしょう?

この世に、悪夢を見た経験のない方など、いない筈ですものねえ。


夢というものは、見る人の記憶や願望の産物ですので、どれ程突拍子のない夢であっても、本人とどこかで関わりがある筈です。

遠い昔の忘れてしまった記憶や、本人が意識していない密かな願望が、夢となって現れることもあるのです。


もちろん私は心理学者ではありませんし、自分の素人考えを述べているに過ぎませんが、今申し上げた点については、皆さんにも同意いただけると思います。


そして夢の中でも悪夢というものは、その人の置かれている辛い状況や、忘れたい記憶、はたまたテレビや映画で見た嫌な場面など、様々な要素が絡まり合って構成されているものと思われます。


何が言いたいかと申しますと、夢というのは所詮、その人の精神世界の中の出来事に過ぎないということなのです。


ただ、もし皆さんが、他人の夢の中に紛れ込んでしまったとしたら、どう思われますか?

それでもその夢は、自分の精神世界の中だけの出来事だと、言い切れるでしょうか。


前置きが長くなってしまいました。

これからお話しするのは、私が他人の夢の中に紛れ込んでしまった時のことなのです。

他人の夢、それは私にとっては、完全に異世界の出来事だったのです。


その夢を最初に見たのは、去年の夏の終わり頃でした。

エアコンを点けて寝るのも中途半端な気温だったので、点けずにそのまま寝ておりましたところ、とても寝苦しかったことを覚えています。


夢はある民家の前から始まっていました。

家の扉が引き戸でしたので、何となく古い民家のようなイメージを持ちました。


扉に鍵は掛かっておらず、何故か私は家の中に入って行ったのです。

玄関を抜けて奥に入って行くと、ベッドが置かれた寝室でした。


そして女性らしい人の背中が見えたのです。

その時突然、私の視点が切り替わりました。


何故か私は、天井から下を見下ろしていたのです。

そして先程背中が見えた女の人が、ベッドで寝ている老女に覆い被さっていたのです。


その時はそれで、夢から覚めました。

気がつくと、体中汗びっしょりになっていたのです。


――変な夢。何であんな夢見たんだろう?

その時はそう思っただけだったのです。


そして翌晩もまた、同じ夢を見たのです。

夢の始まりはやはり、民家の前でした。


前日と違ったのは、扉の脇に表札が掛かっていたことでした。

その表札の文字を、夢の中の私は確かに読んでいたのですが、はっきりと認識することが出来ません。

そういうことって、ありますよね。


前の晩の夢と同様に、何故か私は家の中に入って行きました。

そして同じく、奥の寝室に向かったのです。


寝室ではやはり女の人が、私に背を向けていました。

そしてそこでまた、私の視点が切り替わったのです。


上から老女に覆い被さっていたその女性が、何をしているのか、今度ははっきりと認識することが出来ました。

老女の鼻と口を、白いタオルのようなもので塞いでいたのです。


老女はもがき苦しんでいるようでした。

夢の中なので、時間の感覚は定かでありませんでしたが、老女は見る間に息絶えたようでした。


その時また私の視点が、寝室の入口に切り替わったのです。

そして老女の口を塞いでいた女性が、私に気づいて振り向こうとした時、夢は覚めました。


目覚めた時私は、とても不快な気分に襲われました。

あれはきっと、殺人現場の夢だと思ったからです。


――何であんな夢を、毎晩見るんだろう?

私は不思議でなりませんでした。

夢で見た家も、老女の顔も、記憶になかったからです。


もちろんテレビや映画で見ていたり、遠い昔の記憶だったりする可能性はあるかも知れません。

しかし突然それが夢の中に、それも、あれ程鮮明に表れる理由が、まったく思いつかなかったのです。


私は嫌な気分のまま、その日も夜を迎え、また同じ夢を見ました。

その日は、老女を殺した女が振り向いて、こちらを見た瞬間で夢から覚めたのです。


多分夢の中では、相手の顔を見て認識した筈なんですが、夢から覚めると、記憶には残っていませんでした。

夢の中だと、そういうことってありますよね。


そして次の夜もまた、同じ夢を見またのです。

その日の夢の中では、老女を殺した女と目が合いました。

そして私は、相手の顔をはっきりと認識して、記憶したのです。


翌朝も私は、とても不快な気分で目を覚ましました。

その夢を見るようになってから、眠りも浅く、体が疲れるようになっていたのです。


朝食を済ませ、準備を整えた私は、いつも通り会社に出勤するためにマンションの部屋を出ました。

その時丁度、隣の部屋からも人が出てきたのです。


――そう言えば最近、隣に新しい人が引っ越してきたわね。

そう思って挨拶すると、向こうも挨拶を返してきました。


その人は私と同年代くらいの女性だったのですが、私はその顔を見て凍りつきました。

毎夜夢の中に出て来る、人殺しの女の顔だったからです。


私が呆然としていると、相手は不審そうな顔を私に向けました。

その顔を見て私は、多分相手が私と夢の中で会っていることを、覚えていないのだと思ったのです。


ただ、このまま毎日夢を見続けたら、きっと私の顔を覚えるに違いないと確信しました。

それと同時に、夢の中の出来事が、もしかしたら事実なのかも知れないと、思い始めたのです。


そして私のその考えは、ほぼ間違っていませんでした。

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