第3話 文の成果

「いやあ、クイの方から文を貰えるとは思っていなくてね、今日はさっさと仕事を切り上げて来たんだ」


そう言って、御客はくいっと酒を飲み干す。


「まあ、そんなに喜んでいただけて何よりです。」


「ははは、いつものつっけんどんな感じも良いが、たまにはこんな風にしてもらうのも良いなあ。まさに飴と鞭ってやつだ。」


葵は顔に笑みをはりつけたまま、客の盃に酒を注ぐ。


(早く帰ってくんないかなあ)


いつもは謎を解いてくれ、という客が多いので、一晩の客の入れ替わりが激しい。


だが今晩はわざわざ葵の方から文で呼び出しているので、「次の客がお待ちだから今日のところはもう…」なんてことは言えないのである。



仕方がない。稼がねば、折檻という名の女主の拳骨を食らうことになる。


あの骨と皮だけのような細い体からどうやってそんな力が出てくるのか、というほどに女主の拳骨は痛いものなのである。



「それで、葵。考えておいてくれたかい?」


酒を飲んで顔を真っ赤にさせた御客が笑いながら葵に尋ねる。


「考える、と申しますと?」


「なんだい、こないだの返事を聞かせてもらえると楽しみにきたのによお。んじゃあ、もっかい言うからちゃんと聞いとけよ?」


語尾を低くして、しかもなぜか決め顔で来られたので、葵は全身を身震いさせた。見てはいけないものを見てしまったような感覚に近い。


「うちに来ないか?」


(いや、あんた奥さんと子供がいるだろ)


御客の言葉に、葵はすかさず心の中で突っ込む。


それに、こないだこの御客が来た時、そんな話をされた覚えはない。


「旦那さん、有難いお話なんだけどね、旦那さんのとこには奥さんもいらっしゃるし、小さいお子さんもいらっしゃるでしょう?そんなところに身を置くなんていくらなんでも…」


「なあに、あいつは追い出せば良いだけじゃないか。葵はまだ若いし、肌が艶々しているのに、あいつは子供を産んでからは突然老いた感じがする。話しかけたら怒りっぽいし、口を開けば散財するなとしか言わない。」


(そりゃ、こんなところに来て一晩で結構な額落としてちゃ、言われるわな)


葵は文で来てくれるよう催促した自分のことを棚に上げて、奥さんに同情する。


御客はというと、家族に対する不満が尽きないようで、やや怒り気味に酒を飲み干す。


「じゃあ、葵。こんだけ出す!だから、な、な!」


そう言って御客は親指と人差し指で輪を作り、どんどん横にずらしていく。


それだけの桁の額を出すということだ。恐らく平民の年棒の五倍は超えている。


「旦那さん…」


葵が呆れ笑いで御客の方を見ると、御客はニヤアっと気味の悪い笑みを浮かべる。


「葵が望むなら、この十倍だそう」


(破産するぞ)


心の中ではすかさず突っ込みを入れることは忘れない。だが実際には呆れた表情が表に出てしまう。


「大丈夫さ。今の俺は付いている。明日にでも昇進の案内が来るだろう。」


「昇進?それはおめでたいですわね」


葵は呆れを浮かべた顔を必死に取り繕う。


「そうだろう?こないだお偉いさん方が会合をしたらしいんだが、その時に高官たちが倒れたらしくてな。亡くなったお偉いさんもいるんだ。その枠を埋めるべく、今下っ端だった役人さえもどんどん出世しているんだ。今日も知り合いに昇進命令が出ていた。やっと俺の時代が来る!」


(実力じゃないのね)


葵は苦笑いしながら適当に相槌を打っておく。


それにしても。


高官たちが原因不明で倒れているというのは心配だ。何事も起きなければ良いが。


葵は酒を飲み過ぎて笑い上戸になっている目の前の御客を一瞥すると大きなため息をついた。



〇●〇



「頑張ってるのねえ」


翌朝、朝餉を食べていると、丹華タンカに話しかけられる。


「何が?」


「稼ぎを取り戻さなきゃいけないから、自分で文を出したんですって?珍しいこともあるのねえ」


「ほーんと。禿だった時には、私たちに鼻の下を長くする男をすごい形相で睨みつけていたっていうのにねえ」


丹華に便乗するように、葵の背後からひょこっと顔を出すのは、蝶天閣の最上級妓女の一人、蘭世ランヨである。


「そうよねえ、よく笑えって怒ったもの。大変だったわあ。引きつった笑いしかできなかったから。」


葵はそれは今も変わらないような気がする、と思いつつも、素知らぬふりをする。きっと気のせいだ、きっと。


蘭世はそんな葵を横目に、胡瓜を口に運ぶ。


「ああ、そういえば」


その様子を見ていた丹華が口を開く。


「昨日来て下さった旦那様がね、最近暑いせいで、宮廷料理で使う野菜が温くなるって困っていらしたのよねえ」


「丹華。あんた、宮中の料理人まで客にとってるの?」


「料理人って訳じゃないけど、なんか食材を見分ける人らしいわよ。常連さんの紹介で来てくれるようになったの」


「すごいわねえ」


蘭世はただただ感心している。


そんな蘭世の肌はいつにも増してはりが良い。


恐らく昨晩床の客を取ったのだろう。蘭世は夜の方がこの妓楼一お盛んで、それ目当ての客が多い。


三十路を越しているとは思えないほどの妖艶さがまた男をそそるらしい。


「普段からそんな冷えた野菜を食べない私達からすれば、温いなんて気にもかけないんだけどね。」


蘭世は皮肉交じりに呟きながら、また胡瓜を口に運ぶ。


「後宮なら、氷室で氷を貯蔵しているはずなのに温くなるの?」


葵は丹華に尋ねる。


「なんか、氷がすぐ溶けちゃうんですって。氷水につけておくらしいんだけど、そうすると味も水っぽくなっちゃうって言ってたわ」


葵はふーん、と頷きながら粥を口に運ぶ。暑いので、黒酢をかけていただく。


「なに、なんか解決策でもあるの?」


丹華が思案気な様子の葵に気付く。


「いや、確実にそうなるかはわからないんだけど…」


「なあに~?小姐に言ってごらんなさい。その旦那様、明日の晩も来て下さるっておっしゃってたから、その時伝えておくわ。」


「んっとねえ」


葵は口の中の粥を飲み込む。


「氷水の中に、塩を入れてみたらいいと思うの」


「塩?」


葵はコクリと頷く。


「氷水の中に塩を入れておくと、氷が融けてしまうの。その時、周りから熱を吸収する。さらに、水になった後も、塩が溶けるのに熱を吸収するから、二つの吸熱が同時に働いて温度が非常に低くなるの。塩水なら、野菜も沈みにくくなるし、水っぽくはならないんじゃない?ちょっとしょっぱくなるかもしれないけれど。」


葵が丹華の方を見ると口を開けてポカンとしている。一方の蘭世はというと、納得したのか頷いている。


「要するに、氷水に塩を入れたら万事解決するってことね!」


丹華は分かった!というようなテンションで叫ぶが、説明がほとんど省かれている。まあ彼女らしいといえば彼女らしい。


(後で紙にまとめて丹華小姐に渡そう)


葵はそう決めて、残りの粥を口に運ぶ。


「あ、そうそう、忘れてたわ」


そう言って丹華は葵にいくつか文を手渡す。


女主おかみから渡すように頼まれてたの」


そう言って、蘭世にも一つ文を渡す。


「随分沢山文を送ったのねえ」


後ろから蘭世に言われる。


「まあねえ」


葵は苦笑いしながら、差出人を確認する。


その中に、鷹の印が押された文があった。


昨晩の御客が言っていた、高官たちが倒れていっている件について何か書かれていたりするだろうか。



じっと見つめてしまっていたのか、葵が顔を上げると丹華がニヤニヤしながらこちらを見ている。


「ほんと、その紫水シスイ様も飽きないわよね。葵としょっちゅう文のやり取りしてるんだもの。私なら嫌になっちゃうわ」


「それは丹華が文を書くのが得意じゃないからでしょう?ちょっとは葵を見習ったらどうなの?」


「無理よお。私には葵みたいな賢い頭がないもの」


丹華はペロッと舌を出して笑う。


その様子を見て蘭世は額に手をつく。



「まあ、あんまり肩入れしないことだよ。身請けしてくれるって期待を裏切られることもこの世界ではよくあることなんだから」


蘭世はそう言って葵の頭をポンポンと叩く。


その横顔はどこか寂しそうにも見える。


昔、蘭世が好意を寄せていたある高官が、蘭世ともう一人の最上級妓女と悩んだ末に、蘭世を捨てたらしい。決してその相手の妓女が悪いわけではないが、蘭世の中では未だ癒えない何かがあるのだろう。


それに、蘭世はこの妓楼に一番長くいる妓女だ。自分の禿だった娘たちが先に貰われていくのをずっと見て来たのなら、思うところも色々とあるのだろう。


とはいえ、男女関係や色恋沙汰に興味を示さない葵にはそれがあまり分からない。そんなことを言うと、他の妓女たちにロマンスが足りないだの、夢がないだの言われるが、興味を持てないのだから仕方がない。


ただ、蘭世には報われて欲しい、と思う。


もっとも、全く当てがないわけではない。


蘭世は食事を終えて、先ほど丹華から受け取った文を見ている。


その頬がだんだんと桃色に染まり始めている。


「「小姐ねえさん~?」」


葵と丹華が悪戯っぽく笑いながら、蘭世の顔を覗き込むと、蘭世は慌てた様子で文を隠す。


「な、なに?」


葵と丹華は顔を見合わせて笑うと、食べよ食べよと残っている朝餉を片付ける。


(次こそ上手くいくといいねえ)


葵は頬を染めたままの小姐を横目に少し微笑んだ。

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