第2話 開かない蓋
「
禿が起こしに来たのは日が昇って半刻経ったか、経っていないかくらいの頃だった。
食事の時は、全員で卓を囲む。全員揃うまで食事にありつけないので、なるたけ急がなければならない。
葵は飛ぶ鳥を落とす勢いで布団を畳み、皆が待つ一階へと足を運ぶ。
一階に下りると、まだ皆揃っていなかったので、少しホッとした様子で席に着く。
すると、隣に座っていた妓女に肩を叩かれる。
「ねえ、
色っぽい雰囲気で話しかけられ、瓶を渡される。
「なにこれ?」
「昨日、新規のお客様に頂いたの。自分で作ったから是非食べてくれって。見たところ普通の蟹の醬油漬けでしょ?変なものじゃなさそうだし、皆で食べようと思って部屋から持って来たの。」
そう言ってニッコリと笑う様は見ている者の頬を紅くさせる。
この笑みと、白魚のように白く細長い指から奏でる優美な音楽に、毎夜平民の年棒を超える額が落とされていると思うと、ゾッとすると同時に納得してしまう。
簡潔に言って、美女、なのだ。
話していて飽きない話術に加え、先述の腕前、彼女は何においてもこの妓楼の「華」なのである。
名を
名前の通り、牡丹の花のように華やかで、この蝶天閣一番の妓女の証でもある「華」の字を与えられた唯一の絶対的美女だ。
「うーん、これ開かないね。」
「やっぱり?勿体ないし、くださった旦那様には悪いけど、諦めるしかないかしらねえ」
「どうだろう?ちょっと借りて良い?」
丹華がうん、と頷くのを確認すると、葵は炊事場へと向かう。
「何するの?」
葵が炊事場で鍋に水を入れて熱していると、丹華が覗き込んで来る。気になって付いてきたらしい。
「まあ見てて。」
そう言うと葵は瓶を逆さまにして鍋の中に突っ込む。
「まさか、溶かすの?」
丹華の問いに、葵は笑いながら首を横に振る。
二人が席に着かないのを見かねた他の妓女や禿たちがなんだなんだ、と炊事場を覗きに来る。
しばらくすると、ボコっという音と共に、熱水の内部から大きな泡が出てくる。
それを見た葵はニヤっと笑うと、瓶を湯から上げ、布で拭きながら丹華に手渡す。
「開けてみて」
丹華は訝しげな表情をしつつも、手に力を込める。
すると。
カパッ。
「あ、開いた」
その場にいた皆の口が開いている。
その様子はとても滑稽で、葵は思わず吹き出しそうになる。
「…でも、どうして?」
不思議そうな顔をする丹華に葵は得意気な様子を見せる。
「瓶と蓋の元の原材料は全く異なるものでしょ。でね、蓋は金属でできているんだけど、それは瓶の材料である硝子よりも温まりやすくて、温めると先に膨張するの。すると、瓶と蓋の間にわずかな隙間が生まれて、空気の通り道ができることで開けやすくなるのよ。」
丹華をはじめ、群がっている妓女たちはへえと感心している。
「あんた達、なにやってんだい。早く席に着きな。粥が冷めちまってるじゃないか。」
その場に居た者たちは皆、いきなり飛んできた怒号に身を震わせる。
恐る恐るその方向を見ると、この妓楼の主である
「それに勝手に炊事場を使っていいとは言っていないんだけどねえ」
その視線は明らかに葵の方向を向いている。
「違うのよ。女主。私が昨日御客にいただいた瓶の蓋を誰も開けられなかったから、私が葵に開けてくれるよう頼んだの。葵は悪くないのよ」
丹華が必死にかばってくれるが、女主の視線が葵から外されることはない。
むしろ何か言いたげな様子だ。
群がっていた妓女や禿たちは、自分たちに飛び火が来ないよう、我先に、といそいそ席に戻っている。
「ほんと、こないだは御客から金を貰い忘れるわ、今日は朝餉をほったらかしで勝手に炊事場を使っているわ、どうしようもない子だね」
どうやら言いたかったのは前者の方らしい。やけに強調されている。
「金を貰い忘れたのは悪かったよ。その分あたしの取り分から引いてくれて構わないからさ、ね。」
葵は何とか取り繕おうとするが、女主の機嫌は収まりそうにない。
(あちゃー)
別に貰い忘れた訳ではないのだが、なぜかあの旦那が置いていった財布をそのまま素直に受け取る気にはなれなかった。
とはいえ、そんな言い訳が女主に通じるわけもなく。
丹華の方を見ると、苦虫を嚙み潰したような顔をしている。
(こりゃあ今月頑張らないと、女主の機嫌は収まりそうにないな)
丹華も同じことを考えているようで、肩をすくめている。
「お腹空いた」
丹華の禿の内の一人が呟いたことで、丹華があ、という顔をする。
「そうよねえ、先食べましょ。皆待たせて悪かったね」
丹華に続いて葵も席に着く。
粥はすっかり冷めてしまい、表面に膜が張り始めていた。
二人が席に着いたのを見届けると共に、一斉に匙や箸を手に取り、食べ始める。
葵もそれを見て粥を口に運ぶ。
ふと横を見ると、丹華が先ほどの瓶と睨めっこしている。
「小姐。なにやってんの?」
葵も丹華と同じ最上級の妓女なのだが、葵が禿だった頃、面倒を見てくれていた丹華は今でも葵にとっては小姐なのである。
「なんかちょっと、甘い匂いがするのよね、蟹の醬油漬けにしては。」
「醬油が甘めなんじゃないの?」
「なんかそういう感じじゃないのよね」
丹華に瓶の口を向けられ、葵はスンと匂いを嗅ぐ。
(あ、これ、あれだ)
遠い昔の記憶だが、知り合いの誰かが嗅がせてくれたのと同じような匂いがする。
確かあの時、嗅がされたついでに、何かを言われた気がする。
『気を付けろよ、これはーーーー』
「…催淫剤」
葵がポツリと口にする。
葵がはっと我に返ると、目の前で丹華が凍り付いたように動かなくなっていた。
「小姐?」
すると丹華は唇をわなわなと震わせながら呟く。
「た、食べちゃった。」
予想外のことに葵は驚いたが、平静を保つよう努める。
「大丈夫よ、小姐。吐き出せば良いだけだし、まだ朝だから夜まで時間あるじゃない。問題ないわ」
そう言うが、丹華の震えは止まらない。もしや、催淫剤ではなく、毒物の一種だったのか。
丹華は震える手の指先を伸ばす。
葵がその指先を辿ると、その先には顔を紅く染め始めた禿がいた。見たところ、歳はまだ五つか六つといったところか。
「小姐。もしかして…」
「あ、あの子が…私が一瞬目を逸らした隙に…口に入れてた…」
葵は改めてその禿を見る。頬が紅潮していた。
(あっちゃー)
葵は額を押さえる。
後日。
丹華に例の瓶を渡した御客は出禁になってしまったらしい。
(まあ、当然だろう)
女主に怒鳴られ、びくつきながら帰るその御客の後ろ姿を見つめながら思う。
葵は机の前に座ると、筆を取り、手紙を書く。
書き終えた手紙に蜜蠟を垂らして、刻印を押す。
昔を思い出すと、どうしても手紙が書きたくなったのだ。
あの匂いを教えてくれたのはどんな人だっただろうか。
(さて、稼がないと)
葵は常連様宛の手紙を量産する。そして。
(そろそろ報告くらいしておかないとね)
<葵>《あおい》に課された使命。欲する情報とご対面するにはもう少し時間がかかるようである。
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