道化師

花ケモノ

道化師

 北の大地の永い冬は氷の下に万物を封じ込める。かつてここには国があり、都があった。今はもう絶えて久しい王族の血脈と共に忘れ去られた一国の栄華はまるで終わること無い永遠の冬のようだ。全ては氷に閉ざされ、かつてを偲ぶものはない。冷たい氷山の一角の中で、人の五代も六代も続いた一国の一城が時を止めたまま眠り続ける。存在を知る術は無く、残虐な歴史を繰り返したこれは罰なのか、氷を溶かす春の訪れは許されない。


 国の名を、ラヌークといった。ラヌーク、美しい名だ。遥かな山脈を河に例え、途絶えぬ人の営みに例えた。首都はティルケ。大昔、まだラヌークが栄えていた頃には四季があり、実りは豊かだった。ティルケには春に苔むす丘があり、そこには紅く可愛らしい野イチゴが茂った。その丘の上に、王族の住まう城があった。城の名をティルトハープ城と言った。一国と一族の栄華よ遥か天まで届けと願いが込められた城は蒼天を突き、高い塔が立ち並ぶ。白亜の城の築城は厳しく、そのいわくや佇まいこそが、国と一族の栄華を声高に歌い上げているようだった。ティルトハープ城は一代目王から絶える末代までその血筋を城壁の中へ抱え続けた。一種の呪いは今なおティルトハープ城の城壁や床や設い全てに染みつき、どんな万力をもってしても決して洗い流すことなど出来ない。

呪い、ティルトハープ城には、冷たく凍てついた空気と共に一族の血塗られた歴史が封印されているのだ。


 かつての王族の冷酷無比は血族間にも等しく向けられた。一族の殺し合いは度々民に見舞って王族への憎しみを育てたが、民はいつも抗うすべなど持たなかった。王族はラヌークの民を略奪すべき他国の民と同じように扱った。ラヌークは歴代の王による略奪で巨大化し、多数の国家の寄せ集めに過ぎなかった。あまたの死肉の上に立っていたのがラヌークでティルトハープ城なのだ。略奪の黄金はラヌークを肥やし、王族を殺し合わせた。何代も、絶えること無く。ティルトハープ城もまた、その荘厳さをもって王族を魅惑し、奪い合わせ殺し合わせた。わたしの君主となれ、ティルトハープ城はあまたの王族の血を吸う毒婦のような存在であった。白亜の城壁は冷酷な美姫のようにティルケの丘の上に在って塔の頂きを蒼天に突き刺していた。

栄華はなはだしいラヌークを滅亡に追い込んだのは民の憎しみだけでは無かった。四季の喪失である。冬の訪れは春にその冷気を残すと次の年には初夏まで名残を残すようになり、草木の樹勢は瞬く間に衰えた。ラヌークは冬に失ったものを他国からの略奪により埋め合わせようとしたが、民がこれを許さなかった。

反乱による戦火が消える頃、大気は厚い雲で覆われ、雪は止まない。湖は凍り、獣は氷上を右往左往して、実りが無いのでその内森から消えた。大地は凍りついて岩のように固くなり、芽吹きは氷に閉ざされた。ラヌークは最早人の住む土地では無くなった。民は各地に散らばり、そうしてラヌークは滅亡した。


 氷山の一角に閉じ込められたティルトハープ城は当時のままに時を止めている。かつての白亜の城は腐食とカビで黒く朽ちかけていた。

塔の一番高い場所、はるかな空へ一番近い一つの部屋に、霊魂は浮遊していた。名は、ウルティニャック。三代目覇王の道化師だった男だ。


 歴代の冷血漢から王冠を受け継いだ三代目覇王も例にもれず無慈悲だった。当世、覇王の名は七大陸に轟いた。北には鬼がいる。または悪魔、その益にあずかったものからは創世の父とも。わずか一代にして飲み込んだ他国は数しれず。ウルティニャックは他の吟遊詩人や踊り子と同じで王の側近に、ある時城に入るように命じられ、覇王の気の向くままに道化芝居や舞を披露した。


 あれはいつのことだったろうか。ティルトハープ城の周囲には苔が生い茂り、野イチゴやかれんな山野草が所々に顔を出していた。それを思い出してみるに季節は春らしい。あまりに美しい木漏れ日と山野を吹き抜ける風の甘やかなにおい、額に少し汗をしながら歩いていく農夫の妻たちをまざまざと思い出してみれば、それが起きたのはたしかに晩春で間違いないだろう。

ウルティニャックはその日覇王に殺された。そしてウルティニャックが未だに見ているのはそうした晩春の美しい景色で、氷の室などでは無い。ウルティニャックの霊魂は肉体の死後もティルトハープ城に囚われたまま、記憶の中を浮遊しつづける。


「神の怒りなどとおこがましい。真に犠牲になったのは無辜の民だけです。悪辣に罪を教えるためになぜ民が犠牲を払わねばならぬ!」

ウルティニャックは芝居じみた声音でそう言うと窓辺に寄り、陽のさす方、それはウルティニャックにだけ見える春のうららかな日差しのことだが、陽のさす方へ歩み出て動作も無しにただ真面目な表情をした。それからウルティニャックは道化の仕草をしながら懐からバレエシューズを出して、履いた素振りも見せずにしっかり履くとみごとに跳躍し、微笑みをたたえて森のニンフに恋する牡鹿を演じた。森の王子は清らかに、まなざしは情熱に燃えていた。

「私の生きる血しお、バルティニカはいずこ。」

ウルティニャックはまたも芝居じみた声音でそう言うと虚空を熱く抱擁し、道化の素振りでそれを追いかけた。

バルティニカ。ウルティニャックの恋人は気ままな旅芸人で、ウルルティニャックの道化芝居には欠かせないリュート弾きだった。明るく軽快なバルティニカ。春の野風のような娘は奔放にウルティニャックを惑わせた。

「私のバルティニカ!おまえのまなざしは遥かな銀河のように、冷たくて、遠い・・・」

ウルティニャックは踊り続けていた足を止めると俯き、次第に脱力すると呆然と立ち尽くした。

「バルティニカ。俺は今どこに居る?かわいそうに。健康に丸々とめでたい赤ん坊。まだ金の産毛を頭に生やして・・・みどりのまなざし。母親になったおまえの、豊満な乳房・・・バルティニカ。おまえの腕の中の赤ん坊、それは俺の娘だ・・・」

ウルティニャックは涙を流し、両手をじっと見詰めた。気の遠くなるような永い時を遡らなければ、最期の瞬間を思い出せない。まず足に矢が刺さり、それは腱を切って踊りを止めさすと覇王の笑う声が聞こえた。

「踊れ。ウルティニャックよ。私の声が聞こえぬか?」

「どうやらウルティニャックは踊らぬようですな。」茶番じみた側近の声は化粧くさい踊り子たちを笑わせた。さざ波のような笑い声は若い娘たちの美麗さをものがたり、耳心地よく食堂の空気を揺らした。

「ウルティニャック!けしからん奴め。貴様に懲罰をくれてやろう。」

放たれた矢はウルティニャックのもう片方の足の腱を断ち切った。

「どうだ?これでも踊らぬか?ウルティニャックよ!」

床を這い回るウルティニャックを皆が笑っていた。額に汗が流れる。痛みは足から突き上げて、いかづちのようにウルティニャックの心臓を打った。声も出ない。覇王は食卓に上がり、ウルティニャックの目前に舞い降りると笑った。覇王の登場に、食堂は人々の歓声で溢れかえる。歓声はとどろきとなってシャンデリアを揺らし、ガラスの擦れる音が歓声の中にはっきりと聞こえた。それはいつかの嵐のようで、あの日ウルティニャックは母親を亡くした。水車を守ろうとして、ウルティニャックの母親は水車小屋の下敷きになったのだ。そうした怖い嵐を思い出し、それは走馬灯に似て、いかにもウルティニャックに死を匂わせた、ウルティニャックは恐怖に震えていた。

「口づけよ。」

覇王は足を差し出すとウルティニャックの鼻を蹴り上げた。ウルティニャックは顔から血を流し、震えながら王のつま先に口づけをする。

「ウルティニャック!とんだ無礼者め!道化芝居はどうした?おまえの仕事を忘れ、私の靴を汚すとは。なんと傲慢な奴め。この罪は許され難い。僧よ!裁きを。」

覇王は僧を振り向いた。

「・・・神の御心のままに。」僧の言葉は食堂を静けさに包ませた。

「わたくしの御神、覇王さま。」一人の踊り子がそう言って覇王に両手を合わせると他の踊り子もそれに従って両手を合わせた。食堂に居る誰もがそうして覇王に両手を合わせる。覇王はこれを受け、大真面目に一度頷くと腰に挿した黄金の剣に手をかけて鞘から抜き、ウルティニャックを貫いた。

「食事が汚れたわ。」覇王は吐き捨て、剣を床に放ると席に着く。すると直ぐにウルティニャックの亡骸を片付けようと従者たちが食堂の中央に流れ込んだ。覇王がフォークでグラスを鳴らすと皆は静まり、覇王の言葉を待った。

「今宵を生ける我らに。新たな血を。」覇王が赤ぶどう酒のグラスを掲げると皆これに従い、食事は再開された。


 ウルティニャックは再びとつ、とつ、と室内を歩き巡る。歩調はゆっくりと。うつむいたまま、ウルティニャックは静かな声で話し始めた。

「孤独にわたしの心が陰るとき、追憶のあなたがわたしに笑いかける。」

ウルティニャックは思い詰めた表情で、いちいちその歩みを確認するように一歩一歩注意深く床を踏みしめた。

「死の記憶も無いままに、俺は昔に死んでいた。もしも俺が、遥かな宙の、輝き果てぬ星ならば、死してなおあなたに笑いかけ、その道を照らすことも出来たであろうに。・・・煉獄より。」

声色は半分芝居がかり、もう半分は芝居を忘れて涙にむせいでいた。

「・・・私は罪人です。」ウルティニャックはついに膝まずき、涙を流した。

「愛する妻子を遺して先に逝きました。」ウルティニャックは床に雪崩れるとうずくまり、しゃくりあげながら静かに泣いた。

「罪をお咎めください・・・」

ウルティニャックはそうしてしばらく泣いていた。そしてにわかに微笑みを浮かべると子守唄を歌い始めた。それでもウルティニャックの涙は止まらなかった。膝を抱いていた手を解くと自分の肩を抱き、ウルティニャックは自分を抱擁して声を上げて泣いた。


 今、氷の大地は常冬の中でも最も冷たい冬のさかりをむかえている。時刻は真夜中をすこし過ぎた。空模様は雲一つ無い快晴で、満ちた月が天空の遥かな頂きにあって、他に何も灯りなど無いし、強烈な光りを放っている。天球はおびただしい数の星をうかべ、透明さたるや果てまで見渡せそうなほど。ティルトハープ城をまるごと包む氷山の頂きに近い所を、月光が照らし出していた。氷の塊は、日中の陽光に晒されて表面を滑らかに溶かされている。月光は氷の表皮の滑らかさの上に注ぎ、黄金色に輝いていた。厳しい氷の突端は月光の色を宿し、清らかに透けている。神性を帯びた情景は美しいがそれよりも鮮烈に孤高で、まるでティルトハープ城を冬と氷で閉じ込めた美神の呪いのようだ。ならば塔に幽閉されたウルティニャックは美神の寵愛を受ける道化師というところか。氷の大地は厳しく、夜はとても永い。どこにもよすがなど無い厳しい自然の前で、わずかに生存する、すべての生命は孤独だ。


 ウルティニャックの霊魂は彷徨い続ける。縦横無尽に、時間も空間も越えて。ウルティニャックは死後もティルトハープ城に霊魂を囚われたままだから、今この瞬間までその歴史を見ていた。無論、今のように、時々から離れ、かつてのどこかを彷徨っていたとしても。ウルティニャックは膨大な時間の中を浮遊し続けてきたのだ。霊魂に個人や集団という概念があるのだとしたら、で。その旅路の孤独たるや計り知れない。


ウルティニャックは今は、ラヌークの最期、反乱の時代に居る。

「反乱の戦火!刃に射抜かれ炎に飲まれたあの娘たちは、みなバルティニカとおんなじだ!俺のバルティニカ! 飢餓に苦しんだ子どもたちよ、おまえたちはみな俺の娘と何も変わらない。さみしいまなざしをしてくれるな。泣かないでくれ!焼けくちた田畑に頭を垂れて泣く老婆よ、あなたは俺の母親と同じ目をしている。・・・人が憎い。殺してやる。皆殺しだ!」

ウルティニャックは目をひん剥き、つばを飛ばしながら記憶の中の戦火に向かって叫びかかると地団駄を踏み、雄叫びを上げた。

「貴様の目をえぐり出し、腹を裂いて腹わたを引きずり出してやる!恐怖を見るがいい!永遠におののけ!おまえが殺した俺のバルティニカを、娘を、母さんを・・・後悔させてやる!」

ウルティニャックは力の限り叫びつくした。そして突然直立すると、同時に体を引きつらせ、ばたんと倒れた。

「・・・俺は・・・死んだのか?」

ウルティニャックはこめかみを何度も手でこすり、震える手を見詰めた。銃撃戦の間をくぐりでもしていたのだろうか?霊魂は記憶の中を浮遊する。タイムスリップでもしているかのように。

「あの世の門を叩きたい。」

ウルティニャックは立ち上がり、こめかみに触れていた手を軽く握るとそれを胸に押し当て、真っ直ぐ前方を見据えて懇願した。を見詰めるまなざしは確信に満ちて清らかだった。声は切実で、握られた拳は細かく震えていた。

「バルティニカに会いたい。それから俺たちの娘にも。母さんが懐かしい。ここはいやだ。とても寒い。」

言い終えるとウルティニャックはが答えてくれるのをしばらく待っていた。一向に返事が無いらしく、ウルティニャックはまちくたびれ、ぼろぼろと涙をこぼすと唇を震わせ、ひざまずいてか細い声で言った。

「・・・許されませんか?俺は・・・私は罪人だから、愛する妻子に会うことも、許されませんか?」

ウルティニャックは袖で涙を拭った。

「覇王に・・・世の悪に屈しました。抵抗を止めました。肉体の疲れに任せて・・・つま先に口づけたのがその証拠です。私は・・・私の体はもう痛みません。そのことだけを言ってみれば、確かに俺は幸福だ。抗うことを止めて、妻子より先に逝ったのは・・・いや、そう、俺はやっぱり罪人だ・・・許されまい。」

ウルティニャックは肩を落とすと腿の上にきつく拳を握り、歯を食いしばって泣いた。何度も袖で顔を拭い、時々うめきに似た声をもらしていた。しばらくそうしてから何かを決め込んだように自分を奮い立たせ、肩をいかめしく上下させるとまた真っ直ぐに前方を見据え、ゆっくりと口にした。

「ならばせめて、私を捨てて下さい。遠くに、この世の果てに。ここに居たくない。見ていたくないのです。私の死が、彼女を悲しませるのを。」

ウルティニャックは今は、自分の臨終の直後にいるのだろうか?

「彼女に罪はない。罪人でないのならば、なぜ私のバルティニカにこんなにひどい仕打ちを・・・?彼女は私を愛してくれた。私は彼女の愛を裏切りました。生きることを諦めたわけでは無かった。けれど確かに、私は、死が怖くて覇王の暴力を許しました。私の、バルティニカが愛してくれた私の肉体に、暴力が刻みつけることを私は許した。私の過ちは、はずみで行われました。許されませんか?・・・神よ!私はただ、バルティニカに会いに行きたい!どうかこの不浄な魂を救ってください!ウルティニャックは哀れな男でした。死してなお、死ぬことも許されない!どうか哀れな霊魂に、永遠の安寧を・・・」

ウルティニャックの霊魂はどうやら今は、に留まっているらしい。

「彼女は私の愛です。私の裏切りは恋人の心を引き裂いたでしょう。そして私は一人の母親の息子でもありました。王と同じように。神と同じように。バルティニカと娘の清らかなまなざしが俺を憶えている。」

ウルティニャックは今一度涙を拭うと鼻をすすりあげ、真っ直ぐ前方を見据えて言った。

「私の産まれた国では殺戮はそれがどんな理由から行われた殺人であっても、王のみ心によるものである限り許されることなのです。王、すなわち神は悪をゆるされた。ゆるされたために、悪は悪ではなくなったのです。私の死は証明しました。暴力と殺戮は悪ではないことを。私は屈服することで、自分の神に背いた。王のつま先に口づけし、床を這い回って嘲笑を買い、最期は刃を体に受け止めました。私は自分の肉体に悪を受け入れた・・・この懺悔が意味することを、は知っておいでのはずだ。」

言い終えるとウルティニャックは一度つばを大きく飲み下し、もう一度顔をよく拭ってからこう言った。

「私を、国へ迎え入れてください。」

ウルティニャックの声が誰に聞こえると言うのだろう?果たされなかった願いにウルティニャックは床へ雪崩れ、放心するとひとしきり泣き、しばらくすると立ち上がってまた芝居じみた声色で何かを言っていた。そしてバレエシューズを取り出すと粋な素振りでそれを履き、踊り続ける・・・

外の遥か天空では、今宵の月が太陽とその座を入れ違おうと、いよいよ輝きをひそめている。朝を迎えようと空と地平はにわかに白みだした。陽光は、ウルティニャックの霊魂を閉じ込める一室に届くことはない。太陽はここより南や東や西の場所よりずっと短い時間ではあるものの、天の頂きにあるかぎりティルトハープ城を内包する氷山にも等しく陽光を降りそそぐ。降りそそぐが氷山を溶かすことは決して出来ない。いつかにあった、地上の果ての一国の栄華と滅亡を、一体誰が思い出せると言うのだろう?ウルティニャックはが最早語る口を持たない。しかしその霊魂は彷徨い続ける。おのれの生誕から愛と自分の死、死後とラヌークの滅亡、そして氷に閉ざされ内部を腐敗し続けるティルトハープ城を。








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道化師 花ケモノ @hanakemono

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