第二部 プロローグ

第28話 第二部 プロローグ

 油の染み付いたフライパンでパンケーキを焼いていると、アリカの大きな泣き声が聞こえてきた。


 慌ててコンロの火を消すと、朝井シャロは娘の部屋へ向かう。


 パステルカラーで揃えた娘の家具一式。水色のカラータンスをすべて引っぱり出して、中の洋服は絨毯の上に散乱している。


 ピンクのおもちゃ箱までポップコーンが弾けたように中のおもちゃやぬいぐるみを絨毯の上に吐き出していた。


 シャロは、あっ、と自分の失態に気付かされた。


「ママ、ムイちゃんはどこ?」


 しまったぁと顔を歪ませてシャロが指差したのは自室の作業部屋だった。


 ムイちゃんとはアリカの一番大切なお友達。イチゴを頭に生やしたトカゲのぬいぐるみだった。

 大切で大好き過ぎて、アリカの手でどこにでも連れ回されるムイちゃんは怪我が絶えない。


 アリカは小さな手足をパタパタと動かして作業部屋まで走る。


 娘の後姿を見送るシャロは作業部屋からボリュームの上がったアリカの泣き声が聞こえてくるのを覚悟して胃を痛めた。


 作業部屋の机の上では週末のうちに直しておくとアリカと約束したムイちゃんのぬいぐるみが首から綿を飛び出したまま裁縫針で串刺しにされている。


 仕事が忙しかったなど言い訳にならない。アリカの中では大切なお友達を二日間も針で串刺しにした悪い母親だと嘆いていることだろう。


 パンケーキにはアリカの大好きなタコさんウインナーも添えて出した。


 小さなフォークでタコさんウインナーを口に運ぶアリカは、作業に没頭するシャロの横でおいちいねぇと笑みを浮かべた。


 イチゴトカゲのぬいぐるみ、ムイちゃんを慣れた手つきで修復していくシャロは、大泣きのあとに太陽のような笑みで母を癒すアリカのことを最近になってようやく理解できて来た。


 アリカが好きなのはイチゴを頭に生やしたトカゲのぬいぐるみのムイちゃんと、保護施設で仲良くしている、お友達のライくんと、毎日夕方になると手伝いにやって来るレイナだ。


 見た目の年齢では一番年の近そうなアニマのことは今年で四歳になるアリカにとってはお姉さんの存在に思えるらしく、態度はよそよそしい。


 オムツを変えてミルクを飲ませていた時期は純粋に健やかな肉体の成長だけを見ていたシャロだったが、アリカが歩き出し、言葉を話すようになると失敗と挫折の連続だった。


 今朝も上手くいっているとは言えない。自分は朝食を食べる暇さえ惜しんでムイちゃんを直しているが、アリカにとってはその作業を見えないところで週末の間に終えてほしかったはずだ。


 それでも機嫌を直してくれたアリカの笑顔を見ていると、自分は大丈夫だと思える。


 自分だって成長していないわけではない。だが、そう思うと、レイナの戸惑いを隠せない笑った顔が思い出された。


「女の子は十五歳も過ぎれば別の生き物に思えるよ。メイクにネイルにアクセサリー。自分磨きに熱心で、男の子とは話さなくなる。かと思えば家族よりも親密に夜の時間を二人で楽しんだりね。成長しないわたしたちからすれば、その境界線は曖昧過ぎて実態がつかめず、けれどふいに訪れるんだよ。春の嵐みたいに」


 イリスレインは成長しない。肉体の年齢、見た目、寿命という意味ではレイナの意見は正しい。


 アリカは旧世代だ。今はシャロでもウインナーをタコさんにしてあげれば満面の笑みでご飯をぺろりと平らげることも、猫のように柔らかな髪をくしゃくしゃに撫でればくすぐったそうに頬を桜色に染めて喜ぶことも理解できている。


 白くてぷにぷにのほっぺが不機嫌に膨らむときは仕事が長引いてお迎えが遅くなったとき。

 ムイちゃんをこっそり洗濯してしまうとつやのある黒いまつ毛をしとどにぬらして大きな栗色の瞳いっぱいに涙をため込んで大泣きする。


 たくさんの時間をかけてシャロはアリカを理解してきた。たった一つの大切な命だということも今ではわかっている。


 アリカにお気に入りのシャツを着せながらリビングに飾ってある写真立てに目を向けた。


 まだ赤子だったアリカを抱っこしてシンシアは慈しみに満ちた笑みを向けていた。


 いつかシンシアはこの笑みをアリカに向けることが出来なくなるとわかっていたのだろうか。


 まるで写真の中のシンシアは未来を予感していたかのように、アリカとシンシアの間に幸福以外のすべてが失せたような、慈愛だけを感じさせる笑みを浮かべていた。


 そこには愛しかない。それを感じる度に写真立ては鏡となってシャロを映し出す。


 けれど、シャロが心で呟くのは自分からのメッセージではなく、シンシアへの返事だ。


 シャロはシンシアの笑顔に応える。大丈夫よ、春の嵐が来ても、私は戸惑ったりしないわ。


 アリカと成長していく。命ならば成長できる。アリカの背がシャロを追い抜いてしまっても、くしゃくしゃに髪を撫でてアリカにせっかくセットしたのにと怒られよう。


 シンシアの分も怒られて、何度も仲直りして、アリカが結婚するときは大泣きしながら酒を呑み、寂しさは観測者の手を煩わせて解消すればいい。


 水色のスカートをふんわりと翻すアリカは鞄の中に綿の詰まったムイちゃんを突っ込むとシャロの手を握った。


「ママ、今日のお迎えは?」

「今日は大丈夫。任務もないし、レイナと一緒に迎えに行くから」


 にぱぁ、と春の花が咲くようにアリカは笑った。


 大丈夫。もう一度、シンシアの笑みを見ながら心の中で呟いた。


 アリカにいつかシンシアの話を聞かれるときがあるかもしれない。


 そうなっても、自分は狼狽えたりしない。


 私はずっとアリカのママでいたい。アリカが失ったシンシアの代わりではなく、朝井シャロとしてアリカの母親でいたいのだ。


 だからシンシア、心配しないで。アリカのことは最後まで守って見せるから。


 それでも、私の心を見透かしたように幸せな笑みだけを向けるシンシアに、まださよならは言えなかった。 




☆☆☆

お待たせいたしました! 第二部開始です。

書きながらの不定期更新ですが、明日には一章の一話目を上げたいと思います。


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