変わらないもの

 ガラっと扉が開いて、クミが美術室の中を見まわす。

 部屋の中では、ケンがイーゼルに向かって静物画と苦闘していた。


「あれ、今日は一人なの?」

「うん、先輩達は、中間テストが近いから休むって・・・て言っても、この部はもともと四人しかいないけど。」


 ケンは、美術部に入った。もともと絵を描いたり、工作をするのが好きだったけど、どっちかというと、しつこい運動部の勧誘を逃れるため。

 クミは、「三ヶ月の命だから」と冗談を言って、部活をやっていない。代わりに、しょっちゅうこうして美術室を訪ねてくる。


「ケン、やっぱうまいね。」

「いやー、なかなかバランスよく描けなくて。」

 画用紙の鉛筆画をのぞき込み、クミは褒めてくれるが、ケンはいつも自分が描いたものに満足していない。


 クミは、椅子や机が片づけられた部屋の中を歩き回ったり、窓の側に立って外を眺めたりしていたが、やがて、椅子を持って、イーゼルに向き合うケンに近づいてくる。


「ねえ、私のこと、描いてくれる?」

「え! 僕、あまり人物のデッサンとかしてないし、多分ヘタッぴだよ。」

「いーからいーから。多少うまく描けなくても大目に見てあげる。」

 クミは、花瓶や果物が置かれたテーブルの隣りに椅子を置き、ちょこんと座った。


「どんなポーズがいいかしら?」

 もう描かれること前提で話が進んでいる。

「・・・じゃあ、好きな格好でいいよ。」


 クミは結局、普通に膝の上で手を合わせた。首をちょっとだけ傾ける。

 細い眉と瞳の間が狭い。クミの表情の一番の特長だ。そこは上手に表現したい。


「ブスに描いたら、怒るからね。」

「あれ! さっきっと言ってること違う・・・」

「アハハ!」


 その笑ってる顔、可愛い・・・でも、自分の画力だと、うまく描けない。

 カーテンを揺らし、梅雨時の生暖かい風が美術室に入り込んで来る。雨粒も混ざっている。


「降ってきちゃったね・・・」

 クミは、窓の外に目を遣り、言葉を続ける。

「路面電車、無くなっちゃってたんだね。」


「うん、僕んちの前も通っていたから、電車の音が聞こえなくて、少しもの足りない。」

「もの足りない、か・・・そういえば知ってる? お父さんが言ってたけど、私たちが通っていた小学校、合併されて、廃校になるんだって。」

「えっ! ほんと?」

 ケンは古びた鉄筋の校舎、そして、体育館の裏を思い出した。


「どんどん変わっちゃうね。」

 それからクミはしばらく黙っていた。


「そして・・・忘れる。」


 鉛筆画が仕上がるころ、独り言のように言った。

「転校してからね、ケンのこと、ずっと思ってた・・・ううん、思ってたと思ってた。」

「?」

「もちろん、ずっとケンのことずっと覚えていたかったけど、忘れちゃってるときもあるなあって。」


 ケンが鉛筆を置いたことに気づき、クミはモデルをやめ、席を立つ。

「でも、心の奥、根っこのところでは忘れてない・・・そう思えるもの、ずっと変わらないものが欲しいの。」


 そうか。

 それだったんだ。たった三ヶ月ちょっとの期限付きなのに、わざわざここに来てクミが探しているものは。


「どれどれ。」

 クミはケンの後ろに回り、肩に手をかけて、絵をのぞき込む。


「うん、よく描けてる・・・でも、ちょっと美化しすぎじゃない?」

「そんなことないよ。」

 ケンは、なるべくクミの顔、表情を見たまま、そのままに描いた。描きながら目に焼き付け、記憶に刷り込もうと努力した。


 忘れちゃいけない。


「よかったら、この絵、クミにあげるよ。」

「ううん、いいよ。ケンが持ってて。」


 そう言うと、ケンの手から鉛筆を取り上げた。


「あ!」

 クミは、左上の空いているスペースに花丸を描き加え、

「たいへんよくできました!」

 と言って、ニッと笑った。


 帰り。

 雨が本降りになってきたけど、幸か不幸か、傘は一本だけ。

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