第1話 月白五尾
繰り出された拳を額で受け止めた。
石頭の頭蓋骨で受け止められた相手の指が、悲鳴じみた音を立てた。「ぐぁっ」と短い呻き声上がるのも構わず、
たまらず後ろに下がった男に、燈真は蹴撃。ほぼ一七〇度の角度まで振り上げたハイキックが、男の頬をぶち抜いた。
後ろにひっくり返ったそいつが、指定日を無視して積まれた指定色の青いゴミ袋に頭から突っ込む。
時刻は午後十一時半。街灯が住宅地はずれの寂れた公園脇の路地を照らしていた。
「な、なんだよこのガキ……」
「一人で四人もぶちのめしやがったぞ……」
「いってぇよぉ……」
相手は地元の半グレ集団。歳は、多分二十過ぎかそこら。一方で燈真は十六歳で、停学中の高校生だ。
五対一、という圧倒的に不利な状況下で、燈真は鬼の如き苛烈さで暴れ回り、ほぼ一方的に相手を蹂躙していた。喧嘩を売られた理由は知らない。どうせ「体がでかい、目つきが悪い」とかそんなもんだろう。
高校一年にして既に身長一八〇センチである燈真は、こういうことが多い。おまけに、目つきも良く言えば精悍、悪く言えばキツいので尚更だ。
「まだやるなら、骨を折る」
「……っ!」
「言っとくが、俺は冗談を言えるほど心に余裕がない」
高校生とは思えないドスの効いた低い声で、燈真は脅した。無論、嘘ではない。まだ突っかかってくるなら、見せしめに肩をぶつけてきやがった金髪鼻ピアス男の手足を最低二本はへし折るつもりだった。
相手はすぐに視線を逸らし、これ以上は損をするだけだと判断したのか、仲間同士肩を貸して逃げ出していった。
燈真はブンブン頭を振って、まとわりついた埃やらを払った。
こちらの一方的とはいえ、殴られなかったわけではない。頬を押さえ、口の中を舐める。歯は折れていないが、口の中を切っていた。金臭い味がじんわりと広がった。
痛みも、慣れてしまえばどうということはない。殴られることにも蹴られることにも慣れている。
燈真はポケットの小銭を取り出し、近くの自販機に突っ込んだ。ペットボトルのスポーツ飲料を買って、吐き出されたそれを取り出して頬を冷やす。
熱を帯びていた部位がひんやりとした冷気に浸され、少し安らいだ。
「……何してんだよ、俺は……」
停学をくらって、深夜徘徊して喧嘩三昧……。
あまりに情けない。こんなんじゃ、ろくなことにならない。
燈真はゴン、と自分の頭を殴った。
くそ、俺が一番ムカついてんのは俺自身なんだ。一番殴り飛ばしたいクソ野郎は、俺自身なんだ。
ちくしょう。
そう自責しながら、燈真はボトルのキャップを開けて五百ミリを一気に飲み干した。
渇きが癒えない。違う、空腹だ。
今朝から何も食っていない。家にあるのは義母と義弟の食料だけだ。自分が食えるものは、その食いくさしである。捨てる寸前にかき集めて、食うしかない。勝手に食材を使うと、ヒステリックに怒鳴られる。
「腹、減ったな……」
ペットボトルの底を齧る。こんなものを食えば腹を壊すことなど自明。だが、何かを口に入れて動かしていないと、自分の肉を齧りそうになる。
空腹、腹減り——ではない。ひもじい。
昨日もろくに食っていない。その前も。普通の家庭に生まれ、親父は医者。何不自由ない家なのに、まともに飯も食えない。
腹が減ると寝つきが悪くなる。腹が減って睡眠不足だと、余計にむしゃくしゃする。
ガンッ、と自販機脇のゴミ箱を蹴った。
「くそったれ」
燈真はなけなしのバイト代でコンビニに行くことを決意した。中学の頃、知り合いの土建屋で無理言ってバイトをして、高校に入ってからも続けていたが、停学を食らってからは休んでいる。
バイク免許を取るのにだいぶ使い込んでしまい、残りは二万と少し。無駄遣いはできないが、仕方ない。適当に割引シールが貼ってあるワゴンセール品を買って、腹を満たそう。
近道がある。裏路地を通るルートだ。燈真は公園のそばの薄暗い路地裏を通った。
ゴミが隅にわだかまり、野良猫がラックの上で眠っている——と、その黒い野良猫がハッと起き上がった。
「……?」
金色の目が燈真を、その向こうの虚空を睨む。
猫特有の無を見るあれだろうか——その、次の瞬間。猫が「フギャーッ」と鳴き、毛を逆立て走り去っていった。
「なんだよ……俺がそんなに——」
燈真が唇を尖らせながら踵を返して歩き出そうとした次の瞬間、何か、重苦しい空気がのしかかってきた。
「っ、ぁ——」
胃の中にどす黒く、悶えるほどに熱い鉛を流し込まれたような感覚。
吐き気、悪寒——次の瞬間、燈真の脇腹を熱が襲った。
それは、鋭い爪だった。爪が、燈真の脇腹を抉り、血を撒き散らしていた。
「ぁ——が……っ」
皮と、肉をやられた。何故か冷静にそう判断。内臓は無事だ。確信する。——今は勝てない。
燈真は血が奪われて却って冷静になった目で、敵を睨む。
そいつは人間の腕を継ぎ接ぎして八本足に見立てた、人腕の奇怪な蜘蛛だった。
縫い合わせたような人間の眼球が八つ、歪な動きで燈真を睨む。綺麗に矯正されたかのような白い歯がにぃ、と吊り上がり、ひどく冒涜的なその化け物は、関節が三つもある腕で燈真を薙ぎ払い、吹き飛ばした。
「がはっ」
ラックに突っ込み、鉄パイプの接続を外してバラバラに粉砕して転がる。
頭がガンガン痛む——路地の壁で打ったかもしれない。燈真は咄嗟に転がっている鉄パイプを掴んだ。
それを構え、ふらつく足に喝を入れて立ち上がった。威嚇するようにパイプで壁を打ち付けると、摩擦で火花が散る。
「クソ野郎が。不意打ちでぶん殴りやがって」
人蜘蛛が「ギィー、ギィーィ」と奇妙に軋んだ声で笑う。
なんなんだあれは——まさか、
人蜘蛛が突っ込んできた。
燈真は右に跳んで突進を回避し、傍らの朽ちた木製の本棚を倒す。
とにかく人を呼ばなければ——あれが魍魎なら、警察なんかじゃ相手にならない。消防でももちろんダメだ。自衛隊でも厳しい。退魔局の術師——退魔師でもなければ、まともに相手はできない。
背後で本棚を砕く破滅的な破砕音がした。
燈真は追いつかれる寸前、振り向きざまパイプを振るう。月明かりの反射なのか、微かに青く輝くパイプが、蜘蛛の前歯をへし折った。
短い悲鳴をあげた人蜘蛛に、燈真は追撃の打撃を叩き込んだ。が、パイプの方が折れてしまう。
「ええいくそ!」
燈真は折れたパイプを投げ捨て、路地から出た。
人通りのない夜道である。助けを呼ぼうにも誰もいない——と、燈真はそこでようやく文明の利器に思い至った。
慌ててポケットを弄る——が、スマホがない。最悪だ、吹っ飛んだはずみに落としたのだ!
「とことんついてねえ!」
悪態をつきながら走る。他人を巻き込むのは好きではないが、だからと言って死にたくない。国道沿いの車通りがあるところに出て、誰かに退魔師を呼んでもらう。
燈真は必死に逃げ、しかし背後から迫るプレッシャーに、次の瞬間押し潰された。
精神的に——いや、物理的に。
蜘蛛が燈真の背骨を圧壊せんばかりに押し付け、くるぶし、太もも、そして頭を押さえつけてくる。
「はなっ——せぇええええっ!」
燈真が地獄の亡者のような呻き声をあげる。あるいは、怒り狂った鬼のような怒号。
蜘蛛が勝ちを確信した。大口を開き、燈真の頭を噛み砕こうとした。腐った卵のような臭いがする唾液が垂れ落ち、ふと、
人蜘蛛が、顔を前方に持ち上げた。八つの目が、怪訝そうにひそめられる。
燈真もそちらに目をやった。
「いたいた」
歩いてくる、人影。
月を背負い、五つの尾を揺らす影。長い後ろ髪を房状にまとめて垂らし、バッチリ決めた前髪を左に流している。
初夏にぴったりな半袖の黒いカットソー。だいぶ攻めた丈で、ヘソをむき出しにしている。贅肉のない綺麗な腹。下はくすんだ紺色のデニムパンツ。底の厚いショートブーツ。
特徴的なのは、背中に背負った鞘。
紫紺の目が、その鋭すぎる眼光が蜘蛛を射抜いた。
「祓葬開始」
冷徹な声。狐耳を立て、妖狐の少女は左肩側から三尺はあろう太刀を抜く。
人蜘蛛が燈真を押し付け、駆け出した。
甲高い怒号をあげながら迫る蜘蛛を、月白の狐娘は冷静に対処。伸ばされた腕を容赦なく下段から掬い上げる逆風斬撃で切り飛ばし、顔面にドロップキック。
バガンッ、と空気を叩き割るような音と同時に、人蜘蛛が地面と水平に三十メートル、ノーバウンドで吹っ飛ぶ。燈真の頭上スレスレを蜘蛛が突っ切っていき、ステンレスの街灯をへし折って停止する。
「マジかよ……」
少女はすかさず追撃。燈真を通り過ぎ、跳躍。
蜘蛛がすぐに起き上がり、後ろに下がった。太刀の切先が、それでも顔貌を——目をふたつ、切りつぶす。
悲鳴が上がり、少女は「うるさいなあ」とぼやきながら出鱈目に振るわれる前腕を両断。左の腕を半身になって避けつつ素早く袈裟に切り、落とす。
人蜘蛛は失った腕を見て、勝てる相手ではないと悟ったのか逃げようとした。
少女は嗜虐的に微笑み、蜘蛛の腹に飛び乗った。
「逃げんな」
ぷっくり膨らんだ腹部に切先を捩じ込んだ。雄叫びのような悲鳴が上がり、少女はそのまま頭部まで駆け抜け刃を走らせる。
顔面に降り立ち、少女は八相に構えた太刀を、気を衒わぬ袈裟斬りで振り下ろした。
人蜘蛛への、最後の一太刀。
ドス黒い墨汁めいた血をこぼしながら人蜘蛛は天に足を向け、死亡。
少女が素早く札を投げつけてその肉体——瘴気不浄を、
魍魎が赤い粒子となって大気に拡散し、消えていく。
「すげえ……」
少女は太刀を一つ血振りし、鞘に納めた。
五本の尻尾をふわふわ揺らしながら歩いてきて、倒れ伏す燈真を見下ろし、一言。
「情けないわね、あんた。
と、そう言った。
「な——何!? お前、なんで俺のこと……」
「漆宮燈真、十六歳、男。一ヶ月前通っていた東桜高校で起きた婦女暴行事件の主犯に仕立て上げられ逮捕される。証拠不十分で釈放。しかし高校からは三ヶ月の停学を言い渡される」
「……お前、なんなんだよ」
「迎えにきた。あんたの母親の遺言よ」
今度こそ。
燈真は怒りに任せて立ち上がり、少女の胸ぐらを掴んだ。
「ふざけるな。母さんは八年前に死んだ。今更遺言なんて——」
「来るのか、来ないのか。はっきりなさい。ウジウジした男を見てると、キンタマ蹴り潰したくなってくんのよ」
「せめて理由を聞かせろ」
少女ははぁ、とため息をついた。
そして、瞬時に燈真の手首を掴み、捻りあげる。油断した燈真はそれでも反撃に左腕を少女の喉へ伸ばすが、それよりも先に膝蹴りが脇腹の傷を、二度打ちした。
「あッ——ぐ……」
「理由は簡単。雑魚すぎるから最強に育てる。で、どうするの。濡れ衣をかぶって惨めに後ろ指をさされ続ける?」
「ふざけんなっ——俺はやってねえ!」
「それを証明する近道が、私と来ることよ。負け犬が嫌なら、戦いなさい」
少女はそう言って、「あ、名乗ってなかった」と言って、ようやく名を名乗った。
「
「……よろしくできるかよ、クソアマ」
「ふん。……怪我、診てあげる」
燈真は、遠くから退魔局特有のサイレンが聞こえてくるのを察知した。
「なんて一日だよ……」
なんとなく——燈真は、これからの人生が変わっていく予感を感じていた。
驚くほどアグレッシブに、ひどくアバンギャルドに。あるいは、ナンセンスなほどアクティブに。
椿姫は悪びれもせず燈真のシャツを脱がせ、その傷をみた。
「頑丈な体ね。普通なら内臓ぶちまけて死んでるわよ」
「それだけが自慢だからな」
椿姫は呆れたように笑い、治癒を促進する祝詞が書かれた包帯を巻きつけた。
やがて退魔局の車がそばに停まり、燈真たちは近隣の詰所に連行されることとなるのだった——。
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