chapter2

 早速翌日から参謀第二部・翻訳通訳部での勤務が始まった。

 僕が配属された翻訳課は戦域諜報、技術諜報、民間諜報、一般軍事諜報その他のセクション別チーム編成。参謀部は基本的にオープンオフィス、フリーアドレスだから、所属セクションはサイバー上での管理がメインとなる。

 直属の上司にあたるのは翻訳課長のイ少佐。彼は存在感のない影のような人だった。終止無言で無表情、感情を表にすることもない。

 彼の仕事は僕達スタッフの人事管理や業務連絡程度のもので、秘書のようにいつも黙々とキム部長につき従っていた。僕達スタッフは直接部長の指揮命令のもとに動いた。どうやら実質的な直属の上司は部長ということらしい。

 民間諜報チームの将校としての僕の任務はというと、検閲部隊や諜報部隊がかき集めた膨大な日本占領に関する情報・資料の分類及びその高麗語訳と英訳、そしてそれらについて報告書の作成及びそれらのデータベース化。たまに直接口頭での報告と意見具申を上層部に求められることもある。また通訳課の人員が足りない時はそのヘルプもする。たったこれだけだが意外にも激務なのだ。戦闘があまりにも短期に収束したため体制が整わず、スケジュールだってタイトだからバタバタしているのもある。それに加えて慢性的な人員不足である。そもそも行政運営には専門性や経験が必要なものが多いから、軍は民間人要員(WDC/War department civilian employees) を雇用することでそれを補った。スナやパク君たちがそれにあたる。


 朝7時になると僕は将校宿舎で起床し、歯磨きをして顔を洗う。宿舎は大阪市内に点在するホテルを占領軍が接収したもので、僕の宿舎はJR大阪駅前のホテル・ヒルトンだった。

 それから備え付けの冷蔵庫を開けてミルクを飲む。コンビニのパンやサンドイッチの買い置きがあればそれを食べ、なければ何も食べない。ホテルのレストランに予約さえすれば、バターがたっぷりのった厚切りトースト、カリッカリのベーコンにふわふわ卵のスクランブル、というモーニング・セットにありつけるが、それを食べていると遅刻だ。ちなみに僕は日本のコンビニの卵焼きサンドが大好きだ。甘くてふわふわしていて、日本のコンビニはすごいと思った。

 パジャマを軍服に着替えた後は髪を整え、身支度が終わると一階のエントランスまで下りる。そして時間きっかり宿舎に迎えに来る自動運転のバスに乗り込んで、車窓から大阪の街角を眺めつつ司令部まで出勤する。

 朝デスクに座るとまず、アシスタントのパク君と朝の挨拶を交わし、連絡事項の有無やスケジュール変更などについての確認をする。それからメールのチェックをし、一日のスケジュールや書類の提出期限を確認する。それが終わると山積みにされた資料を整理してひたすら読み、パソコン上で報告書を作成する。わからないことがあれば関係機関に電話をし、あるいは訪ね、現場を調べる。自分で調べることもあればアシスタントのパク君に依頼することもある。パク君には僕の代理で強制査察をする権限を、案件ごと個別にであれば与えることができる。

 書類の入力が終わると専用アプリで所定の書式に自動編集し、総司令部のクラウド・サーバーにデータを送信してキム部長の秘書に報告する。資料原本はファイルして番号を付け、必ず倉庫に保管しなければならない。後日キム部長から呼び出し・あるいはメールで報告書の疑問点について質問を受け、必要があれば書類の修正と追加調査を命じられる。これは大抵、まとめてドッサリ送り返されてくる。他の仕事がどれほど山積みでもそこで中断。何ごともキム部長のスケジュール次第なのだ。

 昼になると同僚と地下大食堂でランチをとり、夕方まで仕事をして適当に帰る。定時というものはないかわりに残業代もつかない。

アフター・ファイブ(?)は同僚と飲みに行くこともあれば、宿舎で一人趣味の世界に没頭することもある……概ね毎日がその繰り返しだ。来る日も来る日も、まるで判で押したかのように。何か変化が欲しい。僕はそのうち大型バイクでも買って、カスタマイズでもしようかと考えたりした。


 いつもの同僚とのランチタイム。そこにはなぜか、いつもスナがいる。

「そろそろお昼よっ!」

 彼女は時間になると決まって、参謀第二部の我らオフィスまでランチのお誘いにやって来る。僕のアシスタントでチャーミングなゲイのパク君……真相はともかく、僕は勝手に彼をゲイと決めつけることにしたのだが、カン少尉、カン少尉のアシスタントのキム君……そして僕。以上の五人はなぜか意気投合し、何かと群れたがるようになった。そして知らず知らず、誰言うともなく、地下大食堂でランチを一緒にとるのがルーティンになった。

 汁気をためる凹みがいくつかあるステンレスのトレーを持って何百という軍人たちと行列に並び、ビュッフェ方式で思い思いに好きなオカズを取る。キムチにナムルにスクランブルエッグ、サムギョプサル。カレーだろうがスパゲティだろうが何でもござれ。フルーツにアイスにシャーベット、デザートだって充実のラインナップだ。しかし選択したメニューは個別にカメラでチェックされ、摂取カロリーや栄養成分がデータ化されて記録されており、あまり調子に乗るとAIウンニョからの栄養指導が入る仕組みになっている。これは軍の人事評価の対象項目だから、彼女の指導を無視することはできない。

 僕達がテーブルに座ると、他の顔見知りたちが仲間に入れてもらおうと群がってくる。僕達は気前よく席を譲ったり空けてやったりして一緒に食事をとる。同僚たちとワイワイ言いながら食事するのは楽しいものだ。皆、音楽やファッション、スポーツ、おいしいレストランの話に余念がない。


「ねえヨハン。私、髪切ったんだ。思い切ってショートにしてみたの。どう、似合う?」 

 スナのさりげない自己アピールや世話焼きなところは、イヤというわけではないが、本音のところで少々煩わしい。何より周囲の目が気になる。大切な同僚だからトラブルになるような適当なツキアイは避けたいが、だからといって結婚を前提に、となるとそれも厄介。結局、付かず離れず微妙な距離をとることになり、それがマスマス彼女の干渉を招くという悪循環に陥るのだ。女は猫に似て、逃げるものを追う習性があるようだ。かてて加えて、女というものは男女関係を女同士のウエットな人間関係と混同するらしく、何かと世話を焼きたがる。それは母性の涵養としてなら意味もあろうが、未婚男女のふれあい方としては的外れだというのに。焼けば焼くほど自分が母親的な存在に近づく、というのがわからないようだ。

 スナは仕事が終わるとよく食事や飲みに出かけたがった。あまりお誘いを断ると機嫌を損ねるので、何回に一回は彼女の誘いを受けなければならない。もっとも、ただお誘いを受けてさえいればよい、と言うわけにもいかない。何回に一回は僕からも誘わないと、やはり彼女の機嫌を損ねてしまう。そこで僕は当たり障りのない大食堂のランチに自分から誘ったり、三時のティー・タイムにお誘いすることで回数を稼いだ。

 どうして僕はここまで神経をすり減らさねばならないのか? 

 スナはいい子だし、美しいし、嫌いではない。むしろ結婚相手として申し分ないし、セックスだって望むところだ。ただ、せっかくの華の独身のうちから束縛されるのが面倒で煩わしいのである。彼女が心の支えを欲しがる気持ちはよくわかる。だが僕は今から人間関係を狭めるのは御免だ。自由でいたい。だからいきおいスナみたいな適齢期の女に手を出すなんてとんでもない、という話になる。僕らは出会うのが10年早すぎた、としか言いようがない。

 男と女の人生のタイムテーブルは違う。女は妊娠適齢期の24歳前後から遅くとも35歳の間に結婚を間に合わせるよう「遡って」人生設計をしなければならない。ところが男の場合、その生殖期間は女の倍はあろうか。おまけに男が女子供を養う経済力をつけるには、社会が複雑化すればするほど年齢と経験が必要になる。男の人生設計は収入が一定段階に達した後、そこから「下って」の話になる。

 そこに男女のミスマッチの原因が横たわっている。「刹那的で享楽的な男」と「抑制的で計算高い女」。例え条件面で折り合ったところで、ヒトのメスとて生命力と生殖能力の減衰した高齢のオスには魅力も愛情も感じないだろう。これは「社会的存在である人間」と「動物としてのヒト」との間に生じる、齟齬ないし矛盾である。そしてこれこそが「制度としての結婚」と「男女の恋愛」を分離させる根本原因なのだ。以降、当然のように諸種のトラブルが、ヒトの生態を無視した独占排他的・性的専属契約に付随して頻発することになる。



「日本のネットがすごいことになってるらしいぜ。Hard Crank 社の<OPEN SESAMI>ってサイト、一度のぞいてみろよ」

 カン少尉がそう言って笑った。最上階ラウンジにある、将校クラブでのことだ。

 上司からの指示待ちや仕事の切れ目などのちょっとした時間に、僕たち将校はよくここのカフェでティータイムをとる。コーヒーや紅茶、ソーダにレモネードにアイスフロート……夜にはアルコール類が提供されるが、街の喫茶店にあるようなものも大抵はここに用意されていて、オフィスビルにいる間は外出しなくてもすむようになっている。しかも無料だ。降伏文書に従い日本政府が最終的にその費用を負担するらしいが、そんなことは知ったこっちゃない。

 ここではいつも代用コーヒーを飲む。別にウマくもないがマズくもなく、タダだから飲んでいるだけだ。天然のコーヒーは温暖化の影響で産地が壊滅し収穫量が激減した。価格は壊滅前の数十倍に跳ね上がり、ばかばかしくて誰も飲まないから、あらゆる商店の店頭からコーヒーは姿を消した。一杯数十ドル以上するような、酒より高いお茶を飲む……そんな酔狂な奴はそうそういないということだろう。

 カン少尉は学生時代サッカーの選手で、ポジションはゴールキーパーだったそうだ。道理で仕切りがうまい。だから軍隊でも彼が仕切って僕が従うという、サッカー・チームのような関係性が自然にできあがった。僕達はサッカーを通じて話が合い、お互いを認め合う仲になれたと言っていい。それに彼にはどことなく都会の高麗人っぽくない野暮ったいところがあって、その田舎臭さが妙にウケたりもした。

 気心だって通じた。僕の両親は在日韓国人の家系で、Japanizeされた家風で育った僕も、普通の高麗人の中では浮いたキャラクターだった。どう説明すれいいのかよくわからないが、アットホームで家族的な高麗人の交わりを押し付けがましく、煩わしいと感じるところがある。周囲の高麗人よりは人間関係の距離が遠めなのだ。のみならず、本音を前面に出して直球勝負な周囲の高麗人と異なり、自分の本音を建前で隠す傾向があるかもしれない。

 二人はいわゆる「変わり者」同士だった。

「日本女がスポンサー探しでウヨウヨしてやがんだ。占領軍の将校は引く手数多らしいぜ。けどな、いくらカワイイからって素人女には気をつけろよ。欧米産にアフリカ産、東南アジア産、占領地の日本には世界中の性病が集結してるっていうんだから。淋病や梅毒なんて当たり前。もっとヤバいのだってウヨウヨしてるらしいからよ」

 僕はカン少尉をからかってやった。

「サンヒョ、貴様もう日本女とやったのか?」

 彼はニヤニヤしながら答えをはぐらかした。

「まあ言えることは、俺様はその辺の素人には手はださねえ、ってことだ。だってお前、日本の男が同胞の素人女には手をださねえってんだから何をか言わんやだ。女が欲しけりゃ、ちゃんと銭払ってRAA(特殊慰安施設協会)の世話になるんだぜ。あそこだって完璧に安全だという保証はないが、何てったって実質的には日本政府直営、安くて安心安全は国のお墨付きだ。その辺の売春宿よりはマシだろうよ」

 僕は無神論者ながら、クリスチャンの家系で育った影響で売春否定論者だ。僭越ながらカン少尉には異を唱えた。

「聞いた話では、RAAで遊んだ兵たちの多くが日本人ホステスから変な病気をもらってるらしい。日本政府の陰謀だという噂でもちきりだ。病院でかなりヤバい部類のクスリをケツに注射されてると聞くが……」

「それでも命に別状なけりゃよしとするか? どいつもこいつも病気を持っていそうで、うっかりそこらを触れねえな、ガハハハ!」

 その日勤務を終えた僕は宿舎に帰り、レストランで一人夕食をとった。そしてシャワーの後風呂あがりのビールを飲みながら、早速アカウントを作って件のSNSのサイトを覗いてみた。

 ところが、である……どっからどうみても、それは普通の真面目な交流サイトだった。

「どうやらかつがれたらしいな……」

 僕はそのまま動画配信サイトへ移動して無料のハリウッド映画を視聴した。それは子供の頃何度も見た映画、筋書きはお馴染みだ。

「ああ、つまらない……」

 日本に来たばかりで友達もいないし、かと言って一人でダンスに出かけたり酒を飲みに行くような趣味は僕にはない。ましてや慰安所など論外。どっちかというと読書や映画鑑賞が好きなタイプだ。

 僕は手持ち無沙汰のあまり映画をよそ目に、入会したばかりのサイトのブログに日記を書いた。そしてそれからというもの、ブログを書くことが僕の日課になった。リハビリも兼ね、あえてブランクのあった日本語で。書いてみたところで誰が読むわけでもなかったが、モバイルフォンのカメラで日本の風景を撮影し、ブログにアップしてはポエムを寄せ書きしてみたり、日常の風景を切り取った面白動画をアップするようにもなった。

 ある日、プロィールを書いて自分の写真を載せると、そこからうるさいほどコメントがつくようになった。ほぼ全員が女性、しかもその大半が30歳以降で既婚だった。どうやらこのサイトではプロフィールと写真付きのIDしかまともに相手にされないらしい。


 日記を始めて間もないクリスマス間近のある日。華やいだ街角にそぞろ人恋しくなる頃。ブログにコメントを寄せた一人の女性IDに目が止まった。ハンドルネームはcrescent814。プロフィール欄をクリックすると、そこには漆黒のワンピースを身にまとった美しい女の写真があった。    

 ロングの茶髪はゆるふわパーマ

 唇には官能的な真っ赤なルージュ……

 そもそもプロフの写真など盛りに盛ったものばかりだからアテにもならないが、それでも綺麗にこしたことはない。

 早速テキスト・メッセージを送ると、深夜にもかかわらずスグに返事がきて驚いた。

 こんな時間にネットですか?

―そう……たまたまね。あれこれ片付けて、やっと自分の時間ってとこかな?

 いつもじゃないんですね。眠くないの?

―うん、なんだか眠れなくて……

 じゃ、お相手しましょうか。ヴォイス・チャットでもする?

―いいわね。お願いしようかしら

 フォン……

 チャット機能を立ち上げたことを知らせるエフェクト音がした。

「ところであなた、刈り上げに七三分けが似合うなんてステキ。まるで韓流スターね。そういう男子はどんな女子だって好きよ……韓国人なのね」 

 パソのスピーカーからは艶っぽい女の声がした。大人の女性特有のまろやかさで耳に心地よく、うっとりするような響きだ。

「そう、高麗人……どっちみち英語ではコリアンだけど。実は何分の一かは日本人の血が流れているらしいのさ」

「そうなんだ。遡れば日本人も結構な数がそうだってね。まあそもそも、どっからどこまでが日本人なのか……古代にやって来た渡来人の血がいったいどれほどの日本人に受け継がれ、半島に渡った日本人の血がどれほど現地で受け継がれているのか……それを考えればそんな話、意味無いかもしれないわね。日本人が自分の先祖をさかのぼれば、誰もがどこかで皇族につながっていると言うぐらいだし……日本臣民は天皇陛下の赤子、ってのもまんざら嘘じゃないのかも」

「うん。そもそも単一起源説によれば、人類自体一人のミトコンドリア・イブから派生していったことになる。混血とグローバル化がより進んだ現代に、あやふやな血統とか民族とか持ち出してみたところで際限のないどうどう巡りに陥るだけさ。そもそも境界がアイマイだからね。結局、国境とか法律とかいう人為的な枠で無理やりぶった切るしかない。そうなると日本人とか高麗人とかいう言葉自体、抽象的で中身のない枠、線引きになってしまう。そこに無理やり意味を持たせようとしたら、内容次第じゃ果てしない差別と排除、エスニック・クレンジングにつながりかねない……かつてのナチのように。それも同じ国民同士でね。お前は半分ブラック・アメリカン、そういうお前は25%チャイニーズ。俺は0.005%コリアン……」

「そういえば、私たちホモ・サピエンスだって純粋じゃないという研究があるそうよ。ネアンデルタール人やデニソワ人との交配で、そのDNAもいくらか受け継いでいるらしいの」

「へえ。もっと言うと細胞内のミトコンドリア自体、太古に取り込まれた異種生命体だというからね。もう言い出したらきりがない」

「フフフ……ところで、あなた軍人なのね。進駐軍?」

「ああそうだよ。三ヶ月前着任したばかりだ」

「その顔で将校さんならモテモテでしょう? 日本の女はどうだった? もう試したの?」

「僕は遊びや金で女を抱くタイプじゃない。カタブツなんだ。それに火遊びで命を危険にさらすほどバカでもない」

「あらまあ……何て素敵。カッコいい」


 それからというもの、サイトに深夜ログインすると彼女からの呼び出しがかかるようになった。どうやら〈BUDDY〉という機能でサイト上の親友として彼女とつながったらしい。そうなると自分で設定変更しない限り、彼女に僕のオンライン状態が通知される仕組みになっている。

 またBUDDYに登録されるとビデオ・チャット機能も自動的に接続承認となり、利用可能になる。そのうち二人はビデオ・チャットをするようになった。テキストチャットはタイピングがダルいし、音声文字変換も訂正が煩わしい。ブツブツ独り言を言ってるみたいなのもイヤだ。

 そのうち僕は毎日のように深夜のチャットをするようになった。ときには仕事帰りにお酒やソフトドリンク、サンドイッチやハンバーガーをコンビニで買ってそなえたりして。

 僕達は毎晩のように食べ物の好みはどうだとか、酒の美味しい飲み方はどうだとか、おいしいツマミの作り方だとか、どうでもいい話を延々と続けた。とりたててワクワクするようなこともなかったけれど、空いた時間に気兼ねなく話せることが何より楽しかった。

 ただ、時間も時間だし密室とも言えるサイバー空間だし、やがて二人の深夜のひそひそ話は悪乗りしていった。彼女は気っ風のいい大人の女で、気が乗ればオッパイを見せてもくれたし、頼めばアソコだって見せてくれた。時にはオナニー・シーンさえ披露するのをためらわなかった。

 最初こそおどろいたものの、だからと言ってそれが下品だったりいやらしいということは全くなく、むしろサバけた大人の装いで、オシャレに僕を笑わせてくれた。いい年した大人のくせにやることがあまりにも馬鹿馬鹿しくて、そのギャップが笑えたのだ。おかげで僕が二人きりのチャットに飽きるということもなかった。彼女がどういうつもりだったのか、それはわからない。それで僕を引き止めたかったのかも知れないし、誘惑しているつもりだったのかも知れない。それとも見られていること自体が快感だったのか、それは彼女のみぞ知る、である。


 WEBカメラごしに見るcrescent814はプロフ写真通りの美しい女だった。ヘアスタイルも服装もシンプルでフェミニンな装いだし、趣味もいい。僕はファッションブランドには興味がないが、見るからに品質のよさそうなブランドものだとわかる。

 華奢な肩や首もと、鎖骨のくぼみ、うなじのライン、白い二の腕と細く長い指……

 彼女が特別というわけではないが、そのすべてにおいて男性の関心を釘付けにする、女としての典型的魅力を備えていた。それにまるで計算づくで演じているが如く、物腰や仕草の一つ一つまでもがいちいち女らしくて魅惑的だった。自分の容姿や声がどのような劣情を男に引き起こすのか、というようなことは女性である彼女にわかろうはずもない。自分の一挙手一投足に男が魅了されていて反応している、ということから想像するしかないだろう。とにかく女性が生まれ持つ容姿は男にとってたまらない造形だ。男にとって女はその存在自体が魅力的。それはその人格的な部分を捨象したとしても、という意味で。全く異質の存在ですべてがミステリアスであり、無骨な男と比べて見た目からかわいらしく、居心地よく、か弱くて、どこか所在なさげで覚束なく、手を差し伸べて守りたくなる。それは遺伝子レベルでの理屈抜きの刷り込みであり、思考レベルにおいても男の勝手な思い込みに過ぎないのだが。


 彼女のブログをのぞいたりもした。

 どうやらそれは男を誘うための、名刺代わりの〈出会い系プロフィール〉。豊かな胸元や尻、太ももやふくらはぎの露出度がやたらに高い、きわどいショット。セクシーなメイクや恍惚とした表情のアップ……見ていてこっちが気恥ずかしくなるほどのセルフィーが満載だった。画像は確かに本人に違いないのだが盛りに盛って、まるでセクシーアイドルのブロマイドだ。実際に出会った人は戸惑うだろうと思えるほど。本人を知る僕にとってはおかしくてたまらなかったが、その効果たるやテキメンなようで、鼻の下を伸ばした情けない野郎どもがゾロゾロとコメント欄にぶらさがっていた。

 だからといって、別に彼女が悪いことをしてるというわけでもない。ネット上のプロフィールやコメントなど、本気で真に受ける奴なんていないのだから。そこでは誰しも見せたい自分を演じ、見られたくない部分は隠すものだ。それに、そうやってはからずもサイバー上に滲み出した部分とてある意味自分の断片に他ならず(記載が事実かどうかとは無関係に)、自己の内面の表象であることも事実なのである。人々はあくまでも虚構であることを前提に、月並みな自分の人生や浮世のしがらみから現実逃避し、サイバー空間で違う人生を楽しむ。それはバーチャル空間ではアリなのだ。そして、そんな倒錯した世界を成り立たせているのは人間の根拠無き妄想……いや宿痾と言ってもいいし、ある種の自己保存本能・防衛本能みたいなものかもしれないが、「この世界のどこかに、きっと自分の知らない理想郷がある。まだ見ぬ自分の理想の相手がきっといる」……そんな漠然とした思い込みなのだろう。

 あとはコスメやファッション、料理……どれもこれもありきたりな内容の記事ばかり。


「私ってアダルト・チルドレンなんだ……」

 ある夜、彼女はつぶやいた。

 アダルト……チルドレン? 何かの言葉遊びみたいだ。

「アダルト・チルドレンって知ってる? 生育過程のトラウマを抱えたまま、自己肯定感と幸福感を持てない大人のことよ。私、大昔に書かれたその本をデジタル・アーカイブで読んだ時、涙が出て止まらなかった。これだ、全部私のことだ!って」

 さして興味も持てなかったが、話を聞くフリぐらいはするのが礼儀だ。

「すごい生きづらさを抱えて今まで生きてきたわ。母は三つ上の姉を溺愛し、自分の分身のように扱った。私は絶えず比較され顧みられなかった。私は見捨てられたくない一心で必死で母に好かれる努力をした。どうしたら気に入られるのかもわからないまま。でも、そんなのって長続きしない。努力することに疲れてくると、私は母親の言いなりになることで自分の居場所を見つけようとするようになった。やがてそんな生き方が辛くなり、家にいるのが窮屈になっていった。そういう子供は深く傷ついて、やがてこう思うようになるの」

― 私はクラスの友達みたいに親から愛されていない……

― 生きる価値のないゴミ人間なんだ……

 最初は彼女に同情した。しかし話を聞いているうちにだんだん腹が立ってきた。同僚のお転婆スナとの対比で彼女を批判的に見たのかもしれない。

「何を甘ったれたことを……そんなに不本意ならば、運命に逆らって生きればいい。それほど裕福な家ならば経済的にも許されるはずだ……」

 しかし彼女は反論ではなく、共感だけを求めていることは明らかだ。それにズケズケものを言えるような間柄でもないし、事情もよくはわからない。赤の他人がとやかく言うようなことでもない。そもそも所詮はネット上のざれ言、彼女の言うことがどこまで本当かすら怪しいのである。僕は頭をよぎる言葉を全て飲み込んだ。

 ところが皮肉にもこの「沈黙」は、僕に対する感謝と好意の念を彼女の心に惹起させる結果となった。彼女から見た僕は、打ちあけ話に親身になって耳を傾けてくれる、とってもいい人だったようなのだ。彼女はすっかり僕を気に入り友人として受け入れた。


「ねえ、人間って何のために生きているんだと思う?」 

 脈絡もなく、そんなことを言い出した夜もあった。

「生まれてきたって、どうせ死ぬだけじゃない……」

 どうしたの? 何かイヤなことでもあった? 

「別に何もないわ」

 君らしくないね。

「ねえ、あなたは何のために生きているの?」

 さあ、わからないよ。

「いいから考えてみて……毎日毎日お三度の用意をして、着飾ってはまたぬいで、お風呂に入って寝て、起きたらまた食事の用意をして食べて寝て。同じような病気にかかって何度も病院に行ったり、伸びた髪を定期的にカットしに出かけたり。ただ生きているだけでものすごい資源の消費をしているのよ? それだけじゃなく、とてつもない辛い思いをしたり、何かのためにコツコツ準備しなければいけない。どうせ死ぬなら全部無駄じゃない。で、誰かが死ねばまた誰かが生まれてきて、また同じことの繰り返し。何度も何度も同じことを繰り返して、わかりきったことをまた繰り返して悩み苦しんで……何か目的でもない限り、すごい無駄だと思わない?」

 まあそうだねえ。誰しもが一度は陥る疑問だね。

「あら、ほんとう? あなたもそう思う?」

 ああ、誰しもが思うんじゃない?

「じゃ、あなたは何のために生きているの?」

 そうだなあ……幸せになるため、とか言うとクサすぎるね。でもそうじゃないかなあ。何か楽しいことがあるかもしれないから生きているんだろうね。

「まあ、そうね。じゃね、そもそも人間は何のために生まれて来るんだと思う?」

 さっきのナゾナゾとどう違うの?

「ほら、ハエやウジはイキモノの死骸を分解して環境を維持するとか、生態系を維持する何らかの役割があるんでしょ? だったら人間は何のために生まれてくるの?」

 意味は無いんだろうねえ。ハエとかうじ虫とか、何だってわけもなく生まれてくるんだろ。

「純粋に生物学とか生態学の観点から考えてみて」

 そうだなあ。ハエにしろウジにしろ、まず意味もなく生まれて来て、たまたまそういう役割を担うようになっただけさ。生きて行くための生存戦略さ。そういうとっかかりを持てなかった種は滅んだだけで、ハエの一生に意味はないさ。

 ちぇ……crescent814はつまらなそうに舌打ちした。

「生きる目的が何なのか、はじめからわかっていれば楽なのに。いちいち考えたり迷ったりするのが面倒だわ。もし何の意味もないのだとしたら、初めから生まれて来なければいいのに……。本当迷惑」

 キリスト教世界で神が死んだ後、人間が抱えるようになった難問さ。生まれた瞬間に運命が決まっているのだとしたら、人生つまらなくない? いろいろ選択できるから人生は楽しいのさ。

「いいえ、そうじゃない。私は親の決めた結婚をして運命を受け入れたの。そんな私だから言うんだけど、もし私に自由な選択というものがなくて、迷いなく運命を受け入れるだけでよかったなら、こんなに苦しまなくてよかったと思う。何も考えずに生きていけたわ。他に素晴らしい人生があったかも知れないと思うから苦しいのよ」     

 確かに。僕にひきつけて言うと、父の言いなりの人生がイヤで士官養成課程のある大学に進んだのだけれど、それがために軍隊にとられてしまって、肝心のビジネス・ローヤーの夢は遠のいてしまった。そういう意味では君の言うとおりだ。そもそも何でビジス・ローヤーでなければならないのか、それ自体考えてみればよくわからない話だけど。けどね、父の言うとおりにして、スキでもない工学部か何かを受験してエンジニアになっていたとしたら、今頃どこかの企業の研究室で、暗~くチマチマ新製品の開発でもしていたんだろうねえ。うまく行ったとしてね。ところが予想外に軍隊にとられてみれば、それこそ今まで何の接点もなかったようなことを見聞きしたり体験したりして、すごく世界が広がった。メーカー勤務でもいろいろな体験が出来るんだろうけど、自分の性に合っているかどうかなんだろうね。僕は体を動かすことが好きだから、こうして外でいろいろ体験しているのが楽しい。

「私は親のいいなりだったから、あなたのように新しい世界と出会わなかった。私には何もない……」

 僕は彼女をどうなぐさめればいいか、わからなかった。

「そのうち、何か新しいことを見つけて始めてみればいい」

「やりたいことなんてない。夢なんてないの。思いついたことはたいていもうとっくに誰かがやってるし、勉強しなくたってAIが何でも教えてくれるもの。したいことは全部AIがやってくれるし、何かに備えて準備するなんて面倒くさいだけ。いつだってそう。何か新しいことをって考えるんだけど、たいてい誰かが体験済みで全部ありきたり……」    


 くだらない痴話バナシに飽きれば、まじめな話もした。

 ねえ、君は日本の敗戦についてどう思っているの?

「……どうもこうもないわ。自業自得ってとこね。戦争がはじまるまでは賛否両論もあったけど、いざ始まってしまえば戦争に協力せざるを得ない空気に飲み込まれた。いまだに核保有と領土奪還については主権の行使だと不満をいう人もいるけど、一部強硬派ね。全体の代弁ではない」

 同盟国アメリカの裏切りに対して不満はないの?

「反発を招くことは予想していたから意外性はない。核開発とミサイル実験のころから。ただ最後通牒や宣戦布告までの時間が短すぎて、いきなり感はあったわね」

 これはまずい、とは誰も思わなかったのだろうか? こうなるまえに。

「そうねえ……核開発あたりから大丈夫かな、って空気はあったけど、誰も言い出せなかった。変なこと言うと悪目立ちしちゃうから面倒くさいのよ。何か言えば必ず反論する人がいて、ネットで炎上しちゃうし。特に保守の政治イシューはそう。沖縄の問題だって米兵の犯罪がハンパなかったのに、みな知らん顔してたでしょ? 文句を言おうものなら反日だとかバッシングしてた人たちもいたし」

 それは日本社会の特有の、対立を避ける、空気を読む感じ?

「そうかもしれない。自ら和をみだす人を非難する空気があるから。大人気ない、ってなっちゃうのね。角を立てる人、執念深い人、しつこい人は日本じゃ嫌われる。まあ、日本人同士で反日バッシングしてるようなのはウヨ団体の工作員だけど」

 対立を避けるのは日本社会だけじゃないと思うけど、最期まで黙って見ないフリは日本人だけかもしれないね。もう破滅は見えているんだけど、声を上げる人がいない。

「まあ、炎上して酷い目にあうのも、とことんまでいって破滅するのもどっちもどっちだし、楽なほうを選ぶのね。孤立するのがこわい。それに破滅するなんて当初は誰も思わなかったわ。誰ががどこがいいところで止めてくれるだろう、みたいな」 

 なるほど、わかりやすい説明だ。

 前の敗戦は日本人がみな軍国主義で洗脳されていたところはあるけど、今回は情報化社会でも同じことがおこった。そこがミソだね。

「今回の敗戦は情報化社会の産物よ。核開発だって少子高齢化に財政難、それと安全保障の両立って政府に言われちゃうと反論できないし。竹島と北方領土の奪還だって、日本固有の領土だから悪いことだとは言い出しにくい。個人攻撃と炎上で反論を封じられる……どっちにしても、周りを固めてそうなるようにもっていくから同じことよ。一度流れができちゃうと逆らえなくなるのね。先の見える人はもう日本を捨てて外国に出ていっちゃったし。残ったのはスローガンに浮かれて先が見えなくなったうれしがり屋、いき場のない弱者、ここに守るものがある人たち、それと面倒をさけたい無気力な人たち」

 なあなあで受け入れたから連帯責任ってなるのかな。一億総ざんげ?

「100年前の敗戦では、政府が情報を隠蔽して国民に軍国主義のスローガンをたれ流したから、戦後に真相を知った国民の反発は起きたわ。今回はそれがない。それに日本人はみな自分が悪いなんて思ってないわ。誰かが仕組んだレールに乗せられたと思っているだけ」

 じゃあ、一億総懺悔じゃなくて一億総無責任? 誰も責任をとらない。

「個々のレベルではいろいろ責任についての意見はあるだろうけど、結局ナアナアでウヤムヤになっちゃうのね。誰かをつるし上げたって何の見返りもないから、最期は疲れて終わる」

 それで忘れちゃうわけか。だったら教訓としては歴史に残らないね。同じことを繰り返す。

「汚職や腐敗、政治不信。そしてもの忘れ。日本の政治はその繰り返し。日本だけじゃないわ、世界中で戦争は繰り返されている。歴史は繰り返すの。生き証人がいなくなったころ。保守の維新政権はそのタイミングを待っていたのね」

 外国からは、日本はわけのわからないことをする変な国、と思われているけど、そう単純な話でもないね。どこの国でもアルアルかも。

「日本人はバカよ。外から見ればよくわかる。自分たちだって差別されている側の黄色いアジアのサルなのに、まるで白人気取り。先進国気取りで、差別はやめようとか偉そうに言ってるの。まるでわかってないんだから。アジアの人たちをみくびって……ところが中国人は自分たちが世界一の中華だと思っているし、韓国人だってむかし日本人の面倒みてやったと思ってる。みっともない、ひとりよがりのうぬぼれ屋なのよ、恥ずかしい。世間しらずの田舎の金持ちね」

 ハハ、それはよく言われる話だね。でもね、高麗人だって同じだよ。日本人と同じで、アジアの端っこで外国との交流は日常的にないし、自分たちだけの常識で生きていけるから、よく似た部分がある。現に中国人労働者差別とか、アジア人出稼ぎ労働者らへの差別はあった。ただ、違うのは、日本みたいにアジアを侵略して一瞬にせよ支配した前科がないから、そういうおかしな優越意識はないんだな。

「日清、日露と戦争に勝っていい気になって、アジアではさんざん威張り散らしていたけど、とうとうアメリカに戦争で負けてコテンパンにされて……たから西洋人には頭があがらない。だから西洋に媚びてアジアを見下すケチなゲス野郎に見えるのよ。パリで暮らしていたころは本当に日本が恥ずかしかった。自分たちは西洋人たちと同じかそれより上だと勝手に思っているのに、むこうからは下にみられる。あそこじゃアジア人=中国人だし、いっしょくたに毛嫌いされて怒ってるんだけど、西洋人からすれば、だからどうなんだ?って話になるの。永遠の二流扱いなのに、一流国民だとの思い込みで浮かれてる」

 日本人は別扱いで優遇されてないの?

「そういう国もあるし、そういう人もいるけど、一部の話よ。高度成長期の1970年代以降、所得があがって人口も多いもんだからイイお客さん扱いされたことはある。治安もよかったし、不法移民や不法滞在の警戒はされなかった。でも2000年代以降、アジア全体の生活水準が上がって日本が相対的に沈んだから、もはやそういう空気はないわね。特に今回の戦争で日本は世界の嫌われ者。いままで培った国際的信頼はぶち壊しで、ただの野蛮人扱いね」 

 評判なんて一瞬でくずれるからね。

「私の生きているうちは、日本人は肩身が狭いでしょうね。一からふりだしに戻る、よ」

 ずいぶん辛口だね。反日日本人?(笑)

「外から日本を見たことのある日本人だから、日本のイイところもイヤなところも一番よくわかるの。ネットウヨたちみたいにスジの通らないヘリクツをたれ流したり、歴史を捏造したり、無意味なことをしないだけ。面倒に巻き込まれたくない臆病日本人ね。むしろ日本人とか韓国人とかいうレッテルがイヤだ。同じ人間として問題解決を論じればいい」

 あなたたちが主流派だったら日本はこういう目にあわなかったのに。

「さあ、どうだろう? 世界でハチャメチャな政治指導者が支持されたりしてるのをみれば、そうものごとは単純じゃないと思うわ」

 たしかに。わが国も他人のことを言えないな。でも、僕たちは話が通じそうだ。

「そうね。自分たちさえよければいい、と言う原理の人たちとは会話が成立しない。分断社会にしかならない。どうあるべきかを基準にものごとを考える人たちとなら、会話ぐらいは成立するわ。たとえキリスト教徒とイスラム教徒であってもね」

 ああ眠い、もう2時だ。寝るとするか。おやすみ

「おやすみなさい」


 毎日のようにチャットをしていると、そのうち身の上話だってするようになる。

 彼女は東京のヤマノテ生まれ。現在アシヤというコーベに近い地域の高級住宅街に住む、子育て中の専業主婦だ。男の子と女の子の二人のお子さんがいる。首都圏の某有名女子大学卒で、アメリカの片田舎にある提携大学に留学経験もあるという、典型的なお嬢様。

 よくあるように、女性は美貌だけで幸せにはなれない。多くの役得とともにウンザリするほどの災難がふりかかるのが常であり、彼女もその例外ではなかった。周囲に翻弄され、さんざん振り回されたあげく、適齢期に結婚を余儀なくされた。だから恋愛には思い残しがある。

 ネットに吸い寄せられてくる人種は様々であって、決して一様ではない。しかしネットに何らかの救いを求めてくる時点である種の共通する動機・境遇的なものは存在し、似たようなプロフィールの人種が結果として集まる。crescent814の恋愛に対する思い残しのようなものは、その最たる例の一つにほかならない。

 彼女は結婚前に相思相愛の大恋愛をした。お相手の彼氏は恋愛対象として完璧で、まさに彼女の理想の恋人だった。彼女が毎日ウキウキ幸せだったのは勿論言うまでもない。

 しかしそんなある日のこと、両親は突然彼女に結婚の準備を始めたことを告げ、直ちに恋人との関係を清算するよう命令した。

 ……普通なら何という一方的な話だと思うだろう。

 しかし彼女が両親の命令に抗うことはなかった。なぜなら、それは幼い頃から両親に言い聞かされてきたことで、既に運命として彼女が受け入れてきたことだったからだ。

「自分は何不自由なく育てられ、したいことは全部させてもらって、生まれながらに恵まれた人生だった。全ては両親のおかげであり、その恩に報いるには多少のことは我慢しなければならない。愛してくれた両親を喜ばせたい。恋愛結婚など自分には関係のない世界の話だ……」

 良く言えば「聞き分けが良い」、悪く言えば「割り切り過ぎ」。そんな生い立ちだから、彼女は恋愛中そのつもりで彼と付き合ったし、せめてその間は精一杯愛しあい二人で楽しもうとした。

 そしてついに時が来て、彼女自ら別れを告げた。

 初めからそのつもりだったから彼女に迷いはなかった。そんな結婚なんてありふれたことだし、後悔というほどのものもなかった。

 けれど、納得していたはずだったのに未練だけが残った。

 どういうわけか割り切れなさや不条理を感じた。

 そして「何か」が彼女の中で壊れた。

「はじめから愛なんてないわ。私も夫も互いを求めてはいない。だのになぜこの人とずっと一緒にいなければならないのか、時々わからなくなるの。自由なはずなのに飛びたてない。その後つかまる枝もない。結局、今の生活を壊したくない、面倒くさいのから逃げているだけなのよ。落ちぶれたくないだけ」 

「永遠に埋めることのできない孤独。私は心の孤児なの……もちろん子供はかわいいけど、もうあきらめた。ちっとも思い通りにはならないもの」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る