第四章 王太子殿下の受難②


 王太子はその身元から名誉騎士という立場にある。階級は軍将で十の隊を束ねていた。抱えている部隊の一つを任せている旧友、ディックは青い顔で大公邸の前に馬車を待機させていた。


はかったな」


 周囲に聞こえないように告げると、彼は申し訳なさそうに謝罪する。


「……到着日程は今日だった。“明日”の警備計画表を見せればジゼルは絶対に屋敷を訪れる。そう、あの方に命令されたんだ。……ごめん」

「いいさ。気にしていない」

「ジゼル……ッ!」


 裏切ったとは思わない。

 ただ、国内で大公に逆らえるものは誰一人いない、というだけで。

 目を合わせることなく色調の鮮やかな彼女好みの馬車へ乗り込むと、王太子はディックを手招きし団服の襟元を捻り上げた。


「俺はいい。俺のことはどう欺いても、剣を向けてこようと構わない……が、腐れ縁であるお前に頼みが一つある。持ち場を離れ今すぐにニーナの元へ迎え。返答はいらん」


 人を殺められそうな眼光は、まさしく誰もが恐る騎士団の絶対権力者の血を引いていると言えよう。「分かった」そう一言だけ呟いたディックは踵を返し王都の外れへと駆けた。その行方を見届けたジゼルは手綱を握る騎士を促し、元許嫁であるミゲラ令嬢の待つ駅舎へ向かったのだった。



 ◻︎◻︎◻︎



 ――今夜もジゼル殿下は遅いのかしら。


 王太子の邸で唯一従事しているマリアが帰宅して、すでに時計は夜七時を指そうとしていた。

 連日の業務と例の一件からまともに会話できていない気がしていたニーナは、今日こそ帰りを待っているぞと意気込んでいたのだが肝心の本人が帰ってこないのではどうしようもなく。料理上手なマリアに教わり夕食を用意していた皇女だったが、一人寂しく温めたスープを啜った。

 コンコンッドンッ!

 木製の扉が叩かれ立ち上がると、音が激しく打ち付けるものに変わり肩を跳ね上げる。外には二十四時間体制で王太子が配属してくれた騎士がいるはずだ。けれど扉を叩く音は一向に止まない。強盗か、はたまた山から降りた熊であろうか。

 護身術は一通り訓練をされているが、男性相手にはしたことがない。恐る恐る塵取りと箒を手に取ったニーナは玄関先の見える窓越しに外を見た。


「……ディック様?」

 

 見知った姿に安堵するが、どうしてか彼の団冒を剥いだ額には大量の汗が滲んでいて。

 急いで施錠を外した皇女は息を乱し床に膝をつきかけた彼を支えるようにして邸内へ引き入れた。冷えた水を、と給水器からグラスに注ぎ手渡す。男は一気にそれを仰ぎ飲み込んだ。


「落ち着きましたか?」


 王国に来て初めて視察に同行してもらった騎士であるディックには、学生時代を共にしたというジゼルの話をしてもらうなど交流を深めていて。

 そんな彼が血相を変えて彼の邸へ飛び込んできたのにはきっと、重大が理由があるのだろうとニーナは推測した。


「婚約する」

「え?」

「だから、また……婚約しちまうんだ、ジゼルがっ!!」

 

 王太子よりも背の高い彼が勢いよく顔をあげ、丸い肩を掴む。只事ではなさそうだとは思ったが、まさか婚約だとは。

 開け放たれたままの扉から警備を任せていたはずの騎士がいないことにも気が向くはそれどころではないのだろう、ひとまず彼を中へ誘った。



 落ち着きを戻したジゼルの同僚に一部始終を聞いたニーナは迷っていた。

 例の一件からまともに顔も合わせていなかった自分からしてみれば、幼馴染であった令嬢と再度婚約をした方が彼のためになるのではないかと思うのは当然で。状況故に仕方のなかったとはいえ彼自身も帰国した彼女を迎えに出向いたのだから、様々な噂はあれど、元許嫁である二人は想い合っていた時期もあるはずだ。そんな彼らのなかに割いるほど世間知らずではない。

 短い前髪がドロドロになるくらいに汗をかいていたディックは、今はどこか心あらずで。青ざめたその様子から何か王太子に言われて邸へ飛んできたことはわかった。


「わざわざ報告、ありがとうございますディックさん。けれど、わたしは両国の良き外交のために視察に参ったにすぎません。再び婚約を結ぶに伴って、ジゼル殿下の邸に寝泊まりさせていただいている事実が望ましくないと、その大公閣下殿が仰られるのであれば……すぐにでも宿を手配しなくてはなりませんが」

「……皇女様は、良いんですか」

「なにがでしょう」

 

 自身の存在が、王太子の邪魔になってはならない。

 まして、その大公にイヴェルムルの民はたとえ王であっても逆らえないというのであれば尚更だ。


「アイツは、ジゼルは令嬢とでなく貴女に近づきたい一心で危険を承知で帝国へ渡ったんだ」

「存じています。けれど、わたしはそれに応えてはいないし、殿下からも婚約を直言されたことはございませんから。……ディックさんが、なにをわたしに望まれているのかはそれとなく察することができます。しかしわたしは、そうすることでジゼル殿下に危険が及ぶのであれば――」

「オレは貴女の意思を聞いてるんだ、ニーナ皇女」


 ――わたしの、気持ちは……。

 

 傾いていた、だけではない。まだ一ヶ月と経たないがジゼルに毎日のように愛を囁かれるようになってからというもの、どこかに残っていた自信の無さが払拭されていくのを感じていた。

 外面だけでなく自身の内側をも褒める彼のそれは、ニーナの心にしっかりと刻まれていて。


 ――これが“恋”だって、気づいていたけれど。

 

 答えることを渋っていたのは違いが歪みあってきた国の太子同士だったことだけではなく。ジゼルが自分に「触れたい」としきりに話すように、自分も彼に対してそう感じていることが怖かったのだ。

 ジゼルは男性であり、それが普通なのだとニーナは思っている。淑女でなければならない自分とは違うのだと理解していた。


 ――大きな手に触れてもらいたい。外界からの声で不安にならないくらいに、強く抱きしめて欲しい。

 

 そう思うほどに、愛を告げられるほどに。なんと己は不健全なのだろうと思い悩んでいたのだった。

 それが余計に、彼への気持ちに蓋をしていて。

 それからは何度となく彼の友人にジゼルの元へ行くように促されても、皇女は一歩たりとも邸の外へ出ようとはしなかった。



 王太子自ら護衛任務を命じていた騎士たちは皆、ディックが到着する頃には姿を眩ませていた。一国の皇女にどれだけの時間、護衛をつけていなかったのかと思うだけでゾッとする。なにを計画しているのかは一騎士には理解しかねたが、おそらく帝国の皇女を然るべき方法でジゼルと顔を合わせることなくエイリッヒへ帰還させるのが目的なのだろうとディックは読んでいた。

 二時間ほど経ち、窓の外には雪が積もりはじめている。これでは馬を出して王太子の元へ向かうことは次第に難しくなってしまうと、男は街中を駆け逆上せ気味だったために脱いだ甲冑を再び装備した。

 相変わらず、皇女は窓の外を眺めるばかりで。気にしているのが露骨なことに騎士は笑う。


「皇女様、ご準備を。予測では雪は今夜から明朝にかけて強まるらしい。邸から出られなくなる」

 

 しかしニーナは、その言葉に首を振るだけで動こうとはしない。

 盛大に息を吐いたディックは干されていたローブを乱暴にハンガーから抜き去ると、大股でニーナの元へ近づいた。


「オレらは自由だ、庶民だからな。だけどアンタらは違うだろ」

「……行動することで何か起きてしまうくらいなら、わたしは」

「騎士としてじゃねぇ、ジゼルの友人として言ってんだよ。アイツは今まであんなダラシない顔見せたこと一度もなかった。それなのに、アンタの肖像画を一目見て変わったんだ。イヴェルムルの未来のために水面下で動くことしかしてこなかったアイツが、アンタに会いたいがために王妃と大公に頭を下げたんだ」


 公爵夫人を通して舞踏会の招待状を手に入れた後も一筋縄には行かなかった。

 王妃が画策しているのをどこから情報を仕入れたのか大公の耳に入り、渡国を前に呼び出された。元々三十隊近くあった己の部隊を一部手放すことを条件に帝国へ行くことを許されていたのだ。


「大公閣下はそれほどまでにジゼルが怖いんだ。この婚約が上手くいったとしても、それはアイツの為にもならなければ……最悪命の保証だってない。大公の傀儡である国王と違って、ジゼルが自分の地位を仇なすと恐れれば有りもしない罪を被せることだって奴は可能なんだよ。エイリッヒを一番目の敵にしている、大公の更なる権限の肥大化が待つ結末は帝国皇女であるアンタだって、皇帝陛下だって望んではないだろ?」

 

 これほどまでに隣国の独裁が進んでいるとは父も知らないところだろう。大公閣下が国王を頤使していたなど、想像もしていないはずだ。


 ――たった一人、帝国から視察に来ているわたしは……充分に彼の弱点になり得るのね。


 どう動いても、動かなくても。護衛を任せた騎士に任務を放棄させたとなれば、大公が次にすることは限られている。


 ――ジゼル殿下を脅して、どうにかしてでも婚約を締結させるつもりだわ。


 彼がそれを要望しているのならば話は変わるが、ジゼルの友人はそうではないと断言した。ならば、イヴェルムルで現状最も“自由”である自分が動く他に、抑圧されたこの国の解放への道を開ける者はいないのだと思索する。


「馬を、用意していただけますか」

「生憎この天気だ。馭者は呼べない、歩いて向かうことになるけど」

「ご安心を。騎士様の前では胸を張れませんが……これでも、体力には自信がありますから」


 昼間の視察で少しばかり湿ったままのローブをディックから受け取ると、ニーナは長いハニーブロンドを括った。

 走る準備は万端だ、と言いたげに微笑む皇女の姿に軽快に笑った男は吹雪はじめた窓の外を見やる。すると、一匹の赤兎馬がこちらへ向かっているのを視認した。


「騎士団の馬じゃないな」

「……閣下が寄越した方でしょうか」

「いや、違うな。あれは……マリアちゃんだ」


 ――マリア、ちゃん?

 

 同じように小窓を覗き込んだニーナの視界に、乳母の姿が見える。吹雪の中、颯爽と馬を走らせるその身おもては勇ましいものがあった。

 軒先に馬を停めた老婆は自分を覆い隠すほど大きな外套を脱ぎ去ると、今の今まで手綱を握っていた掌から鍵を露わにさせる。


「一体こんな夜に馬走らせて何しようって言うんだ、マリアちゃんは」

「裏切り者のディック坊やには言われたくはないね」


 長い付き合いであるジゼルの乳母であれば彼とも長い年月過ごしていることは把握できるが、ふた周り以上年の離れた女性へ付けた敬称に驚きを隠せなかった。

 ひとまず、そこを確認するほどの時間はないと皇女は話を進めていく。

 裏切り者、と言うのは彼が吐露した“期日の異なる警備計画表”の件であろう。本気でそう思っていないことは彼女の表情から察するが、ディックにとっては痛い事実のようだった。


「……悪かったと思ってる。ジゼルには後でまた謝るさ」

「そうかい、なら良しとしましょうかねぇ」

「あの、マリアさん!」


 申し訳なさそうに彼女へ頭を下げる彼を横目に、ニーナはマリアへ詰め寄る。


「少しで良いのです、あの馬を貸してはいただけませんか」


 お願いします、と庶民である騎士よりも深く腰を曲げた皇女に対し、ジゼルの育ての親である彼女は優しく笑みを浮かべた。


「元より、そのつもりで参ったのですよ。ニーナ様。この降雪じゃ馬車は動かないだろうと。私には殿下をお救いすることは叶いません。ですが貴女様なら、きっと今よりもイヴェルムルを……否。ジゼル殿下の伴侶として相応しいと、そう、王妃は判断されたのだと思いますよ」


 萎れた、働き者の証である暖かな手から“王妃の生家”である大公邸の勝手口を施錠する鍵を授かった皇女は、確かな決意を抱き騎士と共に彼の元へ馬を走らせたのだった。

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