第四章 王太子殿下の受難①



 ――間違いを犯すところだった。


 王太子はその後、暗闇で頭を抱えていた。

 明日も早いというのにすっかり夜も更けたころ、一人冷えたリビングのソファに腰掛けていたジゼルは、己の欲望を押し殺した自分を褒め称えてやりたいと自画自賛している真っ最中であった。


 ――魅惑的すぎるのが良くない。長所であり短所だぞ、あれは。

 

 薄手の寝巻きでは彼女の艶かしい四肢を隠しきることはできていなかった。それどころかより一層胸元を強調するようなデザインで。

 初めは深夜遅くに客室から上がった悲鳴に素直に心配していた王太子だったが、古い寝台が支えきれなかったニーナの体重により崩れ、その中心で頬を染めて嗚咽を漏らす彼女のあられもない艶姿にあてられてしまった。


 ――挙げ句の果てに一緒に寝ようとするなんて。天然も入っているのか、彼女は。いや、世間知らずと言った方が合っているのか。


 帝国に滞在している間、ジゼルも何もしなかったわけではない。

 素性を隠し、街を散策しては皇女の評判を頻繁に耳にしていた。貴族たちのみならず、市民からも大望の眼差しだけでなく女性として見られていることを本人が知ってか知らずか。

 話を聞いているのは楽しかった。自分の知らない一面を知れるのは喜ばしいことだ。

 だが同時に嫉妬もした。中にはおかしな妄想を吐露してくる輩もいたものだから、片脇に隠し持った短剣を抜くところだった。


 ――良くも今まで純潔だったものだ。

 

 そこまで想像して。落ち着いていたものが昂りを取り戻そうとしているのを察した男は、雪の降る邸の外に出て頭を冷やすことにしたのだった。



 ニーナ皇女がイヴェルムルに滞在して七日目。

 客室の修理には時間がかかると毎日リビングで寝ていたせいか、ジゼルはここのところ睡眠が取れていない。

 欠伸を堪え、あえて増やした仕事を騎士駐屯場にある執務室で片している最中、初日に彼女の護衛を任せていた同僚のディックがニヤニヤと顔を歪ませて卓に手をついてきた。

 視線はあげないままで彼のくだらない話に耳を傾けていると、ニーナの名前が出たことで書類からはじめて顔を上げた。


「彼女がどうかしたか」

 

 鋭い眼光に「怖い怖い」と両手をあげて降参ポーズをとる同僚に、暇はないと一瞥するも、腐れ縁である彼は動じずに話を続ける。


「いいね、皇女様。イヴェルムルにはいない体型だけど、それがまた良い」

「彼女の魅力は俺が知っていれば良いことだ」

「独り占めするつもり? あの豊満な胸を?」

「……最低だな、お前は。毎度毎度、女と見れば胸しかないと思っている」

「顔も重要だけどさ、胸も大事だろ? それが良くて囲ってるんじゃねーの」

「囲ってなどない。あれは外交の一環だ。皇女として我が国に来てもらっているんだから、あまり大きな声で失言をするな」

「なぁるほどね〜こりゃ、大公令嬢との婚姻も破談にしちまうわけだ」


 好きに言わせておけばいい。

 もとより、この男はそうなった経緯を知っていてネタにしてくる悪い癖がある。相手にしないのが吉日だと書類に視線を落とした。


「本気で令嬢がジゼルを好いていなかったと思うか」

くどいぞ、ディック」

「あっそ。良いんだ、オレにそんな口聞いて」

「勿体ぶるな」

「同僚を睨むなよな。……王都に戻ってくるらしい」


 何を、と問わずとも察した。それは、かつてのジゼルの許嫁を指している。


「大公閣下のご兄弟の娘となりゃあ血筋は確かだが、ちと近すぎるよな。まあ、王妃に似てミステリアスで綺麗だけどさ」

「どこからその話を聞いた? 根拠はあるのか」


 そういうと思った、と甲冑を脱ぎ白を基調にした団服の懐から一枚の書状を出した。

 認められた羅列に目を通すと、そこには確かに明日イヴェルムル大公邸において騎士団精鋭を収集する件が書かれている。もちろん、そこにはジゼルの名も登記されており隣に立つディックの名前も記されていた。


「異国の諸侯に嫁がれたはずでは?」

「それがなぁ、ジゼル。男女には色々あるってもんだ」

「……離縁なされたのか。聞いていないぞ」


 ――それだけならまだ良い。否、親戚の不幸に良いも糞もないのだが。


 確執が生じている中で相手国の皇帝に頼み込んで来訪を取り付けたというのに、エイリッヒの皇女が在国中に元許嫁の令嬢を国に戻すなど別段、おかしなことではないように思えるが。その裏では何かが暗躍しているのではとジゼルは勘繰った。

 王太子は書状を握り潰すと、詳細を調べるべくディックに城へ潜り込むよう指示をした。



 騎士団の最上官であり大公、そして現王妃のお父上となれば屋敷の警備は厳重で。騎士としての腕は認めているが、一団員にすぎないディックにはこちらは任せられないとジゼル自ら屋敷を訪れていた。


 ――何度足を運んでも慣れないところだな、この馬鹿みたいに峻厳な屋敷には。


 彼ならば言わば親類である。先に連絡を入れていようとなかろうと、立場上関係はない。ただ、仕事では上司に当たるため念のため事前に連絡を入れておいた。それが功を奏したのだろう、特に時間を無駄にすることなく大公と顔を突き合わせることとなった。


「お忙しい中、失礼する」

「互いにな、ジゼル王子。してエイリッヒ皇女のお加減はいかがですかな」


 試すようなこの人の視線は、昔から苦手であった。数えるほどにもいない友人やニーナ以外には“噂通り”の態度である王太子だが、大公もとい爺様である彼はまた他の人たちとは違う。威厳漂う姿は尊敬に値もするが、どこか底知れぬ怖さがあるのだ。本来、冷酷という通り名は彼の方が相応しい。

 しかしいくら外見が逞しく大柄であろうと、大公は表向き人徳があって見える。そのため、我が父よりも国民に慕われていると言えよう。

 一言も発さない使用人に出された茶が冷めるころ。

 ようやく口を割ったのは大公だった。


「それにしても随分と頼りになりそうな皇女ですなぁ」

「……ええ、とても。美しくもあり、聡明で。警備を任せている騎士の報告によると、すでに市民からの彼女に対する称賛の声も上がっていると」


 ――やはり自分の懐にある騎士を尾行させていたか。

 

 異国の土地を踏み締めたことのないニーナを、早々に一人にしたのには理由があった。

 王太子が四六時中着いて市街を調査していては視察の成果を“彼女の能力とは言えない”と判断をされることもあると考えた末、仕事を無理やりディックに持って来させていた。手が届かぬところで彼女が現地調査を遂行してくれればそれで良かったのだが、想定していたよりも王都民からのエイリッヒ皇女を讃歎する声が大きく。

 ジゼル自身、彼女の持つ将来性に驚いていた。

 女だからと見縊っていたわけではないが、嬉しい誤算だった。

 そして思っていた通り、この国で一番気をつけなければならない相手に彼女の皇女としての仕事ぶりを騎士に報告させることができていた王太子は胸を撫で下ろしていた。


 ――どこで足を引っ張られるかわからないからな。この男には。


 母上のお父上だとしても。先帝が存命していた頃よりイヴェルムルで一、二を争う権力を保有していた大公は何を胎に持っているか分かったものではない。用心するに越したことはなかった。


「美しい、と。ハハハッまあ、美醜の定義は人それぞれだからなぁ。そうだろうジゼルよ」


 大公以外に言われたのなら、すぐさま柄に手をかけていただろうが。眉ひとつ動かすことなく王太子は彼の言葉を飲み込んだ。


「それよりもなあ、頼みがあるのだ。もう国王と我が娘には伝えて承諾を得ておる。何、一度無になった話が元どおりになるだけのこと」


 それまで微塵も隙を見せなかった王太子が揺らぐ。あの時は互いに若く、周囲からしてみても結婚には早いと囁かれていたし彼女にも想い人がいた。加え一時、巷を賑わせた“噂”のおかげか破談となり令嬢は大公と親交のあった異国の諸侯に嫁いだのである。

 具体的に言われなくとも大公の言葉が意味するのは婚約のことであろう。何を今更、と思うだろうが彼はそういう男であるし、未だ王太子が“相応”の婚約者もいないことに漬け込んできたのだった。

 確固たる証拠はない。

 けれど確実に父よりも帝国を憎み、目の敵にしているのは大公ではないのかと睨んでいる。

 これほどまでに大きな大陸を牛耳る帝国が結ぶ同盟国は二十カ国に及び、彼らの国力は数百年衰えることを知らない。いや、未来永劫ないのではないかと言い切れるだけのことを皇帝陛下はなさっている。


『力こそ全て』


 そう、騎士入団式で断言した大公は大昔には軍力も財政も何もかも並行していたその国に大差をつけられている現状に嘆き、そして忌み嫌ったのだ。逆恨みに近いのかもしれない。

 先帝の手前、自身はイヴェルムルにおける権力者の中で永遠に二番目にしかなれない。

 そこで彼は当時の後継者にしてジゼルの父に目をつけた。

 エイリッヒ帝国の時期皇帝である男とは、境遇や年齢も同じく仲が良かったのだが先に皇帝へ即位し美姫と名高い娘を娶ったことで亀裂が生じたのを、大公は見逃さなかった。はじめはただの幼い嫉妬心だったはずが、病に倒れた先帝からなし崩しに国王となった父は大公に上手く操られ、その娘と婚約した。

 歳は十以上も離れていて、世継ぎのことがあるのにと最初こそ妃含め陰口を叩かれていたようだが、第一子となるジゼルを産んだ後にはパッタリとなくなった。それどころか、この政略結婚を取り持った大公の評判は上がるばかりだったと。

 今はその権力を掌握した大公に逆らうことのできなくなった父が話していたのを、王太子は思い出していた。


 ――同じことをなさろうとしているのか。

 

 偶然か必然か、離縁した姪を再び独身であるジゼルと結ばせようとしている魂胆が見え見えで。意もせず強張っていた口元を緩めた。


「申し訳ありません、大公閣下。実は俺には心に決めた方が――」

「ニーナ皇女であろう?」

「……はい」


 嫌悪感を露わにし、大公は孫である男を睥睨へいげいした。


「あの娘のどこが良い? 聡明? 女は黙っている方が余程良いに決まっておる。ワシの妻やお前の母親だってそうだろう。外交再開のための視察? そんなことよりも一回りでも二回りでも痩せさせた方が彼女のためにもなるだろうに」

 

 帯剣の柄に手がかかる。

 しかし睨みを効かせた大公の前ではそれを抜くことは愚か、身動きさえジゼルは取れなかった。

 悔しさから歯を食いしばっていると屋敷の使用人ではなく、どこかに隠していたのだろう騎士の一人が大公に耳打ちをする。ニンマリと拵えた髭ごと口元を歪めた老夫は言った。


「何処ぞの帝国皇女よりも、尤物な姪が無事に到着したようだぞ。ジゼル。駅舎におるらしいが……そうだな。“婚約者”であるお前が迎えに参れ」

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