第三章 違います、これは婚前旅行ではなく外交業務です②
「これはこれは、ようこそおいで下さいました。ニーナ皇女様」
彼の乳母だったというマリアが邸宅に出勤したのが、もう昼を目前とした十一時。我々がイヴェルムルに到着してから七時間立った頃だった。
ニーナはどうしても彼女に身の回りの世話をしてもらうのが気が引けてしまい、自分が王太子との三人分の茶を用意しているとひどく驚かれた。
「ジゼル様もご自分のことはなさいますが……皇女様もそうなのでございますね。付け焼き刃でない、普段から身につけられた手際はなんと上品なことか」
「ありがとう、マリアさん。嬉しいです。そう言っていただけて。宮廷では自分でお茶なんて淹れさせてもらえないから……。頻度は多くはないですけれど、週に二回ほど街へ行くんです。そこで子供たちにいろいろなことを教わって。お茶の美味しい淹れ方から、ドレスの皺伸ばしまで。後は油汚れにはオレンジの皮を使うだとか」
「ほほほ、良く知っておいでで」
乳母の柔らかなで庶民的な物腰は皇女の異国での緊張を解かしたのだろう。馬車や汽車に揺られているときよりも。自分と話している時よりも楽しげな姿に安堵したジゼルは数時間前に脱いだコートを手に取った。少し雪で濡れているが問題ない。窓から見える白い景色にジゼルは溜息を吐いた。
マリアに後を任せ向どこかへかおうとした王太子に気づいたニーナは、彼が扉を閉める寸前に駆け寄りコートの端を握る。
「ん、どうした」
「どこかに行かれるのですか」
異国で知り合いもいない場所に残されるのが不安なのか、縋るような目線に喉元が鳴る。
「すぐに戻る。帰国したと駐屯場へ報告に行かねばならない。本来なら真っ先に国王の元へニーナも連れゆくべきなのはわかっているのだが……かく言う俺も父上には数年会っていないこともあってな。急遽決まった視察だ。本国入りの日程が父に伝わっているか定かではないし、お前も到着したばかりで疲れているだろうからな。折を見てで構わないだろう」
「……国王に、会われていない?」
「ああ。書面上のやり取りのみで、実際に顔を合わせたの俺の成人祝賀の式典の時が最後だ」
そういうと、彼は顔を顰めた皇女の頬をひと撫でし、コートに触れたニーナの手をするりと解いて雪の降りはじめた街中へ消えていった。
翌日。昨夜遅くに帰宅したらしい王太子に気付けないほどぐっすりと眠っていたニーナは水色のワンピースドレス、喉元にファーをあしらった厚手のローブに身を包んでいた。
時間は有限だ。今日は王都の中を視察する予定である。
「お早いのですねぇ、ニーナ様も」
「マリアさん。おはようございます」
慣れない土地で大変だろうと、昨日はジゼルの邸宅に泊まってくれた彼女に見送られ一人薄暗い街へ出かけた。
なんでも、ジゼルは騎士団での書類仕事が溜まっているらしく三時間ほどの仮眠のあと再び王城下にある駐屯地へ向かったのだとか。寒さに手をこすりながら邸の扉を開くと、そこには白地に金をあしらった甲冑を身につける騎士らしき人物が二人待機していた。
「王太子の命により配属されました。本日より二交代制にて警備をさせていただきますのでお見知りおきを」
「はい。よろしくお願いしますね」
昨晩、夜明けに帰った理由は自分の警備を手配していたからだとマリアに聞かされていた皇女は、寒い中申し訳なかったと騎士たちに頭を下げる。焦った男たちはどうしたら良いのかわからなかったのだろう。しどろもどろになりながらニーナより深く腰を曲げていた。
日が上り疎に人々が街へ出てきた頃。
事前にもらっていた都の地図と照らし合わせながら王都の街並みを歩くだけに止まっていた。成果という成果はなかったが、騎士を連れ歩く帝国の皇女と気づいた民たちとの交流はできたので良しとしよう。イヴェルムルの昼は短い。異国文化を教わっているとあっという間に辺りは黒く染まっていく。
同行していた騎士から帰宅するように言われるが話したそうなご婦人の視線を感じ、しばし待っていてもらう。
「皇女様の尊顔を生きているうちに見ることができるとは思いもしませんで」
「まだまだお元気でいて欲しいわ。この国を良く知っていらっしゃるお婆様にたくさん教えて欲しいことがあるのに。そんなことを仰られては悲しいもの」
「尊いお方にそんなふうに都で言ってもらえるとはねぇ……無駄に長生きもするもんだよ」
老婆は背後に控えた騎士が皇女から視線を外しているのを視認すると、手招いて合図を送る。それに気づいたニーナは少し屈んで耳を傾けると予想だにしなかった言葉が鼓膜を震わせた。
――もし、それが事実なら。でも確かめる術がないですし、なにより彼には相談ができない案件だわ。
時間は十四日程しかない。皇女は気合いを入れるために自分のぷっくりとした頬を叩くと、明日からどの山積み問題から手をつけていこうか脳内会議を繰り広げていたのだった。
邸へ戻ると、ちょうど交代の時間だったのか初めて会う騎士と門前で出会った。深々と挨拶を交わし、暖房の効いた邸内に入る。
「おかえり、寒かっただろう」
暖炉に薪を焚べているジゼルの背中が見え、先に帰宅していたことを知った。
「ただいま戻りました。ジゼル殿下は今日はお早い帰宅だったのですね」
「ああ。溜まっていた書類の整理をしてきただけだからな。……ローブを」
昼間は晴れていたのだが、標高の高いこの地では時折予想だにしない降雪がある。ニーナも今日だけで二度、小雪に降られた。そのために厚手のローブは若干湿っていて。暖炉近くへ持ってきたコート掛けのハンガーを王太子自ら手に取ると、皇女の着ていた外掛を受け取った。軽く叩きハンガーで吊るす様子が、その人間離れした美しさから妙に違和感があり。親近感が湧いた。
「ありがとうございます」
どうやらすでに、唯一の使用人であるマリアは帰宅済みらしく。薪の割れる音が静かな空間に反響した。
用意していくれていたスープなどを温めようとキッチンへ向かう王太子を制し、座って待つように言ったニーナはワンピースが汚れないようエプロンを纏う。料理は難しいが、温めるくらいならできると鍋を火にかけた。
「本当に手慣れたものだな」
座っていてと言ったはずが、背後に立つジゼルに驚く。長いこと歩いていたからだろうか。その拍子に足首を捻ってしまった。
「……っ」
後ろに立っていてくれたこともあり床に打ち付けられはしなかったが、代わりに彼の厚い胸板に頬が触れた。着崩した薄いシャツ越しでは心臓の音が丸わかりである。まるで地響きでも起きているかのような鼓動がニーナの鼓膜を刺激していく。
――ふ、二人きり……なのよね。
ふと、マリアがいないことを思い出し密着した身体を剥がそうと身を捩る。しかし彼はあろうことか、その体制のまま皇女へ腕を回した。
「あのっ……!」
「温いな」
「えっ、ええっと……体温が高い方ですので」
胸に押し付けられるように、ぎゅっと抱きしめられれば彼の脈拍に合わせるようにニーナの心拍も上がっていく。
「仕事から帰って、邸に誰かがいるというのは良いものだな」
「……ジゼル、殿下?」
「マリアのことは昔から、この時間には家に帰していた。自分の子供を優先するようにと言ってあったからな」
「殿下はいつから一人でこの邸に……?」
囲うように触れられている腕に力が入る。少し苦しいが、随所に垣間見える彼の寂しげに目を細める原因がわかるかもしれないと皇女は抵抗せずに受け入れた。
「七つの頃には城に居場所はなかったように思う」
「王や妃に追い出された、ということですか」
「……違うな。自分から城を出た」
「で、ですが、二人のお子はジゼル殿下だけですよね。どうしてそんな……次代を担う、それも優秀なあなたの居場所があそこにないだなんて」
「イヴェルムルは実力主義だ。王太子だからと言って俺が国王になるとは限らない」
「そ……そんなことがあるのですか」
「さあな」
「さあなって、大事なことではありませんか」
「別に国王になりたいとは思ったことはない」
衝撃だった。てっきり、彼の国を良くしようと思う気持ちはそこからきているのだと思っていたから。
「ただ、イヴェルムルを本気で変えようと思うのならば、まず王の椅子から父を引き摺り下ろさなければならない。それだけだ」
何かがおかしい。エイリッヒ皇族は皆、仲が良いというのもあるのだろうが。それぞれの家庭の事情など比較するものでもないのはわかる。けれど、実の子を幼い頃から一人暮らしをさせていて平気な親がいるだろうか。国王だとか関係なしに、その前に彼らは親子であるのに。
どこか他人事のように話すジゼルの表情は読めなかった。
「……温まったな」
後ろで沸々と煮立ちそうなスープの火を止めた彼は何事もなかったかのようにニーナを解放すると、食器棚を漁る。
手伝わなくては。そう思うのだが、皇女はその場から動けなかった。
用意された客室は広いとは言い難いが、それが逆になかなか居心地が良い。シングルベッドへ腰をかけたニーナは寝転がり天井を見上げた。
――平然としているのに、寂しそうに見えるのは……それが気になってしまうのはどうしてなのかしら。
今はエイリッヒとイヴェルムルの外交問題を解決するのが先なのは理解している。けれど、同時に彼が抱える問題もどうにかできないものかと皇女は頭を悩ませていた。
「どうするのが一番良いのかしら」
うんうんと唸りながらゴロゴロと転がっていると、狭い寝台が大きく軋んだ。ニーナが動きを止めても鳴り止まないそれは、ついには轟音を響かせる。
「……ひゃあっ!?」
マリアによって綺麗に掃除がされているからか寝台が崩壊しても砂埃もあまり立たず。ただ、鋭利に割れた木製ベッドに埋もれるようにして嵌ってしまった皇女は身動きが取れない。大きな声を出せばジゼルに気づいてもらえるだろうが、恥ずかしすぎる故に申し訳ない。その気持ちが勝ってしまい、助けを呼ぶことを躊躇っていた時だった。
慌てたような足音が廊下に聞こえた。施錠されているはずの客室の扉を蹴破った男は、客室内の光景を見て口を開けた。
「ジ、ジゼル殿下……申し訳ありません〜っ!! わたしの体重があるばかりに家具を壊してしまうなんて……うぅ……本当にごめんなさい」
「謝るな。長らく使っていなかったせいだ、管理不足は俺に責任がある。とりあえずお前は動くんじゃない、いいな」
「はいぃ……」
大きく割れた木材を退かし枠にハマっている皇女の元までいくと、ジゼルは軽々と彼女を持ち上げる。舞踏会の時と合わせれば、これで二回目だった。
「怪我はないか」
「ないです、大丈夫ですから。ほ、本当にすみません」
「……はぁ」
泣きながら謝るニーナから顔を背けた彼は、黙って自室へ向かった。
あからさまな溜息にびくりと身体を硬直させてしまう。一瞬、彼の瞳が炎を灯したようにギラついたように見えたのだ。忘れていたが、彼は巷で“冷酷無比な王太子”と言われる男。その鋭い眼光から片鱗を見たニーナは部屋に着くまで言葉も出なかった。
「降ろすぞ」
「で、殿下……あの」
呆れられているのか、それとも家具を壊したことを怒っているのか。原因はわからないが尖りを帯びた視線に耐えきれず、抱えられた状態のまま彼のシャツを掴んだ。けれど、言葉が出てこない。
そんな瞳を潤ませる彼女に対し、ジゼルは窮地に立たされていた。
溜息を吐いたのは、自分に助けを求め泣くニーナが可愛すぎるから。横抱きに持ち上げた際に触れてしまった餅のような文字通り太い腿がひんやりとして柔らかく、薄手の寝巻きを着込んだ彼女の露わにされた足のその先に続く箇所を想像してしまったからだ。あくまで自身の欲を抑え込んでいるために険しい表情になっていただけなのだが、そんなことを彼女が知る由もなく。
王太子はますます涙ぐむ皇女に抑えが効かなくなっていくのを感じていた。
「怪我がなくて安心した。客室の荷物は明日、こちらへ移動させる」
これ以上彼女の姿を捉えていては何をしでかすかわからない。皇帝陛下に“頼まれた”からには、下手に手を出してしまうことはなんとしても避けたかったのだ。
掴まれていたもっちりとした小さな手を離すよう促すと、ジゼルは自分の寝台に横たわらせる。淡々と寝床を整えてやると、唆りたちそうな欲望を鎮めるために部屋を出ようと背中を向けた。
「待ってください、ジゼル殿下」
しかし、己を戒めていた時分、ニーナに引き止められてしまう。
「こちらは殿下の寝室ですよね? ジゼル殿下はどちらでお休みになられるおつもりなんでしょう」
「俺はリビングのソファでも、床でも平気だ」
「そんなっ……! 駄目です、そのようなことはさせられません」
「なら一緒に眠るというのか? 俺と」
喉元に言葉がつっかえた皇女は、泣き顔の次は顔を真っ赤にしてみせた。困ったように眉を下げる彼女が愛おしくてたまらない。
もちろん、床を共にすると言ったのは冗談だった。けれども、あろうことかニーナは首を縦に動かした。
「……自分がなにを言っているのか、理解しているのか」
「ソファや床でなど寝かせられると思いますか。殿下の寝台はそれなりの広さがありますし、作りも丈夫……ですし。二人寝ても問題はないかと」
「ニーナ、お前は」
「ジゼル殿下のことは信用できます。わたしが嫌なことはなさらないと、断言できます。ですからどうか」
こんな形で叶うとは思ってもみなかった。彼女と寝台を共にするというのもそうだが、孤独に苛まれなくてもいい夜が他でもない。ニーナに実現してもらえるとは思ってもいなかった。
膝をマットレスに乗せると、ふたりの自重で寝台が軋む。
余程先程の現象が怖かったのだろう。それだけで肩を振るわせた皇女が子犬のように縮こまっていて、丸くて愛らしい。
背の高い王子と、ぽちゃっとした皇女。
大の大人が寝台へ並んでみると想像していたよりも距離が近いことがわかる。余計なことを考えずに眠ってしまおうと考えたジゼルは、掛け布をニーナに譲りただ横になった状態で瞼を閉じていく。
「あの、殿下」
「どうした。寒いか」
「い、いえ……大丈夫です。その、壊してしまったものは弁償いたしますから。お許しいただけると……」
「許すも何も怒ってなどいないが」
「ですが、先程から目を合わせてくれません……申し訳なかったと、本当に思っているのです。ですからーーっ!?」
重みが偏ったマットレスが深く沈み込む。掛け布を剥がし、覆い被さるようにして彼女の手首を寝台へ縫い付けた男は開かれたニーナの胸元に一瞬気を取られるも、男というものを知らしめるために口を開く。
「お前は俺に、許して欲しいのか」
「……当然です」
「何故だ」
「な、何故って……それは」
「許して欲しいならできることは限られているよな、ニーナ皇女」
彼女の丸い瞳が見開かれる。傷つけたくはないが、誰にでもこういうことをしてほしくはないのだ。それをわからせるためであるから仕方ないのだとジゼルは自身を納得させる。
「なにを、お望みですか」
「そうだな。まずはこの淫らな胸元に唇を落としてから考えるとしよう」
本当に触れるつもりは毛頭ない。しかしそんなことは皇女は知らない。
身を強張らせた彼女はキツく瞼を閉じていた。そんな様子に小さく息を漏らすと、ジゼルは颯爽とニーナの上から退いた。
「身を捧げる覚悟もなく同室で寝ようなどと思うな。俺でなければ、今頃どうなっているかわからない」
「……どこ、に、行かれるのですか」
重みと温もりが消え、うっすらと瞼を開けた彼女が身を起こす。
問いかけられた質問に彼は答えず、自室を後にした。残された皇女は、何がなんだかわからないといったふうに呆然としていたのだった。
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