第三章 違います、これは婚前旅行ではなく外交業務です①
「……納得はしていないが、くれぐれもよろしく頼んだぞ。ジゼル殿下」
トントン拍子に事は進み。想定よりも早く視察の目処が立った。
父には当然反対されていたが、継母の説得と何故かイヴェルムルの王妃の口添えで国境を跨ぐ準備が着々と進捗したのだ。
「協力というのはこれのことか、母上」
ボソリと呟いたジゼル王太子の言葉は父の嗚咽で聞き取れなかった。宮廷内部だが、誰が見ているかわからない。継母に「みっともない」と一瞥され、皇帝はようやく真っ赤になった鼻を啜った。
「行って参ります。お義母様、お父様」
姉を溺愛している双子の弟が起きぬうちにと、まだ空も暗い時間に出立することになったニーナは自分に課せられた重要な役割を受け止め、まっすぐに両親を見つめる。
正式な順を辿って取り付けた視察ではないため、本来なら大臣やそれなりの職務の者がまず行う業務を担うことになった皇女はどこか嬉しそうだった。
「今回の視察には、王妃様のご協力あってのもの。イヴェルムルだけでなく、帝国にも実りが結ばれるよう誠心誠意頑張って参りますね、お父様」
「頑張らなくていいのだが」
「……いえ、頑張ります。皇女である責任はしかと果たさなくてはなりませんから」
――女は国を守れない。けれど、弟たちのために何かできるのであれば惜しみなく協力したい。
女帝の許されぬ帝国で自分ができる事は限られてはいるが、ニーナは常にそう思っていた。だからこそ、今回の大役を任されたことで気持ちが浮き立っている。
いつも明るく、笑みを絶やさない娘が因縁のある男の息子の隣で至極楽しそうに微笑んでいるその姿に、皇帝も諦めざるを得ない。
「頼んだぞ、ニーナ」
尊敬する父に背中を押されますますやる気に満ち溢れていく様を見れば、快く送り出すほか皇帝にはなかった。
滞在は二週間を予定していて、そう広くはないイヴェルムルでは充分すぎる日数を確保したつもりだ。最終確認をと、選りすぐった荷を貨物用馬車へ積み込み終えたのを確認する。
「いってらっしゃい、ニーナ」
出立の準備が終わった。根性の別れでもないのに継母に優しく抱擁されれば、なんだか次第に離れがたくなってくる気がする。
憂いを帯びてゆく感情を振り切り、皇女は馬車へ乗り込んだのだった。
遠ざかっていく娘の姿を焼き付けた皇帝陛下と皇后の目にはうっすらと涙が滲んでいた。
カゴに閉じ込めていた愛娘の門出を目の当たりにしているようで、更に泣けてくる。
「ジゼルは良い男だ。かつてのあの男のように、国の未来を見据えている」
「そうですね、陛下」
「だがイケすかんのは仕方あるまい。あーんな顔も頭も良い男、絶対ニーナも好きになってしまうぅ」
「陛下、たとえあの子が彼を好いたとしても。それは決して外見だけで判断したのではないと、断言できますよ」
「……わかっておる。けどなぁ」
すっかり目視できなくなった馬車を、首から下げていた双眼鏡でしっかりと見届けた皇帝は彼らの行先から身体を背けた。
「にしても、だ。あの男がエイリッヒからの使者、それも我が皇女を迎え入れることを許可するとは思わなんだ」
「王妃の一存では?」
「それはない。王妃こそ、最も……」
彼はそれ以上、皇后がなにを聞いても口を割ろうとはしなかった。
ただ、ぼんやりと。ある男の陰謀の末に起きてしまった“何か”があったのは確かだと胸に抱いたのであった。
イヴェルムル王太子の秘密裏に行われた来訪の終わり、帰国に合わせ母国エイリッヒから初めて他国の地を踏み締めたニーナ皇女は肌を刺すような空気に身を震わせる。
――ここが、イヴェルムルとの国境。帝国北東部には幼い頃来た記憶があるけれど……こんなにも寒かったかしら?
まだ弟たちが生まれる前。父の地方視察に同行した覚えのあった彼女は、朧げな記憶を呼び覚ましていた。
あれはまだ、十歳にも満たないとき。
国境付近に聳える山脈の麓町はほんのり寒く、宮廷に手袋を忘れたニーナはその寒さに泣き出すほどだった。父の大きな手袋では満足に暖を取れず、少しだけ機嫌を損ねていたような気がする。
もちろん、大人になった今は寒さに泣くような事はないが……意をせず涙が出てくるくらいには冷たい風が痛く感じる。確かにこの気温、冷風では作物は育たないだろう。王都はまだだいぶ北にある。これ以上気温が低いのかと思うと先が思いやられた。
「寒いか、ニーナ」
人よりは寒気に強いと感じていたが、帝国は一年を通して比較的温暖な地域が多いためそう思っていたのだと痛感する。
「平気ですよ。それよりも……馬は大丈夫なのでしょうか?」
この寒さだ。人間よりは丈夫だろうが、氷点下の中何時間も車を引いている馬たちが心配になった。
「ああ、ここを超えたら町が一つある。連れてきた馬はここで休息を取らせた後、従者にエイリッヒまで連れ帰ってもらうつもりだ」
「では……どのように王都まで?」
「アレを使う」
あれ、と顎で示されたのは少し離れた先を走っていた犬。いや狼の姿だった。
「犬にこの荷物を?!」
どれだけの距離があると思っているのだろう。あり得ない、とジゼルを見ると何故か彼は笑った。
「
小型の望遠鏡を手渡された皇女は丸い瞳でそれ越しに遠くを見やった。微かに見えてきたのは、線路。どこまでも続くその先には、うっすらと城の影が写ったような気もする。
「汽車、ですか」
「ああそうだ。町へつけば王都までは汽車がある。乗れば半日で王都に着けるだろう」
「もう少し掛かるものだと……国境から王都まではそう遠くはないのですね」
「エイリッヒと比べれば国土は半分ほどもないからな、我がイヴェルムルは。それよりももう冷えるだろう。窓を」
馬車の揺れにも耐えうる体幹で向かいに座る王太子は、ニーナの頭横にある窓を閉めた。コートを重ねているとはいえ、逞しさのわかる胸板の圧に動揺する。
もうずっと長い事二人きり。荷物を乗せたもう一台の馬車には迎えにきた彼の従者がいるが、この密室には二人だけ。先程まで難なく話せていた皇女だが、急に意識してしまったことで黙り込んでしまう。
「……退屈か」
その様子に、ジゼルは場を和ませようと口を開く。
「皇帝陛下に、ああは言ったが急かしているわけではないんだ」
たった一文で彼がなにに対して言っているのかは理解できた。だが、それについて考えないようにしていたニーナは突然切り出された内容に閉口する。
「婚約、はできたら良い。その気持ちは本物だ、そこに偽りは一切ない」
――出会って数日。それなのに婚約まで思い描けるほど人を愛せるのでしょうか……?
疑問だった。理由がわからない。いや、前回馬車に無理矢理乗せられた時にも聞いたのだが、やはり信じられないのだ。この体型を好きだと言ってくれるのは嬉しい。けれどそこまでだろうか、と。
「ただ……早急だったと反省した。ニーナの気持ちも鑑みずに皇帝に話を出したのは申し訳ない。親交を深めたいのは確かだが、友人からと言われても俺はすでに“女性”として見ているわけだ。訂正しておかなければと早まってしまったんだ」
「ジゼル殿下、わたしは……親しくありたいとは思います。それは国にとっても、わたし個人にとっても。けれど恋人だとか、そういうのはあまり経験もないこともあって想像ができないのです、ですから」
「経験が、ない……?」
そこを突っ込まれるとは思っても見なかった皇女は、続けようとしていた言葉を飲み込んだ。
「え、ええ。お友達や、親交のある貴族の方はいます。ですがそういった関係を持った事は今の一度もございません。二十四歳にもなっておかしい、でしょうか」
「そんな事はない。寧ろ……ああ、いや、なんでもない」
王太子は咳払いをした後、組んだ足を直す。
「それなら尚更、ゆっくり俺の気持ちを伝えるべきだったか……ニーナ」
「は、はいっ?」
真剣味を増した双眼に見つめられ、反らせない。じっとこちらを視界に入れた男は皇女の膝上に置かれた両手を大きな手で包み込むように触れた。
「イヴェルムルに滞在する十四日の間に、俺はお前を口説き落とす」
「え?」
「俺を嫌っていないのは先程の言葉で理解した。ならばより一層の努力をし、お前の心に俺という男を刻みつけると約束する」
――や、約束されましても困るのですが……!
きゅうっと結ばれた手が暖かい。少し彼の手のひらは湿り気を帯びているようにも思える。緊張している、のだろうか。
――こんなに澄ました顔をなさっているのに。
よく見れば、彼はいつも愛を説こうとするとき若干ではあるが眉が強張る癖がある。それが綺麗な顔の凄みを増すのだが、平然としているように見えるだけなのだとニーナは気付いた。
「こうしていると、まるで婚前旅行のようだ。そういえば……東洋には言霊、と呼ばれるものがあるんだが」
「コトダマ?」
「発した言葉を実現させる不思議な力のことだそうだ。今回の視察がまさしく婚前最後になるように。帰国するまでに俺とこの先を共に歩んでも構わないと思ってもらえるように、努力をしよう」
好きだ、と直接的に言われるよりもグッと心にくるものだ。
ニーナは彼の湿った手を拒まなかった。そっと、重なる指先を絡ませる。恥ずかしさから俯きがちだった顔をあげるとジゼルの視線が揺れた。
「……公務なので旅行ではないのですけれど。お手柔らかに、お願いしますね」
◻︎◻︎◻︎
緩やかな山道を超え、中継地点となる街を過ぎ。汽車に乗り換え半日経った朝のこと。
丸一日かかったイヴェルムルの都は帝都の賑やかで華やかな街とは打って変わり、朝日が上り散歩日和だというのに商店街は閑散としていた。静けさに荷を積んだ手押車の音が響いてうるさいほどだった。
氷点下を下回っているせいもあるだろうが、それにしても活気があるようには見えなかった。
王都駅から国王の待つ城までは迎えの馬車へ再び乗り込んだのだが、馬が停車した先に見えたものにニーナは驚き声を上げる。
「ここは……王家の方々はあの城には居住していらっしゃらないのですか」
着いた先に立っていたのはエイリッヒでいうところの富裕層が持つ別荘程の屋敷で。さらには鉄柵の門前には王太子が遥々隣国から帰国したというのに出迎えすらいなかった。決して自分が国賓として対応されたいわけじゃない。しかし、自国の王子は違うだろうと疑念を抱いた。
「使用人は一人、乳母のマリアだけだ。彼女は高齢だからな。出勤時間を遅くしているため出迎えがなくすまない」
「いえ、そんな。わたしは良いのです。けれど……あの」
問いかけに答えはなかったが、彼の対応で小さな屋敷に“一人”で暮らしているのは間違いないらしい。それも、ジゼルの雰囲気から見るにたかが数ヶ月、という短い年月ではなさそうだった。いつから屋敷になどと安易に聞けず。
ひとまず門前で迷惑にならないようにと、ニーナも荷下ろしを手伝った。
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