第五章 王国に根付く影①



 男性に連れられ馬に乗るのは父以来だと、ニーナは母国に想いを馳せる。

 ディックの案内により大公邸に到着するが昼間よりも……いや、いつもよりも格段に警備が厳重なものへ変更されていて。苦虫を潰したように笑った騎士は皇女を降ろすと勝手口へ回るように指示した。


「馬は目立つ。ここから先は歩いて潜入する、いいか皇女。もし万が一、大公お抱えの騎士に捕まったら抵抗はするな」


 了承したことを言葉にはせず静かに頷いたニーナを確認すると、彼が先頭を切り敷地内へ足を踏み入れた。



 エイリッヒの宮廷と比べれば一貴族の屋敷に過ぎないが、その作りはさすが訓練団員を含め総勢七万の騎士を束ねてきた長。屋敷を囲うほりは深く、一度落ちれば這い上がることは一人では不可能だろう。警備の観点からか、表から見える入り口は正門をくぐった先にある正面玄関だけ。のように見えるが、ディックの後を続いた皇女は裏手に回った壁に古い鍵穴があることを知る。

 錆の目立つ鍵穴にマリアから受け取った鍵を差し込むと、その施錠はすんなりと解けた。


「……鉄の格子こうし?」

 

薄暗く、湿度の高いそこは今は使われている形跡のない牢屋のような場所だった。


「折檻部屋だな、こりゃ」


 王国では大きな屋敷にはそういった部屋を造設している貴族が昔は多かったとディックは吐き捨てる。最も、この時世に鉄柵を残している屋敷など大公邸と大罪人収監場くらいだろうが。

 嫌悪感を抱きながら音を立てないように鉄格子のめぐらされた部屋から脱出し、さらに屋敷の奥へと進む。


「侵入成功したのはいいが、ジゼルと合流してからどうするかだな」


 “彼に会わなければ”それだけが先行していて、肝心な計画を念密に立てていなかった皇女は苦悶の表情を浮かべた。

 元婚約者である大公の姪を迎えに行った彼は屋敷に戻っていることは確かだ。それに、一度迎え入れたジゼルをそう易々とニーナの居る邸宅へ帰すとも考えにくい。ここに存在するのは確定だとして王太子を連れ帰れるかが問題である。


 ――皇女を連れてここに来たと知れたら、まーた怒られそうだなオレ。

 

けれどこうなっては仕方ない。偽の書類を見せたのは、階級の降格を理由に脅されていたとはいえ自分の責任だ。ディックも腹を括る。

 侵入者を確実に仕留めるために造られたような回廊を警戒しながら歩んでいくと、予想だにもしなかった人物たちが廊下のど真ん中で話し込んでいた。周囲には警護もいない。彼を連れ出すには絶好の機会だった。


「あれが、ミゲラ令嬢ですね」


 大公の一族はその血縁に東洋人がいると、ジゼル本人から聞いていた。

 彼女は紛れもなく彼らの血筋の人間なのだろうとわかる艶やかな濡烏色をしていて。一般的には表情に乏しいと言われるジゼルと比べ、彼女の容貌は同じように華やかで人間味のあるものだった。


「相変わらず綺麗だなぁ」

「昔から、あの方と殿下は仲がよろしかったのでしょうか」

「ああ。このすぐ近くに彼女の屋敷もあって、幼いころは並んで歩いていたのを見たことがあるな。あの事件があってからっつーか、学生になってからは頻繁に会ってはいなかったみたいだけど」


 ――あの、事件? もしかして。


 近隣国でも知っている、許嫁に剣を抜いた件だろう。ニーナはそれとなく事件の内容を聞き出した。


「あれなぁ、ジゼルも可哀想だったよ。けどアイツ、妙な噂があっても訂正一つしねぇから。自分の服に彼女の髪が絡まったんで、切っただけなんだ」

「それは重大ですね」

「えっ、そういうもの?」


 それはそうだ。髪は女の子の命なのだから。断りもなく、絡まったからといっていきなり切られては自分だって年齢によっては泣き喚いてしまうかも知れない。もちろん、今はショックから数日寝込むくらいだと思うが。


「まあ、それだけ理由じゃなくてさ。その頃から二人を面白おかしく記事にしたり触れ回るヤツが増えたってのも原因だったんだ」

「……それらが起こらなければ、ミゲラ令嬢は殿下をお慕いしたままだったのでしょうか。いいえ、もしかしたら今も」

「それはないな、いや、小さい頃は抱く気持ちもあったかも知れねぇけど。不安?」


 ――不安、とはまた違うような。この混沌とした感情は、一体……?


 会話をしながらも機会を伺っていた二人は、彼らが動き出したのを見過ごさなかった。

 話は一旦中断され、ディックの合図でジゼルの元へ向かおうとした瞬間。


「大丈夫だ、心配するなミゲラ。俺がいる」


 ――殿下?

 ポロポロと小粒の雫を滴らせた少女の肩を抱いた王太子は、制止が効かず物陰から飛び出してしまった彼女の姿をしっかりと捉えていた。


「何故、ここに」


 華奢で透明感があり、どこか儚げな自分とは正反対の彼女を抱いたジゼルを見ていられなかった。背中越しにディックに腕を引かれそうになるが、皇女はそれを振り切り元の折檻部屋まで駆け抜けていく。

 胸が苦しい。痛い。


 ――ああ、これが……みんなの言っていた嫉妬なんだわ。


 生まれて初めてだった。心臓がキュッと摘まれたようで。


 ――みにくいわ。自分がいやしくて嫌になる。


 鉄柵のある部屋に入ったところで背後から近づいていた男に壁際に追いやられる。まるで、初めて会った日のようだと頭の隅に感じていた。


「はっ……はなして、ください!」

「離さない」

「いや、いやなんです……離してください、殿下」

「逃がさないと言っているだろう」


 強く結ばれた唇が痛々しいと、ジゼルが諭すが皇女の態度は変わらず。キツく噛んだ下唇に若干血が滲んだ。


「何が嫌なんだ、どうしてこんなことをした? ディックにそそのかされたのか」


 連れてきてくれた彼のことを黙っているせいで悪者にはしたくない。ニーナは首を激しく振る。


「来てしまったものは仕方がないが。この一件をニーナも聞いたんだろう? ……けれど、誤解しないでくれ。俺はお前以外と婚約するつもりは毛頭ない」


 どちらの手首も拘束され、両下肢を動かせぬよう中央に長い足を差し込まれては逃げることはできなかった。しかしそれでも、皇女は口を開くことはなく。


「……頼む、ニーナ。声を聴かせてくれ」


 王太子と令嬢の密な現場を目撃して冷静でいられなかった自分に軽蔑し、辟易へきえきする。屋敷に来た目的は、イヴェルムル王国を独裁する大公から彼を助けることだったのではないかと。

ニーナは自己中心的な行動をしてしまう自身を責めずにはいられなかった。


「すみ……ません…………ごめんなさい、殿下」

「謝られる理由がない。ニーナ、こっちを見ろ」

「いや、やです。殿下……っ」

「――俺を見ろと言っているっ!!」


 これまで皇女に対しては声を荒げたことのない彼の真剣味を帯びた低音が木霊する。

 大袈裟に肩を振るわせたニーナに一度詫びると、ようやく合わさった目線に安堵したジゼルは拘束していた手首を解放し、その腕の中に彼女を引き寄せた。


「……ここにいる理由は後で問いただす。だが今は、嫌だと喚くそのわけを聞かせてくれ。頼むから」


 貴方と元許嫁の親密な姿に嫉妬しました、なんて言えるはずがない。

 求めていた腕中で悶える皇女は刺すようでいて、どこか慈しみを孕んだ彼の視線に耐えきれず。おずおずと赤く滲んだぽってりとした唇を開いた。


「…………苦しくて」

「……っ、どこがだ? 腹か、それともまさか心臓か!?」

「胸が、苦しいのです。ジゼル殿下……わたし、自分がこんなに醜いだなんて知らなくて」

「は、醜い? お前がか」

「だって、だって……あのように明眸なミゲラ様と情交にされて、わたしなんかよりも、やはり彼女のような方が殿下に相応ふさわし――!?」


 涙の伝う頬を手繰り寄せられ、上を向かされた途端。ジゼルの熱を孕んだ唇がニーナのそれに押し付けられていた。

 何度も角度を変えて啄まれる唇が薄暗闇照らされ、喉元を通らなかった滑りを帯びる体液が端から流れていく。呼吸が乱れ、食べられるのではないかと思うほど皇女の唇を喰んでいたジゼルの薄い口唇が糸をつくりながら離れていった。


「ニーナ、どうしたらお前の傷ついた心を癒してやれる? どうすれば、この誤解を解かせてもらえるんだ」


 皇女は止まることのない涙を拭い続ける彼の指先に擦り寄った。


「…………て、ください」

「悪い、もう一度……」

「口付けをしてください、ジゼル殿下。もっと強く、逃さないとおっしゃって。以前のように、わたししか居ないのだと思えるように」

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