第一章 冷酷無比な王太子殿下はむっちりぼでぃがお好きなようです②

「ありがとうございました、王太子殿下」

「ああ」

「……それにしても、ご連絡もなく我が国にお越しになっていたなんて。最も、事前に父が知っていれば大騒ぎだったかも知れませんけれど」


 あれだけ饒舌に話していた男は宮廷へ着いた途端、また無口になってしまった。

 自分の“淫ら”さについて語られるのはおかしくて、でも少し面白かった。本当なら、最後の一番重要なところも聞けたのに。彼の正体が判明した今、あまり宮廷の傍にいるところは見られてはならない(父がうるさくなるから)。既に施錠されている正面ではなく、使用人用の裏口から邸へ入ろうと足を進めた。

 その瞬間。沈黙を貫いていた男の靱やかだが剛腕なそれが伸びてくる。


「で、殿下?」


 彼は何も言わない。

 ただ、袖のないドレスから曝け出された“むにむにの二の腕”を揉みしだきながら握っているだけだった。


「王太子殿下、どうかしましたか?」


 痛くはない、ないのだけれど。閉口したままの彼の思惑が分からないのでは対処しようがない。それに、薄暗いとはいえ街灯のついた邸前では、誰に見られるかわからないのだ。


 ――この時間ならお父様もお義母様も、まだ起きているわ。もし、夜の散歩にでも出ていらしたら……いや、想像するだけで頭が痛くなりそうだわ。


 居てもたってもいられず、ニーナは掴まれた腕を解放してもらうべく身じろいだ。


「……これだ」


 正気を取り戻したのか。王太子がギラついた瞳でニーナを射抜いた。

 ゾッとするほど綺麗な顔。そんな人の強い眼差しに見つめられては、胸が張り裂けそうなほど高鳴っていく。


「このむっちりな二の腕が、全部悪い」

「むっちり?」

「ああ。触れまいと思っていたが無理だ。淫猥な身部を曝して……こんな天使の誘惑に打ち勝てるはずがないっ!!」


 これがトキメキなのだと感じていた高鳴りが覚めていくのがわかる。

 もしかしなくても、この風変わりな“性癖”が王太子を取り巻く噂の数々の原因なのかもしれない。王族間でも指折りの凄艶な姫に好意を寄せられても、百戦錬磨のマダムに誘惑されようと。一才の艶聞が耳に届かなかったのは女性に興味がないわけでもなければ、男色家なわけでもなく。

 単に自分“好み”の女がイヴェルムルに存在しなかっただけなのではと、ニーナは思い至った。


「あ、ああ……なんだこれは」


 むにむにむにむに。むにむに。


 このままでは永遠に揉み続けると踏んだ皇女は、ふんだくるように腕を引き上げ拘束を解いた。


「そんなっ!! 俺の二の腕が!!」

「わたしの二の腕ですっ! 殿下、いい加減にしてくださいませ。ここは宮廷。見つかれば只事では済まないのですよ!? 貴方様はイヴェルムルの王子なのですから、自重して――」

「それは誠か、愛娘よ」


 凍りついた門前で不穏な空気に包まれたそこから、あれよあれよという間に馭者は手綱をしならせ退散していく。

 とはいえ、王太子も停泊している場所へ戻らなければならないため、少し離れたところへ馬車を停車させ遠巻きにこちらの様子を眺めていた。

 豊富に生やした顎鬚を撫で仁王立ちしているエイリッヒ帝国の長、ニルビルス皇帝陛下の額には青筋が走っていた。このままでは王太子が危険だと判断した皇女は、彼を後ろに隠そうと奮闘するが検討虚しく、大柄な父によって引き摺り出されてしまうのだった。



 しばらくそうして。

 互いに挨拶を済ませた皇帝とイヴェルムル王太子を皇女は不安気に見つめていたのだが、存外、娘を無事に送り届けた若人に父は穏健に接していて驚いた。


「良い良い、そう畏るでないジゼル王太子よ。我が皇女を早々と送り届けてくれた礼をしなければな」


 ――名前……ジゼル様と言うのね。そうだわ、わたしったら名乗りもせずに。


 その立場上、頭を低くした彼の横顔を盗み見ていると切長の瞳がチラリと目配せる。

 意図が読めずに胸元を押さえていると、親密になっていると勘違いした陛下がその間へ割り込み遮られた。


「お、お父様」

「うんうん、良い良い。子供たちが親交を深めることは決して悪いことではないからな」


 ――ああ、これは相当怒っているのだわ。


 ジゼル殿下の方へ身体を向けている父の後ろ手に組まれた握り拳が色が変わるほどに握りしめられてるのを確認したニーナは、これ以上二人の顔を突き合わせているのは良くないと推知する。


「今夜はもう遅いわ。本当に、ジゼル王太子殿下……宮廷まで送ってくださって感謝いたします。ねえ、お父様」

「うんうん、そうだな。礼をしなければな、ニーナよ」


 ――駄目だわ。まったく聞いていない。お礼お礼って、一体どのような“謝儀”を為さるつもりなのだか。


 待機している馭者へ手をあげ、彼を乗せるよう促した。


「お父様も先に邸内へ戻られて。彼はわたしが責任を持ってお見送りしますから」

「ニーナ、そう言って別れの接吻とか……しないでおろうな」

「すっ……するわけないでしょう! もう、おかしな事を言い出さないでください! 殿下も馬車に乗ってくださいまし」


 出会ったばかりでするわけがないし、したとしても父親には指摘されたくはないものだ。

 控えていた門番に陛下を押し付け宮廷内へ入るのを確かに見届けると、皇女は盛大に深呼吸をして彼に向き合った。


「失礼いたしました。父の無礼をどうかお許しくださいね」

「構わない」

「そう、ですか。ありがとうございます。それで、あの、ジゼル殿下。貴方様はご存じだったようでございますが、わたしったら名前すらお伝えしていませんでしたよね? 重ねて無礼をお許しくださいませ」

「問題はない。一目見たときから衆望通りの可憐な乙女……“ニーナ皇女”だとわかっていた。だから声をかけたのだ、謝る必要はない。元より、非礼を詫びなければならないのは俺の方なのだから」


 腕を揉みしだいた事なのか、それとも舞踏会会場から無理矢理連れ出した事なのか。

 彼がどちらを指したのかは不明だが、普通に話している分には素っ気ないように思えるが“冷酷無比”だとは感じなかった。


「あまり陛下を待たせてはならないのだろう? 親同士の諍いに国や我々を巻き込まないではいただきたいが……仕方ない。こちらの王も、エイリッヒに関してはどうも子供じみた態度を取っているらしいからな。その件も併せて、帝国内にいる間にでも一度皇帝陛下とは談義させてもらいたい」


 ――やはり、仕事はできる人なのだわ。アレさえなければ……完璧と言っても過言ではないのに。


「わたしとしても、両国の外交問題は気掛かりだったのです。滞在はどれほどで?」

「十日ほど滞在するつもりだが、状況によっては変更もあるかと。今回は外交業務ではなく私用なので、今夜引き受けた舞踏会以外には特に予定はない。頼めるのであれば太子として正式に、というわけではなく話し合いの場を設けてもらえると嬉しい。……しかし、気が乗らぬ催しではあったが中々有意義だった」

「変わった趣向の舞踏会を開かれるのが、公爵夫人の唯一の楽しみだとか。仮面舞踏会というのは、今の時代ではあまり聞きませんものね」

「……こちらの公爵夫人と我が母に古い付き合いがあって、今宵の舞踏会へ招待を受けたのだが。まさか、本当に皇女と会えるとは思っても見なかったな」


 まるで恋仲の二人が逢瀬の最後を惜しんでいるようだと、邸内へ押し戻した門番は側から見ては感涙していた。


「では、俺はこれで」

「は、はい……ジゼル殿下。おやすみなさいませ」


 ようやく馬車へ乗り込んだ王太子は柔らかく微笑んだ彼女に目を細めると、門番同様、甘い空気に当てられていた馭者に指図した。


「おやすみ、ニーナ」


 辻馬車が動き出し、夜風に靡いた濡羽の髪が街頭に照らされ紫光する。

 臓が擽られるような深みのある声が耳朶をかすめ、胸が締め付けられていくのを皇女は心なしか感じていた。

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