Day22 雨女
幼い頃の記憶――。
雨の中、壊れた傘を引きずって歩いていた。
保育所からの帰宅時刻のこと、そう遅い時間ではなかったが、どしゃどしゃと重たい雨粒を落とす雨雲は黒々と低く――夏の午後とは思えぬほど暗かった。夕立というよりは、今でいうゲリラ豪雨のような局地的な雨であったのだろう、保育所を出た時は、ぽつぽつと暈にあたる雨音を楽しむ余裕さえあったものが、突風に傘を煽られたと思えば――雷と共に、空の底が抜けたような雨足となった。
時代かのどかな田舎町であるからか、就学前の子供でも五歳六歳ともなれば、ひとりで保育所まで通うのが常だった。もしか、一時的とはいえこれほどの豪雨が予報されていたならば、町内無線で保護者に迎えを要請することもあっただろうが。
ともかくは、最初の風でうっかりと手から放れてしまった傘は、かろうじて遥か彼方まで飛んで行ってしまうことは免れたものの、無理な形で狭い側溝に引っ掛かり――急速に強まる雨の中、尻餅をついてまで引っ張り出してみれば、骨が折れたり曲がったり……すっかり、使い物にならなくなってしまっていた。
どばどばと降り注ぐ雨にもはやなにを考える気力もなくし――ただ、家に帰りたい気持ちだけで、壊れてしまった傘を引きずって歩く。
田畑の間を縫う田舎道のこと、こんな天候では仕事に出ている大人もおらず、車も通りかからなければ――ごうごうと雨の降る音しか聞こえない。着ているものも水に落ちたのかと思われるほどに雨に打たれ、既に貼りつくどころか服と肌の間を雨水が流れ落ちている。
ふいに――思い出したように泣きたくなって、足が止まった。
ちゃぱり……。
と、同時――。
落としたままの銀鼠色の視界に、鮮やかに白い足袋と黒い鼻緒が飛び込んだ。
前を塞がれて、反射的に顔を上げた。
艶のない黒い着物を着た、母親くらいの年頃の女性が――立っていた。
誰?
知らない、女性だった。
自分と同じように、傘も差さず――だのに、自分のように惨めにずぶ濡れてはいなかった。
緩くまとめられた髪がほつれてかかり、影になった顔はよく見えない。
かろうじて、化粧気のない唇が動いたように思われたが、雨音で聞き取れない。
ずちゃっ…濡れた地面を引きずる音に視線を落とすと、彼女は大きな袋の口を掴んで引きずっていた。
縁起物の大黒天やサンタクロースの背負っている大荷物を思わせたが、印象は正反対の……それだけは、濡れそぼった生成りの袋。
のろり…緩慢な挙動で袋の口に両手を添えた彼女は、絞られた口を解こうとしているだろうか?
……………に…らない?
女性は、また何かをつぶやいたらしかったが――。
ばしゃん! ばしゃばしゃばしゃ……!
ひときわ大きな水の跳ねる音が、その細やかな声をかき消した。
「お母さん……」
顔を上げると、大きな傘を差した母が慌てふためいた様子で駆け寄ってくるところだった。
「どうしたの? ずぶ濡れじゃない――!」
あぁ、傘が壊れたのね……濡れネズミのような我が子の姿に悲鳴じみた声を上げた母は、しかしすぐに事態を察したらしい――早く帰ってお風呂に入ろうね……温かな手で傘の中に引き入れてくれると、自身が濡れるのもかまわず肩を抱いて駆けて来た道を振り返る。
どうやら、雨の激しさに気をもんで迎えに来てくれたところであったらしい。
ほっ…と気が抜けて、ただ促されるまま帰路を辿り――そういえば……数歩進んでから思い出して振り返る。
雨色に沈む、開けた田舎道――。
女性は、どこにもいなかった。
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