Day11 錬金術


 その作家の担当は、女性が担当すると決まっていた。ただし、若い独身女性が担当につくと、良からぬ噂を立てられては申し訳ないから……と、間違いのない経歴も充分な女性を求められた。つまりは、それなりに編集者として実力のある人物を……と言うことだったのかもしれないが、作家の書く物語には、父親から暴力を受けたとされる人物が登場することがままあり――その心理描写の痛ましさは作家自身の経験がなくもないとインタビューに答えたことがあれば、それが故の希望であろうと言うのが主だった出版社の文芸部においての理解だった。

 それゆえに、先の担当がふたり続けて半年ばかりで入院及び休養に入らざる得なくなるに及び――男性を担当にするなら、二十代のまだ過程を持たない青年を……と希望されたとて、さもありなん。しかしさすがに、あまりの新人では勤まらぬだろうと、入社十年目にして今だに見目だけで新人と間違われることをもはや持ちネタとしている彼にお役が回ってきた次第。


「よろしくお願いいたします」

「お世話になります」

 挨拶にうかがうと、作家は先の担当への見舞いの言葉を託したのち、半分ほどが白髪に変わった頭を丁寧に下げた。

「彼女の不調は、先生のせいではありませんよ――正直、ふたりも続けて過労で休養をとらせることになるとは、わが社の社員の健康管理の体制不備としか言いようがなく……お恥ずかしい限りです」

 ご迷惑とご心配をおかけしております……恐縮する彼をしかし、作家はおおらかに笑い飛ばす。

「なんの、ご謙遜を。おふたりとも十二分に健康でいらっしゃいましたよ」

 あなたも溌剌としておられてなによりです……彼を奥へと促す作家は、機嫌がよさそうだった。

 差し出されたスリッパが、少しばかりしっとりと感じられたのは――執筆に全てを注ぎながらのひとり暮らしは、なにかと気の回らないことも多くなるのだろう……彼は、ぼんやりと思った。

 そう、廊下を進むにつれ、腐敗臭とは異なるもの――なにやら鼻につく臭いがたぐまって感じられる。通りすがりに見える開け放たれた部屋やダイニングキッチンなどに、特にゴミの溜まっている様子は見受けられないというのに。

 換気が足りないのかもしれない――何度かお邪魔すれば窓を開けて回る権利くらい許されるだろうか……意識してやれば、窓のほとんどの鎧戸まで閉ざされたままだった。

「さぁ、どうぞ」

 招かれた扉の先は、数段ばかりの下り階段だった――降りきった先に、成人男性がふたりで立つには窮屈さを感じさせるほどの踊り場があり、さらに重たそうな扉が一枚。

「先生、これは……?」

「君の待機部屋だよ――なに、一時間も待たせやしない」

 がちゃり…鍵はかかっていなかったが、想像通りの重々しい金属音を響かせてノブが回る。

 びくり…覚えず身の震えたのは、嗅覚のとらえていた臭いの元がそこにあると気付くから。

 その臭いは、言い表わすなら――金臭さ。


 赤みのある灯りが使われていたが、室内は思いの外明るく――床と壁の一部は、タイル張りになっていた。

 浴室というより古い医療施設だろうと思ったのは、すぐ手前に診察台とカウチを合体させたような大きな椅子と採血などの時に腕を置く上肢台を認めたためで、それでも浴室という言葉が意識を掠めたのは、その奥にある人間がひとり横たわれるくらいの幅と深さを持ったアクリル張りの水槽のせいだったろう。他にタンクのような容器や低くモーター音を響かせる機械に繋がったそれを初見、赤黒い箱だと思ったのは――溢れるか否かのいっぱいに満たされた液体による勘違いであった。


「あの…これは……?」

「手に入れた、古い書物に記載されていた方法を試しているんだ――優しい父を作ろうと思って」

 まだ起き上がれないけど、姿はすっかりそこにいるよ……ひきつり掠れる疑問符に覚えるところはないのか、こんな光景を前にして作家は、はにかむ。

「今日予定している原稿は、少しばかりの君の血液と交換だよ」

 なにかを考えるより先に、踵を返して駆け出した――。



「編集長……!」

 戸外の陽の明るさもなんら安心材料にはならなかったが、編集部のフロアに駆け込み――見慣れた雑然とした机の群れにやっと一息吐いて、言葉を取り戻した。

 窓ぎわのデスクにいた編集長に駆け寄った彼はしかし、事の次第を訴えようとした声を再び失った。


「あの先生に、いい物書かせてあげてくれないか」


 編集長は、ひどく遠い目をした。



「だって、誰より――売れるんだ」




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