Day5 琥珀糖


「綺麗でしょ? これをあなたに――」

 先輩は、白く優美な指で赤い琥珀糖を摘まみ上げると、わたくしの唇にそっと触れさせたのでした。



 祖父母の見栄で入れられた学園は、きらきらとお美しい方々が微笑み交わす美しい花園でございました。

 お勉強は好きでしたので、専門分野にそれぞれ造詣の深い先生方のお話を拝聴できるのは大変ありがたいことでございましたが、それでも教わったことを理解するのが精いっぱいでしたし――運動はそれほど得意ではありません、お料理も子供のお手伝い程度のものでしたし、歌も踊りもとてもひと様にご披露できるものでなければ、絵心もございません。そうでなくとも、美しく輝いておられる学友や先輩方のお姿には気後れするばかりで、教室の隅になるだけ目立たないように座っているだけの日々でありました。

 もちろん、そんなわたくしにも皆さま優しく話しかけてくださり、当たり前のように仲間に入れてくださいました。

 ですので、せめて何かお役に立ちたいと――それだけは幾度も誉めていただいたことがございます、字の形の美しいことにだけは少しばかりの自信を持っておりましたので、毎朝、いの一番に登校しまして、黒板の隅のその日の日付とお当番のお名前を書かせていただくことを使命と独り決めして、続けさせていただいておりました。どなたにも、わたくしの帳面をお見せしたことはなかったので、級友の皆さまは「どなたの仕業でしょう?」と不思議に思われていらっしゃいましたが、課題を提出しておりました幾人かの先生方はお気づきになられていたのでしょう――黒板に記されたお当番のお名前を目に留められると、わたくしをそっと見遣って笑みを浮かべてくださることがございまして、いささか面映ゆい思いをしたものでもございました。


「ご婚約だそうですわ」

「それはおめでたいこと」

 学園には、ただお金持ちであると言うだけではない、良家のお嬢さまも通っておられたので、ご婚約やご婚礼を期に学園を去られる方もしばしばいらっしゃいました。ご家庭同士のご都合もおありなのでしょう――学園中の憧憬を集める一芸秀でた先輩方には、近頃お姿を拝見していない…など思っておりますと、あとあとに、実は……と知らされることも少なくはありませんでした。

 そんな中、理事長先生の御令嬢にして学園長先生の末の妹でいらっしゃるその先輩は、御幼少の頃に両家で約束を交わした許婚がふたつ年下でおられることもあり――卒業まで学園を去ることは致しません……と宣言をなされ、生徒会長としてわたくしたちの模範となり導き手となる任をお引き受けになったのでした。


 その先輩から、お茶のご招待をいただくことがあるなど――夢にも思っておりませんでした。

 担任の先生を経て届けられた招待状には、丁寧なお手紙まで添えられていて――わたくしの字の形を褒めてくださり、また朝のわたくしの日課にも目を止めてくださっておいででした。そのうえで、注目されるには気おくれの過ぎるわたくしを思いやって、ふたりきりで内緒のお茶会にいたしましょう……と、お誘いくださるのでした。

 なんと嬉しく、ありがたいことでしょう……。

 約束の日時――わたくしは、お礼の花束を手に、先輩が特別に使用しておられる放課後の生徒会長室を訪れました。

「ようこそ。今日の日を心待ちにしておりましたわ」

 白い肌に睫毛の長い黒目がちな目元、すっきりと控えめな鼻梁にふっくらと赤い唇――すらりと高い背に、ブルネットと呼びたくなる緩やかに波打つ豊かな黒髪を流した先輩は、西洋の童話に出てくる王女様のようです。

 それでいて、わたくしを安心させてくださろうと、まるで気さくに微笑まれるのです。

 部屋の奥、窓ぎわのソファへと招かれ――わたくしは、天にも昇る気持ちだったのでございます。


 それに気付くまでは……。


 白地に花模様の茶器の揃えられたテーブルには、美しい装飾の施されたボンボニエールがふたつ並んでおりました。

 それは、お茶会にふさわしいご用意以外のなにものでもないはずでした。

 最初はただ、なにごとであるか理解が及ばず――ただ、本能的に不気味なものを覚えるばかり。


 うぅ……。


 しかし確かに、うめき声のような低い声が、聞こえたのでございます。

「まぁ。お耳がよろしいようね」

 なにを言われているのでしょう?――先輩は一方のボンボニエールを手に取ると蓋を開けて、わたくしの前に差しだされます。


 うぅ……。

 うぁああ……。


「ひ…っ……」

 一層はっきりと響いた唸り声は、間違いなく――器に収まる、宝石のような琥珀糖から聞こえているのです。

「そんなに怯えては、可哀想ですわ」

 先輩は、翡翠色のそれをひとつ指先に捉えると、窓からの陽に透かしてご覧なさいます。

「これは、あなたの組の方だったかしら」

 そこには、うっすら――ゆらゆらと揺れる人影が浮かび上がっておりました。

「和歌をお読みになる方でしたわね。ご自分でお読みになるお歌も巧みでしたけれど、吟じられる節も景色が目に浮かぶようにお上手でいらっしゃって――」

 かり、かりり……。

 先輩の白い歯が、琥珀糖の乾いた表面を噛み砕かれ……。


 ――……!


 音にならない悲鳴が聞こえたように思いまして、わたくしは思わず手で耳を塞いでおりました。

「あら、あら。聴いてくださりませんの……?」

 くすくす…隙間から滑り込む、愉悦の笑み含んだ先輩の声――『よをこめて』……百人一首にも収められたお歌を吟じられる、その節回しはまさに幾度も耳にいたしました、級友のそれに他なりませんでした。

「他にもまだ、いらっしゃいますのよ」

 それはつまり、学園を去ったと思われていた優秀な先輩方や学友たち――と、いうことなのでしょう。

 そして――。

「わたし、あなたのお筆跡が欲しんですの」

 もうひとつのボンボニエールには、ただ透明な琥珀糖――。

「一度には、たくさん食べられませんけれど――いけませんわね、せっかちで」

 だって、誰かに取られてしまっては嫌ですもの……しばし迷うそぶりを見せた指先は、赤い琥珀糖を選んだようでした。


「綺麗でしょ? これをあなたにしましょう」


 先輩は、白く優美な指で摘まみ上げたそれを――わたくしの唇にそっと触れさせたのでした。


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