Day4 アクアリウム


 あれ以来、巨大な水槽が――怖ろしい。


 大学二年生の夏だった。

 彼女と自分は、傍から訊かれるたびに「付き合ってなどいない」と答えていたが、互い他に交際している相手がいるでもなく――いわゆる、友達以上恋人未満の関係だった……と思っていた。

 その夏は、友人の親戚の経営する旅館と近くの浜の海の家のバイトに、彼女を含む五~六人で雇われていた。朝、食堂の配膳をしてから各部屋のシーツを回収し、昼間は海の家でのウェイターや貸し出し品の管理と整備、夕方また食堂の配膳をしてから各部屋に布団を敷きにまわる――容赦なく仕事を割り振られたが、オーナーも正規の従業員たちも気のいい者ばかりであったし、夏の海はそれだけで気分を高揚させてくれる……サークルの合宿や学校祭のようで、あのまま何事もなければキラキラとした大学時代の思い出になったことだったろう。



「え~! マジっすか? すごいじゃないですか!」

 書き入れ時の三時間を終える頃、海の家いっぱいにはしゃいだ友人の声が上がる。しきりと、すごいすごいを連発する友人に、なんだなんだと集まってみれば、一目で育ちの良さを感じさせるハンサムが、そこだけ涼やかな風が吹くような爽やかな笑顔を浮かべて友人の派手な賛辞を受け止めていた。

 ちょっと、みんなも聞いてくれよ!……興奮の気色を隠さない友人曰く、彼は海水浴客でにぎわう浜から見える岬の中腹にある大きな洋館の持ち主であるらしい。元は、彼の親の持ち物であったが、この程、彼の起こした事業が軌道に乗ったこともあり、両親には新しい別荘を贈って、子供の頃から気に入っていたかの洋館を譲り受けたものだと言う。

 育ちと見目のいいばかりでなく、仕事もできるとは――将来に漠然とした期待しか持っていなかった学生としては皆、羨むだけの実感はなく、ただ眩しく憧れるばかりであった。

「よければ、お仕事のあとにでも皆さんで遊びにいらしてください」

 ひとりで滞在しているので人恋しくて……と、気さくな誘いに学生たちは沸いた。


「わぁ……」

 日が暮れてからの大人数での訪問にもかかわらず歓迎してくれた彼は、好奇心に駆られた若者たちに請われるまま館内を順に案内してくれた最後――それこそが自慢なのだという大広間の扉を開いた。

 照明の押さえられた天井の高い室内――目が慣れてきたとき、それぞれの口からこぼれたのは多少の音の違いはあれど、一様に感嘆の声だった。

「水族館みたい……!」

 隣にいた彼女が、目を輝かせる。

 背の高い大きな水槽が広間の中に迷路を作るかのように立ち並び、薄暗がりのなか水中を照らすライトを浴びて――大きなもの小さなもの、赤いもの青いもの……さまざまな魚が、それぞれ優美に身をくねらせていた。

 『すごい』以外の言葉を忘れてしまった学生たちが、あちらこちら思い思いに水槽を覗き込む。

 主に温かな地域に住むカラフルな魚が多いようにも見受けられたが、順に見ていくうちにはクラゲの集められた区画が設けられていたり――妙に涼しく感じる一画には、クリオネのはばたく水槽まであるのには、まさに感激するしかなかったのだが……。

「しかし、お恥ずかしいことに――まだ、完成ではないのですよ」

 その奥に、ひときわ大きな水槽があるのだろうか、最奥の分厚い赤銅色のカーテンを見上げた彼の瞳は――愛しげで慕わしげな表情を湛えて思われた。

 ふと、隣りを見遣ると――彼女もまた、彼の視線を追うように重厚なカーテンを見上げていた。

 そして、そんな彼女におそらく、彼は気づいたのだ――後から、思い返せば。



 翌朝、彼女は消えていた。

 洋館からは、全員で宿に戻っていた。同じ部屋に泊まっていた他の女子ふたりは、就寝時に三人で「おやすみなさい」を言い交わしてから電気を消したという。

 ただ、すぐには騒ぎにはならなかった。

 朝食の席に着いた時、バイトの学生のうち、もうひとり――昨日、あの洋館の彼と最初に言葉を交わした友人が、現れなかったからだ。

 彼女がいないと言いかけた女子ふたりが黙り、友人が見当たらないと言いかけた男性陣も黙り――いわゆる、『微妙な空気』が流れた。

 気を遣われているとわかったし……正直を言えば、自分も少しばかりショックではあった。

 男女が、仲間の寝静まるのを待って、こっそりと部屋を抜け出した――まぁ、一般的な想像力をもってすれば……そういうことだろう、と。

 確かに、友人は彼女に気のある素振りを見せていなくもなかったし……。

 しかし、朝食を食べ終えて客室からシーツを回収して戻って来ても、海の家の営業時間が終わっても――ふたりは、帰ってこなかった。

 残された荷物の中に携帯電話がなかったので、ふたりとも身に着けていただろうはずだが、メールにも電話にも反応はなく――やがて、バッテリーが切れたのか、電源が入っていない旨のアナウンスが流れるばかりになった。

 探し回り、警察にも届ける騒ぎになったが、結局――何年も過ぎた今になってもふたりの消息は不明のままだ。



 ただ、あれ以来――巨大な水槽が怖ろしい。



 繰り返し、同じ夢を見るのだ。

 あの騒ぎの折り、あの洋館にもふたりを知らないかと訪ねて行った。

 自分も実に少しどころでなく混乱していたのだろう、その時の記憶には曖昧な部分も多いが――何事もなく館から宿に戻り、その後はあの洋館が話題に上ることはなかったのだから、そこには何の手掛かりもなかったのだ。

 だから、それはただの――自分の妄想に過ぎないはずなのだが。


 薄暗い彼のアクアリウムの最奥――赤銅色のカーテンの開け放たれた、天井まであろう巨大な水槽。

 知らず跪いた高さにある底に、濁った眼を見開いた友人の頭部だけが転がっている。

 ゆらゆらと左右に揺れる瑠璃色の薄物は、魚の尾びれだ。

 随分と大きな魚がいるらしい――視線を上げていけば、そんな方向から眺めることは珍しい、銀色のひらめく魚の腹。

 男の片腕で抱えるほどだろうか、胸に向かって太さを増していく身体には、しかし――ひらひらとはためく胸鰭の先にあるはずの鰓蓋が見あたらない。それどころか、瑠璃色の魚体の頭部のあるべき場所には、つるりと白い皮膚が延び……へそがあった。

 呆然と見上げる――これは、見てはいけないのでは……頭の隅に過るのは、危機的な警告ではなく、奇妙なほど冷静な、一般的な女性の裸体に対する羞恥心。幸いなことに、水槽の分厚いアクリルガラスに手をつき、こちらを覗き込もうとする彼女の仕草で、あらわな胸元は程よく隠されてくれていたけれど。

 そして――。

 そう。


 彼女、なのだ――。


 ゆらゆらと髪をたなびかせながら、ガラス越し――なにかの肉を銜えたまま、初めてのものを見るように小首をかしげていたそれは、彼女の顔をしていた。



 そんなはずはない。

 だから、巨大な水槽など――もう見たくない。



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