第2話 王立図書館での遭遇

 彼には母親の死も身売りも復讐も人として嫌悪や糾弾されるべき醜い部分は全て知られていた。母親のために必死で駆けていた頃の弱いところも知られていた。

 距離を置かれ背を向けられてもおかしくなかったのに、むしろ彼は忌避せず悪行の片棒を担いでくれた。


 幼馴染みという立場だけではなく、そこには深い友情があったのだろうとフレイヤは思う。


 常に隣に黙って佇む男、当時はそれが何の疑いや躊躇いもなく彼と自分の当たり前だと思っていた。


 彼が自分に抱いていた友情はまっすぐで、どこか融通の利かない忠誠心にも似ていたとも思う。


 ふと、自分が溺死した後彼はどうしただろうと疑問が湧いた。


 政務から家事一切まで器用に何でもこなせてしまう男だったので、サイコな君主一人がどうにかなったところで生きて行くには困らなかったろう。今更ながら言ってしまえば彼の方が皇帝に向いていたかもしれない。本当に人生とは皮肉なものだ。


 ボート遊びから何日か経ったある日、思い出したらどうにも気になってしまってとうとうフレイヤは王立図書館へと足を運んだ。






 王立図書館。


 そこは王都の人間なら貴族庶民関係なく誰でも利用できる開かれた公共施設だ。

 なので、フレイヤの顔を知る意地悪な貴族令嬢は勿論、庶民出の多い各家の下働き達にも身バレしないよう、パッと見ではフレイヤとわからない変装伊達眼鏡を掛けた。

 案外眼鏡で人の印象は変わるのだ。一応はフレイヤも貴族令嬢なのでアイスフォード家から侍女を連れてきていたが、閉館時間まではどこかで自由に時間を潰すように言って小遣いも渡してある。フレイヤが普段から人との交流を好まないと知るこの侍女は心得たもので何も言わずに従ってくれた。心配な顔をしてはいたがきっと人目の多い公共の場所では危険はないとも思ったのかもしれない。実際助けを求めれば駆け付けてくれるガードマン達が広い館内の各区画ごとに配置されている。


 そんなわけで、フレイヤが一人歴史書のコーナーへと向かうのは、言うまでもなく女帝ヘスティアの側近だった男――ミゲル・ヒューについて調べるためだ。


 しかし、彼についての詳しい記録はどんなに調べてもヘスティアの死後は一切何も出てこなかった。

 彼は人知れず公の場から姿を消したと言われている。

 どこへ行きどこで没したのかも不明だ。


「まあ彼の魔法能力なら、痕跡を残さないのも朝飯前だったわよね」


 近くに人のいない端っこの閲覧席でフレイヤは伸びをしながら呟いた。

 しかし、世間はミゲル・ヒューの魔法を知らない。

 魔法を使えたとすれば、それは女帝本人だったとする説が揺るぎない。

 そのせいか側近のミゲルは後ろめたい何かがあって雲隠れしたのだろうというのが歴史家達の見解になっている。


 果ては女帝を殺したのは実は彼ではないかとさえ仮説を立てられる気の毒さで。


 殺人犯の可能性などと書かれ、幾つもの書物でフレイヤはそんな説を目にして、とんだ見当違いだと内心で腹を立てたものだ。できるならミゲルはそんな最低男ではないと歴史家全員の耳元で叫んでやりたかった。

 しかし大半が没している彼らの棺桶を開けてまでそうするつもりは毛頭ない。今度はサイコな女帝とはまた違った意味でサイコだと不本意な噂が広まるだろう。


 閉館時間も迫り、フレイヤは諦めた。


「はふう、これと言った発見はやっぱりなかったかあ……」


 結局この日の収穫は何もない。無駄足だ。

 選んだ歴史書や専門書を抱えて書棚に戻しに行く。図書館職員に返却を頼めば彼らがやってはくれるのだが、フレイヤは人嫌いだ。なるべくなら他人と関わりたくない。業務上のやり取りで嘘をつくような会話に発展するとは思わないがそれでも一人で片付ける手間の方が短い会話よりもマシだった。

 職員に言わずとも返却する書物の山に積めばそれでも済むのだが、彼らの仕事を増やすのは何となく気が引けた。

 自ら書棚に返しに向かったのは、別の有意義な書物を見つけられるかもしれないという淡い期待もあったからだ。歩きながら背表紙をさらりと眺めやり、目を通してみたいタイトルの本があれば借りて行こうと考えていた。


「……全くねえ、あのミゲルが手を下すわけないじゃない。無二の親友だったんだから」


(まあ、親友ってのは前世の私の勝手な希望だけど)


 ぶつくさと呟きつつ、抱えていた重い書物の最後の一冊を戻し終えようかという時だ。


「――無二の親友って、可笑しな事を言うなあ。そのミゲルってミゲル・ヒュー、女帝ヘスティアの側近のだろう?」


 予期せずも、くすりと微かな笑い声と共に男性の声が耳に届いた。


 フレイヤはさすがにビックリして危うく本を落っことしそうになって慌てて抱え込む。相手が書棚向こうにいたせいか存在にまるで気付かなかったのだ。

 この女帝時代に関する歴史書のコーナーの書棚は二つが背中合わせに設置され、背中部分の仕切り板がないので声も割と筒抜ける。

 足音に反射的に見やれば、ちょうど書棚の切れ目の通路から見知らぬ青年が出てきて足を止めたところだった。


 フレイヤは僅かに目を瞠る。


 何とも華のある若者だった。


 見た目だけで言えば十六歳のフレイヤの二つ三つ上くらいだ。


 銀髪に深い青の瞳が印象的な彼はその両目を優しそうに細めた。


(……黒髪だったミゲルとは正反対の色ね。目も。彼は琥珀って言うか金色だったし)


 何故だか比べてしまいながらも、貴公子、好青年という言葉がフレイヤの脳裏を過る。


 そして少しの警戒も。


(こういうカッコいい人って要注意よね。……たとえば女たらしだったりするもの)


「ねえ、今のヘスティアの側近ミゲル・ヒューの話でしょ?」

「えっそっそうですけど、どちら様ですか……?」


 ぎゅっと本を両腕で抱えて内心で身構えていると、驚くべき事に近付いてきた彼は手を伸ばしてきてフレイヤの赤い髪の毛先を一房掬った。


「なっ何するんですか!?」


 初対面で不躾も甚だしい。


 およそ紳士が取るべくもない行動にフレイヤは思わず唖然とし過ぎて身動きも出来ないでいると、彼女の硬直を感じ取ったのかじっと髪の毛を見下ろしていた青年の方がハッとしてするりと毛先を放した。


「これは失礼。とても綺麗な髪だったからつい……」


 好きな色でもあるし、とそう言って誤魔化すように彼は微笑む。


(え、何? 苦労して手入れもしてる髪だし、売らないわよ?)


 伊達眼鏡の奥から薄紫色の瞳を固定し、より一層緊張を走らせていると、相手が一歩下がった。


「驚かせて悪かった。けれど本当にとても印象的な色だったから……」

「そ、それはどうも……」


 普通ならいきなり髪を触られて気持ち悪いと感じるところだが、フレイヤは彼の眼差しの中に真面目な謝罪の色と、そして悲哀を見てしまった。彼にはそんな目をする理由があるのだろうと感じれば、嫌悪は湧かずむしろどこか奇妙な感覚に囚われた。同情したいような慰めたいような気持ちだ。


(前世を思い出してからこっち、女帝になる前のお人好しだった頃の性格も影響してるのかも)


「えーと、ところで何か御用ですか?」

「ああいや、たまたま声が聞こえて興味深くてね。……変わった見解だなあ、と。君はミゲル・ヒュー推しなの?」

「え、あ、はあ、変わって、ますか……?」


 思わずろくに何も考えずにそう返していたが、フレイヤは確かにそうかもしれないと思った。今日読み漁った歴史書のどこにもミゲルと女帝が親友だなどとは書かれていないのだ。つまりはフレイヤの呟きは世間一般的な認識からは少々逸脱した奇異な意見なのだろう。

 目の前の青年はもしかしたら歴史研究者か学生か何かなのだろうか。だとすれば下手な物言いをして怒らせても上手くない。余計な会話を続ける羽目になるのは御免だ。


「えっとその、推しと言うよりは、私の勝手な希望というか……――すいません!」

「あっ、ちょっと?」


 フレイヤは抱えていた本を自分でも何故か咄嗟に青年に押し付けるや踵を返してそそくさと立ち去った。ミゲル・ヒューへの歴史的な認識はわかったと言うか習った以上の情報はなかったし、女帝死後の足跡も皆無というのが変わらない現状だ。しばらくはもう図書館に来なくても構わないとさえ思う。

 変装眼鏡もしているし元々が知らない相手なので青年とももう会う事はないだろう。

 まるで本能的に厄介な相手から逃げるような心地で早足になりながら、反射的に本を押し付けてしまったのを失態だと内心頭を抱えた。


(だけど、きっともう二度と会わないだろうし、変なトラブルは招かないはず)


 閉館時間間際で入口の所に侍女が馬車を待たせてくれていたのは助かった。さっさと乗り込んでレッツ帰宅だ。


「ふう……」


 ホッとしたように息をついたフレイヤを侍女は訝ったが、やはり普段から会話を好まないフレイヤの気質を思いやってか何も訊ねてはこなかった。






「ミゲルが無二の親友、か」


 赤毛の令嬢は家名のヒューではなく個人名のミゲルと親しげに呼んでいた。余程かの側近に好意を持っているのだろう。本当に奇特な事だ。

 令嬢が去りまもなくして閉館時間が訪れた図書館内。青年は女帝やその時代の歴史書の並ぶ書棚の前に依然立ち、押し付けられた古い本の手垢でテカった装丁を意味なく撫でる。

 その指先が本側面に滑ると適当なページで開かれる。

 パラパラと捲られた古いページがある場所で止まった。


「世の中には奇特な私見を持つ子もいるんだね」


 そのページには女帝の風刺画が載っている。長い髪を幾匹もの蛇に変え広げて人々を食らわんとしているふざけた絵だった。当時の世相から生まれたものだろう。

 青年はフンと鼻を鳴らした。


「いつの世も、人々はよく知りもしないで好き勝手なものを描く」


 冷たい蔑むような眼差しだ。

 一国を牛耳ったというのに女帝ヘスティアの肖像画の一切は残されていない。優れた美貌を持っていたなどと特徴を記述されてはいても、そこはやはり想像にも限度があるので本当の顔など知りようもない。現存している女帝の絵と言えば風刺画が精々で、それらも面白可笑しく誇張されていて実像とは程遠い。

 彼は銀の長い睫をやや伏して、そのセピア色に印刷された風刺画に見入るようにした。


「まさにあんな色の……」


 指先が手触りを思い出すように一度ピクリと痙攣し、小さく呟く彼の睫が微かに毛先を揺らした刹那、ちょうど足音が近付いてきた。気付いて静かに書物を閉じると同時に足音がすぐ傍で止まった。


「殿下、そろそろ戻りませんと」

「ああ、わかっているよ」

「……ところで、先程の女性と何かトラブルでも?」


 やり取りをどこかから見ていたのだろう、横から声を掛けられた青年はくるりと声主を振り返ると微笑んでみせた。


「いや別に何もないけど、稀に見る私見の持ち主みたいでね、物珍しくて」

「左様ですか」


 彼に仕える護衛の男性はそれ以上は掘り下げなかった。トラブルがないのなら詮索は無用と思っているのだ。


「表に馬車を待たせてあります」


 さあお先にどうぞとの慇懃な所作を添えての無言の促しに青年がやれやれと軽く息をついて歩き出す。


「ああ、そう言えば帰国したんだし、ヴィンスに連絡しておかないとなあ」

「では、先方に遣いを出しておきましょう」

「よろしく頼むよ。ああ、まだ身分は伏せていてくれ」

「畏まりました」


 既に職員と彼らしかいない閑散とした図書館内を、革靴の規則正しい足音が外へと向かった。

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