前世悪女は癒したい

まるめぐ

第1話 前世は悪の女帝

 アイスフォード伯爵令嬢――フレイヤは、突如恐ろしい前世を思い出した。


 自分はおよそ三百年前、数多の殺戮をし、沢山の嘘を重ね、多くの国を滅ぼし自国さえも滅ぼしかけた血も涙もない悪魔と呼ばれた女帝だったと。


 しかし彼女はそう呼ばれただけで実際の悪魔ではない。人間だ。悪魔は存在するらしいがフレイヤは前世でついぞそのような存在に遭遇した記憶はなかった。

 会っていたなら彼女は魂を売ってでもとある願いを叶えただろう。


 ――母親の病を治す、或いは時期が違っていれば生き返らせる、というその願いを。


 眉一つ動かさず指先一つで斬首を通告し王宮の誰をも震え上がらせた残酷な女帝、女皇帝ヘスティア。

 時に不可解な交渉術を用い女として皇帝の座にまで上り詰めた歴史的強者兼悪女たる彼女は、何と貧民の出だった。

 だからこそ貴族であればおそらくは完治していたであろう母親の病も治せなかったのだ。


 女帝になるずっと前、彼女は物心付いた時からずっと母親の病気が治る事を天に祈っていた健気な娘だった。


 しかも特効薬があると聞いては騙されて金品を巻き上げられ、彼女自身のパン一つ買うのにも難儀する生活を送っていた。

 ある時は伸ばしていた大事な髪を売り自身の手足に霜焼けを作ろうと冬場の水場仕事を率先して引き受け、そのせいで熱を出してうなされようと彼女は全ては母親のために痛みも苦しみも我慢した。熱を出そうとも彼女の体は丈夫だったようで重篤な状態にはならず薬要らずだったのは幸いだったかもしれない。

 そうやって高い薬を手に入れても、母親は一向に良くならなかった。


 何故ならその薬はどれも偽物だったからだ。


 彼女は本当に何度も何度も何度も騙された。


 何も教訓を得ていなかったと言われればその通りだが、最愛の母親のためにも諦められなかったのだ。良い薬があると言われればそれを愚かにも信じその身を売ってでも代金を工面した。彼女はどこまでも優しすぎたのだ。母親がいない人生など当時の彼女には考えられなかった故に。

 母子二人だけの家族で、彼女にとって母親が世界の全てだった。


 彼女は母親のために今度こそは次こそはと希望を胸にしていたが、結局誰一人として本当の治療薬をもたらさなかった。


 そうしてとうとうある日、最愛の母親が死んだ。


 彼女は心から絶望して絶望して絶望して、今まで全てが嘘偽り、虚偽、騙りだったのだとようやく悟った。


 もう失うもののなかった彼女において、その怒りは完全に根本から彼女を変えた。恨み骨髄とはよく言ったものだ。


 自分を騙した者達を全てなぶり殺し、母親を見捨て死なせた憎き貴族社会をメチャクチャにしてやろうと決意した。


 つまり、社会形態のほとんど同じだった近隣国も含めた自国一帯を滅ぼそうとした。


 年頃になった彼女はその美貌を使い、巧みな話術を駆使し、人心を操った。

 彼女は貧困時代に高値で売りもした血のような深紅の赤毛が人を惹き付けて止まないとても美しい娘だったので、まもなく大貴族の愛人になり、ほとんど経たずにそこの女主人に取って代わり、果ては若くして当主を尻に敷いて王宮にまで影響力を及ぼすようになった。

 当然、女達からは妬み、権力者達からは賤民生まれが生意気だのと言った嫉みに晒されたが、しかし腹黒さや邪魔者を排除する迅速さと躊躇いのなさでは群を抜いていた彼女が手酷い目に遭うわけもなく、故に俗に言う返り討ちにするという概念の出来事さえ起こらなかった。起こる以前に皆再起不能になっていたせいだ。

 その破竹の勢いでの下剋上は紛れもなく彼女の知略や話術など彼女自身の実力だ。


 周囲は彼女には心を操る魔法が使えるのだと言ったが、真実の彼女はどのような魔法も一切使えなかった。


 そんなものを使えていたなら、巧く自身の交渉材料の一つにでもしてとっくに母親を救っていただろう。

 彼女は時の皇帝からも重用され、寵愛され、最後には皇后の座にまで登り詰めた。

 その間、大貴族の愛人となってから三年と経っていなかった。


 そして、その後間もなく皇帝が急死し誕生したのが美しき若き女帝だ。


 皇太子はいた。しかし彼は皇帝にはなれなかった。


 皇帝の座はこれまでと大きく異なる。如何に魅力的であり手腕に満ち溢れた者でも血筋でもない女が簡単に就ける地位ではない。だのにどうして彼女がなれたのか。


 そこには確かに彼女に有利に働く魔法が存在していた。


 彼女の力ではない魔法力が。


 魔法を使えたのは彼女の側近だった。


 必要とあらば人心を操る魔法を使うよう彼女が側近に命じていたのだ。


 自国統治のみならず近隣の王達を束ねる帝国君主になってからは、侍女ですら常には傍に置かなかった彼女が唯一心を許し傍に置いた人物、それが側近の男だ。


 年齢も近かった。


 しかし男女の仲では決してなかった。


 絶対君主に君臨し、果ては当時の大陸各地を悉く蹂躙し滅ぼしかけた彼女の心には最早子孫存続や繁栄の本能的な欲求すら無かったので、女皇帝に座して以降は誰ともその手の関係にはならなかったのだ。既に内面は修復不能に壊れてしまっていたと言っていい。

 誰が泣いても懇願しても無味乾燥も同然で、次にはもう眉一つ動かさずあっさり首を落とすよう命じていた程に。


 そんな彼女の死は全くの唐突だった。


 浴槽で一人で溺れた。


 とても酔っていたせいだろう。


 だから意識朦朧とする中、花弁を浮かべた浴槽の水に沈んでいく感覚が前世の記憶の最後だ。


 ――その前世と同じく、今世でも水に沈んで息が苦しくて死にかけたからフレイヤは前世を思い出したのかもしれない。


 どうして今世でも溺れそうになったのかは、仲良くもない令嬢達からふざけて、いや悪意で以て池に落とされたからに他ならない。


「はあっはあっはっ、はあっはあっはあっ……はっ……うっ……げほっげほっ」


 水を吸ってすっかり重いドレスをどうにか引き摺って岸に這い上がったフレイヤは、ボート遊びにわざわざ誘ってきてそのボートの上から自分を突き落とした令嬢達が底意地の悪い笑みを浮かべているのを振り返って見やった。


 水深はフレイヤでも立って肩より上が出る程に浅い人工池だ。


 しかし人によっては転落時の動転が過ぎて立てる程に水深が浅いのも悟れない場合がある。もしもフレイヤがその手のパニックを起こしていたなら下手をしたら死んでいたと言うのに、彼女達に全く悪びれた様子はない。


「嘘つきには良い薬になったのではなくて?」


 ボートの上の誰かがそんな台詞を吐いて残りの令嬢達は追従した。くすくすくすと嫌な笑いが聞こえてくる。

 座り込んでいたフレイヤはのろのろと立ち上がると濡れそぼった赤毛を絞りながら俯いた。これまでだったなら悔しくて悲しくて惨めで涙目で唇を噛んだだろう。

 しかし今、その顔には息苦しさからの生理的な涙はあるが怒りも悲しみもない。強いて言えば呆然としたものがあるだけだ。


「そうだったんだ。だから私にはこんな体質があったのね。前世の業……天からの罰が……」


 きっと前世で犯した罪を償わせるために。


 嘘つき呼ばわりされたフレイヤだが、彼女は嘘が死ぬほど嫌いだ。


 他人の嘘を聞くと嘘の程度にもよるが体にチクチクと痛みが走るからだ。


 しかも悪意ある嘘ほど痛みは大きくなる。


 だから自分では決して嘘などつかないし、よく嘘をつく人間の近くにも自然と寄らないようになっていた。大なり小なり幼い頃フレイヤの周りにいた同じ貴族の子供達は嘘を平気で口にしてフレイヤを酷く苦しめる存在だったので、痛みのない快適な生活のためには別段それでも構わないと、いつしか独りがベストだと悟っていた。

 そのせいか今では本当の意味での親しい友人の一人もいない。

 今日のように善からぬ企みをしてボート遊びに誘ってくるような連中ばかりだ。

 そこはそことして、前世を思い出した事で今まで理不尽だと感じていたもの謎だったものが心から納得できた。


「ああ、本当にだから私は……」


 今度は胸が痛くて痛くて痛くて、溢れ出る涙を髪から滴る水に紛らせた。

 岸から一人ずぶ濡れのまま先に帰る羽目になったが、ボートには漕ぎ手以外は令嬢オンリーでと言われて仕方なく馬車で待機させていた侍女や御者にぎょっとされても、これまでのように惨めだとは思わなかった。真実を理解したからだ。


(……蓋を開けてみれば、いつの時代も下らないプライドばかりだわ)


 一瞬だけ、馬車の中で俯いた瞳から一切の感情が消える。思い出した前世に思わず感情が引き摺られてしまった。ハッとして瞬いた後にはいつもの自分に戻っていた。気遣わしげにして寄り添ってくれている侍女に見られていなくて良かったとホッとする。


(ああ、風邪を引かないようにしないと)


 フレイヤが寝込めば傍に付いていられなかったせいだと二つ年上のこの優しい侍女は自分を責めるだろう。嘘の一つもつかない彼女を気に病ませてしまうのはとても嫌だった。


 その日からフレイヤ・アイスフォード伯爵令嬢は何かが少しだけ変わった。


 ただそれは傍目にはわからない内面の変化だったので、家族でさえ気付く者はなかった。






 前世がどんな悪人でもフレイヤの善は変わらない。


 だから、前世の悪行を冷静に振り返る。

 言うまでもなく眉をひそめる事ばかりで、吐き気さえ催す記憶もあった。

 辛い過去世には涙さえ流した。


「母さん……」


 一人寝室で前世での母親を思うと堪らない。救えなかった大切だった人。失い自らの人格さえ変えてしまった程に心から愛していた母親。

 勿論現在の家族も同じくらい大切で、もしも同じように病気になったなら自身の何を費やしてでも救おうとするだろう。

 たとえ命でも。


「今の私ならきっと救えたのに……」


 かつては力がなかった。傷一つ治せなかった。


 そう、かつては。


 昼間岸に上がる際に擦りむいた手の傷はもうすっかりない。


 フレイヤ・アイスフォードには罰の他に祝福もある。


 治癒能力だ。


 力が発現したのは十四歳の頃。今回もフレイヤを水に落とした意地悪令嬢達と避けられないピクニックに行って山中に置き去りにされ、道に迷った挙げ句崖から落ちて死にかけた時だ。

 死にたくない、死んで堪るか、との反骨精神が何に作用したのかは知らないが、力に目覚めたのだ。

 悪の女帝としてであれ人間一度確かに死んで、折角奇跡的に転生できたのにまた死んでしまうのを天は憐れに思ったのかもしれない。前世の記憶を取り戻したからこそそんな考えも浮かんだ。

 ただ背景がどうであれ、当時のフレイヤは傷を治してその後急いで自力で下山した。ドレスは酷く泥や草で汚れ破れてもいたのにほんの切り傷の一つもなく綺麗に無傷だったのには、家族も喜んではいたが不思議がってもいた。


 フレイヤは治癒魔法を使えるようになったとは言わなかった。


 だからまだ家族も知らない。

 たとえ家族でも時に大なり小なり嘘をつくのをフレイヤは共に生きてきて嫌と言う程知っている。故に完全には信用していないからだった。

 事実が知られればきっと望まない方向へと環境が変化するだろうとも予想できたせいもある。


 十中八九、家族と引き離される。


 そして稀有な治癒魔法という能力が故に、魔法使いが集うと言われる魔法塔でのトレーニングと生活を余儀なくされるか、聖なる力だとして教会の監視下での暮らしを強制されるかのどちらかだろう。


 まだ成人年齢に達していないうちは、いくら本人でもフレイヤに選択権はないのだ。


 人生を勝手に決められるのは避けたかった。


 けれど、治癒能力を使わないのは宝の持ち腐れだ。

 だからこそその頃から誰にも言わず密かに病める者や傷付いた者を癒してきた。フレイヤの心がそう望んだからだ。

 人々を助けたい、と。

 彼女は目深にフードを被って夜な夜な屋敷を抜け出しアイスフォード家管轄地にある貧民街の怪我人病人に特に重点を置いて治していた。

 受けていた家庭教師の授業から、彼らのような貧しい者達は薬を買えない場合も珍しくなく、そして病気や怪我さえ治れば働いてより良い暮らしを目指せるとの現状を学んでいたからだ。


 今やすっかり屋敷の抜け出しはお手の物だし、暗い路地裏や貧民街を目立たずうろつくのも板についた。


 そこの住人もローブ姿の何者かが自分達の治癒者だともう理解しているので、下手な詮索や乱暴をしてこないというのもある。


 お忍び行動を開始した初日に、奇しくも貧民街で幅を利かせていた男の命を救ったのも手伝って、ボスの恩人に手は出すなとの厳命が伝わっているようなのも身の安全に一役買っているのだろうとフレイヤは思う。男を助けた偶然に感謝だ。


 そんなわけでフレイヤは素性こそ明かしていないがここ数年来、貧民街の者達とは顔馴染み、いやローブ姿馴染みの仲になっていた。或いは声でもわかるのかもしれない。


 全てを思い出してみれば、貧民を取り巻く現状には覚えがあるし、魂が無意識にそうさせていたかのように思い出す前の行動力も前世と比較して遜色はなかった。


 暴君でしかなかったものの、それでも一応は為政者経験の記憶という知識を得て、この先はもっと上手くやれるだろうとも思った。


 しかしその行動目的はまるで魂が償いを求めていたように正反対。

 女帝だった時の自分は、まさか次の人生があってその生で自分に治癒魔法が使えるようになるなんて思いもしなかった。そもそも癒しとは対局の場所にいた。


 よく魔法を使える者を羨んだものだったが、魔法が使えたのは側近の男だったのは天の皮肉としか思えない。


 彼は同じ貧民街の出で、事あるごとに共にいた頼れる幼馴染みでもあった。


 ただ、彼が魔法使いの力を覚醒させたのは、前世の母親が死に前世のフレイヤが壊れた後だったが。


 そう言えば、側近の彼はどうして終始自分と共に居てくれたのか今考えると全くの不思議だった。

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